そうじん三国志!曹仁最強能力、八門金鎖の陣、関羽徐庶、周瑜も解説

三国志の超世の傑曹操の部下曹仁は、樊城の戦いで、最強なディフェンスを見せました。

曹仁は樊城の戦いで、鉄壁の防御により、武神関羽の水攻めに対抗したのです。関羽は曹仁を倒せなかったことで、後にあえない最期を遂げてしまいました。

そして曹仁は、曹操配下の名将張遼以上に最強、と評価されているのです。張遼がいたからこそ、合肥の戦いで孫権に勝てたわけですから、曹仁の凄さも自ずと伝わって来るでしょう。

また曹仁が、最強な八門金鎖の陣の使い手だったことも、説明していきます。張遼以上の曹仁なら八門金鎖の陣で、劉備にも簡単に勝ったのでしょうか。

三國志の曹仁を詳しく解説していきます!

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樊城の戦いで関羽が水攻めを行いましたが曹仁は上手く防御しました

三国志の曹仁は、定軍山の戦いの勝利の勢いに乗った関羽の大軍と水攻めの中、見事な籠城を行ったのです。

曹仁の主君曹操は、関羽対策として、歴戦の勇将于禁と猛将龐徳を派遣しました。

しかし関羽は、水を巧みに操り于禁軍を降伏させ、龐徳にも最後を与えたのです。

正に万事休すとなりましたが、曹仁は厳酷に軍勢を取り締まることで、関羽軍に対抗しました。

また、春秋戦国時代に斉が、諸葛亮の憧れの楽毅軍からの猛攻を耐え抜いたことで、挽回した状況と、樊城の戦いは似ているでしょう。

関羽は、義兄弟の劉備玄徳(りゅうびげんとく)が定軍山の戦いで勝利したため、樊城の戦いを行い、曹仁を水攻めによりかなり追い詰めました。

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徐晃は関羽に勝ち曹仁を樊城の戦いで救出したので周亜夫に似ていると高評価されました

三国志の曹仁は、関羽の水攻めの中、固く防御したため、徐晃の援軍の救出を受けられたのです。

曹仁の主君曹操は、徐晃の樊城の戦いでの功績を、呉楚七国の乱の英雄周亜夫クラスと述べました。

そして曹仁を助けた徐晃は、樊城の戦いの際に、武神関羽に一騎打ちでも勝利しているのです。

徐晃は関羽と親しい間柄でしたが、公私混同せずに全力で関羽と勝負しました。

また、徐晃が長駆攻撃し関羽に勝ったことを、曹操は大兵法家孫子以上と絶賛したのです。

曹仁は樊城の戦いで、最強な防御を展開し武神関羽雲長(かんううんちょう)に抵抗したので、徐晃公明(じょこうこうめい)が呉楚七国の乱の周亜夫な活躍を見せられました。

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合肥の戦いのかっこいい張遼以上で最強な夏育と孟賁クラスと評価されていた曹仁

三国志の曹仁は、泣く子も黙ると称されていた張遼以上に最強で、いにしえの豪傑孟賁と夏育に比肩すると伝わっています。

孟賁と夏育は、剛力な武人として評判であり、曹仁の武力も二人に近いとされていたのです。

そして張遼は、合肥の戦いで呉の孫権が大軍で押し寄せた際に、少ない軍勢にも関わらず打って出ることで、孫権を退却に追い込んだ武将と言われています。

曹仁は、張遼のような派手な勝利はありませんが、最強な防御で曹操を助けているため、張遼以上の武将と述べられるのでしょう。

曹仁は、合肥の戦いの英雄張遼文遠(ちょうりょうぶんえん)を超える最強武将なだけでなく、伝説的な武勇で知られる孟賁と夏育にも劣らない、とされています。

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曹仁は最強な武将なので黄鬚な曹彰からも参考にされていました

三国志の曹仁は、鮮卑の軻比能を軍門に降らせた曹操の息子の曹彰からも、敬われていたのです。

曹操の息子の曹丕は、曹彰が異民族征伐を行う際に、曹仁のやり方から学ぶべきと述べました。

そして、曹仁を参考にしていた曹彰は、匈奴討伐の英雄衛青と霍去病にも憧れていたのです。

曹彰は、異民族討伐で大戦果を獲得したので、夢を叶えたとも言えるでしょう。

また曹彰は、武勇に秀でていたため、曹操の後継者曹丕から警戒され、失意の内に最後が訪れてもいます。

曹仁は、曹操の子供で曹丕子桓(そうひしかん)の兄弟の黄鬚曹彰子文(そうしょうしぶん)からも、お手本にされるほどの最強武将だったのです。

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李典の献策を取り入れず劉備の軍師徐庶から八門金鎖の陣を破られた曹仁

三国志の曹仁は、最強な八門金鎖の陣を展開しましたが、劉備の参謀の徐庶に負けました。

曹仁の主君曹操は、劉備軍の手強さが分かり、軍師程昱の策で徐庶の母親を活用し、むしろ徐庶を味方に迎えたのです。

そして劉備軍からは、徐庶という難敵がいなくなったのですが、更なる強敵の諸葛亮を劉備は三顧の礼を登用しました。

博望坡の戦いで、曹仁たちは今度こそは劉備軍に勝とうとしましたが、諸葛亮の偽装退却と火攻めの策の前に、再び敗北したのです。

曹仁は、八門金鎖の陣で最強攻撃を行いましたが、劉備の軍師徐庶元直(じょしょげんちょく)に攻略され、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の策にも敗れました。

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赤壁の戦いの雪辱のために曹仁は周瑜に致命傷を与えましたが最後は負けたのです

三国志の曹仁は、美周郎でイケメンな周瑜に勝つ寸前でしたが、最終的には荊州を奪われました。

そもそも周瑜は赤壁の戦いでも、偽装投降を行い火攻めを成功させるほどの策士、だったのです。

荊州戦でも、曹仁の猛攻で周瑜は、最後が来たフリを行い、結局は曹仁軍に勝利しました。

そして、曹仁が忍耐強く待った樊城の戦いでは、関羽に結果的には勝っているのです。

曹仁は周瑜との戦で、関羽に勝つ方法を習得していたのかもしれません。

また周瑜は、関羽を部下として率いられれば、偉業を成し得ると述べるほど、関羽を高評価していました。

美周郎は、曹仁から最強な攻めを受け、最後を迎えそうになりながらも、イケメン周瑜公瑾(しゅうゆこうきん)な策で勝ったのです。

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潼関の戦いで錦馬超の猛攻を防御し続けた最強な曹仁

三国志の曹仁は、勇猛で知られる錦馬超の攻撃を、曹操到着まで耐えました。

曹仁は樊城の戦いで見られるように、防御戦が達人クラスなのでしょう。

そして、曹操の部下には、曹仁以外にも虎痴許褚がいたのです。

馬超は武勇に長けていたので、曹操と会見した際に、曹操を斬るつもりでしたが、許褚のオーラで身動きが取れませんでした。

また、曹操の配下には、武勇に優れた曹仁許褚の他にも、軍師賈詡がおり、馬超と韓遂に離間の計を仕掛けることで、同士討ちさせたのです。

ちなみに、軍師賈詡は、曹操の親衛隊長典韋と息子の曹昂に最後をもたらした、いわくつきの名参謀と伝わっています。

錦馬超孟起(ばちょうもうき)は、潼関の戦いで乱世の奸雄曹操を追い詰めましたが、曹仁の最強な防備を突破出来なかったのです。

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まとめ:三国志の最強能力な曹仁子孝(そうじんしこう)と八門金鎖の陣に勝った徐庶

三國志の曹仁が、最強な守り力で、曹操を支えたことを解説してきました。大勝利と大防御は、戦の功績としては同じくらいではないでしょうか。

そして樊城の戦いで、曹仁が凄いディフェンスを行ったからこそ、徐晃が関羽を負かせたことも説明してきました。

曹操の部下は、名将揃いなので、関羽がちょっと勝利したくらいでは、大勢には影響がないのでしょう。

また曹仁は、曹操の息子の猛将曹彰から、経緯を払われていたことも述べてきました。

曹彰が、異民族を投降させられたのは、曹仁の教えがあったからかもしれません。

曹仁は、八門金鎖の陣の習得者であり、樊城の戦いで関羽に勝利する立役者でもあったのです。

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