三国志の超世の傑乱世の奸雄曹操孟徳の親衛隊長は、典韋です。
典韋は、任侠心を見せるために、一旦は偽装したのです。曹操の親衛隊長を務めるくらいなので、ひとりでもかなりの能力があったのでしょう。
典韋は曹操から、あだ名で呼ばれていました。いにしえのパワー系のあの人です。
そして、曹操の部下には、典韋クラスの勇者である許褚もいます。天下に号令をかけようとする偉人には、勇者が何人も集うのでしょう。
また典韋は、武勇で最強と評されることも多い呂布奉先の軍と戦ったのです。曹操も典韋がいたおかげで、呂布の武勇能力を防御出来たのでしょう。
三國志の典韋を詳しく解説していきます!
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目次
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任侠敵討ちで豪気な強さを魅せた典韋の笑裏蔵刀
三国志の典韋は、義侠心を示すために、仲間の多い人物を欺いて白昼堂々打ち取りました。
兵法三十六計に、本当の目的を隠して勝機が近付いたら豹変する、笑裏蔵刀(しょうりぞうとう)がありますが、典韋は上手くこの兵法を利用したのです。
そして、典韋は殺人したことで付け狙われていましたが、典韋は攻撃が来る度に撃破したので、結局セーフでした。
また、人並外れたパワーを持っており、大きく重い旗を唯一上げられたのです。典韋がいるだけで、曹操に降伏した武将も多いのではないでしょうか。
曹操は人材収集家なので、典韋のような一芸に秀でた武勇の士は、喉から手が出るほど欲しいのでしょう。
典韋は、豪気で義侠な人物で、凄いパワーも有していました。
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鴻門の会の勇者樊噲な典韋
悪来典韋は、三国志の作者から、勇敢な樊噲(はんかい)に近いと評価されました。
劉邦が、覇王項羽よりも自らの出世を優先していると考えたため、鴻門の会で詰問が行われたのです。
このままだと、項羽たちが将来の禍根を無くすためにも、劉邦を打ち取る可能性があるため、樊噲はすごい迫力の形相で、項羽を見ました。
項羽自身も覇王と呼ばれるほどの人物なので、樊噲に興味を持ち、酒と豚肉をたっぷり与えたのです。
樊噲が豪快に飲み食いして、項羽が気を取られている隙に、劉邦は脱出しました。
誰か一人でも味方に、典韋や樊噲のような勇者がいると、大事業を成就しやすいでしょう。
劉邦を保護した樊噲に似ていると称されたのが、三国志の典韋でした。
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人材収集家曹操から悪来とあだ名された典韋
三国志の典韋は、いにしえの豪傑悪来に似ていると、評価されていました。
悪来は本名を嬴来(えいらい)とされており、力任せに思い付きで人に危害を加えていたため、悪来と呼ばれるようになったのです。
そして、殷の紂王に悪来は仕えていたのですが、紂王は上辺の力を好み悪来も悪を行うため、結局は周の武王に滅ぼされました。
曹操は時代を超えた英雄と称された人物なので、曹操ならいにしえの悪来も、典韋のように良い活躍をさせられたのかもしれません。
ちなみに、始皇帝は、本名を嬴政と言うのですが、悪来の子孫という話があるのです。始皇帝は悪い評判も多いので、悪来の末裔だからなのでしょうか。
典韋は曹操孟徳から、昔の怪力な人物である悪来が蘇ってきたと、評判でした。
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典韋は孟賁や夏育や武蔵坊弁慶クラスの最強能力
三国志の悪来典韋は、優れた武勇で知られる孟賁や夏育や武蔵坊弁慶にも、近いと言えるでしょう。
孟賁と夏育は、いにしえの中国のパワーのある勇士です。
パワーに優れた人物がいると、孟賁や夏育のようであるという言い方で、かなり登場します。
そして典韋は、曹操を宛城から脱出させるために、犠牲となって何本もの矢を射られたのです。
武蔵坊弁慶も義経を守るために、矢をかなり射られたと伝わっているので、最後も似ているのでしょう。
弁慶の立ち往生としても、有名な最期です。忠臣とは、弁慶や典韋のことを指すのでしょう。
典韋は、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)や孟賁(もうほん)や夏育(かいく)のような武勇能力を持っています。
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曹操の女好きが死因となり典韋も死亡
三国志の曹操は、降伏した張繡の親戚の女性を欲して、宛城の張繡から恨まれ、寝首をかかれそうになったところ、典韋が盾となり助かりました。
張繡が降伏したとして、典韋も油断していたので、お酒を楽しんでいました。
張繡は、曹操を攻撃する際に、典韋が強力な妨げになることを予測していたため、典韋の武器をこっそり奪っていたのです。
ちなみに、張繡は曹操に降伏し、しかるべき地位を与えられています。
張繡の軍師賈詡が、曹操は強大な勢力と戦っており敵を味方にしたいため、張繡が仇敵だからこそ厚遇されると、見抜いていたのです。
張繡(ちょうしゅう)が豹変した際に、典韋も健闘し曹操を逃がすことに成功したのですが、典韋は壮絶な最後を遂げました。
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無中生有の兵法で許褚を捕らえた典韋と曹操
三国志の典韋は、許褚のパワーを気に入った曹操のために、偽装退却を行い許褚を確保しました。
兵法三十六計に、わざと手の内を見せて自分に有利な状況を創り出す、無中生有(むちゅうしょうゆう)がありますが、この兵法を使ったやり方でしょう。
そして、典韋は悪来と呼ばれていましたが、許褚は虎痴があだ名だったのです。
許褚は、凄いパワーを持っているわけですが、頭はあまり良くなかったため、虎痴と名付けられました。
また、西涼に錦馬超がいたのですが、許褚と対面した際、あまりの威圧感に身動きが取れなくなったのです。
馬超も、武勇に長けている将軍だったわけですが、許褚はそれ以上の存在感なのでしょうか。
ちなみに、典韋だけでなく許褚も、樊噲と評価されていました。
許褚仲康(きょちょちゅうこう)は、悪来典韋と同じくらいの剛力でしたが、賢人ではなかったのです。
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人中の呂布と激突した悪来典韋と字と息子
三国志の典韋は、飛将呂布の軍勢と戦い、多くの矢の中奮戦し、呂布軍を押し返しました。
猛将で知られる最強呂布奉先と赤兎馬も、怪力悪来典韋には圧倒されたのです。
そして、典韋の字はハッキリしていません。昔の人ですから、字が無い人もいたのでしょうか。
また、典韋の息子は典満で、曹操や曹丕からも信頼されていました。
父の典韋が曹操を守って最後を迎えたので、曹操や曹丕も、典満を厚遇しなければならなかったのでしょう。
もしも典韋が、曹操ではなく自分の身が可愛いと感じていたら・・・
最強能力な呂布奉先の軍勢に、一歩も引かずに戦った勇者が悪来典韋で、息子は曹操や曹丕からも大事にされた典満です。
⇒呂布奉先とは!伝説的強さ最強、実在?最後死因、妻、読み方も解説
まとめ:三国志の典韋(てんい)、悪来並みの最強な強さ
三國志の典韋がどれくらいパワフルで、悪来な武勇を持っていたかを解説しました。いにしえのことを知っていると、とっさにあだ名を付けられるでしょう。
典韋と許褚が、曹操の部下として武勇を競ったことも説明しました。本気で典韋と許褚が戦った場合、どちらが勝つのでしょうか。
曹操は、軍師や賢者だけでなく、勇者や武勇の士もコレクションしたくなる偉人だったのです。
そして典韋は、曹操の女遊びが死因となったことも述べました。英雄は色を好むと言いますが、典韋は本当に残念な最期と述べられるでしょう。
また、孟賁や弁慶とも典韋は、仲間と言える事も書きました。武勇能力を頼みとして名を残した偉人も、たくさんいるのです。
怪力や剛力やパワーや武勇が気になる人におすすめな人物が、典韋でしょう。