三国志の衛瓘は、蜀漢攻略の英雄鄧艾に最後を与えた人物、として有名です。
鄧艾は、難所を精神力で行軍し、蜀漢皇帝劉禅を軍門に降らせた後、大失敗を犯し衛瓘から責められました。鄧艾は高齢だったので、すぐにでも呉に攻め入って、中国統一を見たかったのかもしれません。
そして衛瓘は、鍾会の策を当初は見抜けなかったのです。鍾会は衛瓘にどのような策を仕掛け、どのような末路が訪れたのでしょうか。
また、衛瓘の鄧艾への悪知恵を非難したのが、杜預です。杜預は、鄧艾が優れた最強な人物と考えてもいました。
他にも、衛瓘が権力者曹爽から距離を置くことで、高評価されたことも説明していきます。今の時代でも、権力に迎合せずに生き残る手法は、重要でしょう。
三國志の衛瓘を詳しく解説していきます!
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目次
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衛瓘と司馬昭は最強な鄧艾が蜀漢の降伏者を勝手に厚遇し出したので危険視しました
三国志の衛瓘は、鄧艾が蜀漢の者たちに勝手に地位を与えていたので、謀反の恐れがあると考えたのです。
そもそも鄧艾は、難所を気合で突破し、蜀漢軍の意表を突くことで、皇帝劉禅を虜としました。
まさに、最強な鄧艾だからこそ出来た偉業、と言うべきですが、鄧艾は謙虚になれず、功績を自慢し出したのです。
魏の司馬昭と衛瓘は、鄧艾が実力者であるだけでなく、許可なく降伏者を手懐け始めたため、鄧艾を逮捕しました。
力がありながら誇示すれば、皆が恐れ、災難を招いてしまうのでしょう。
衛瓘は、鄧艾が蜀漢攻略の功労者でありながら、司馬昭子上(しばしょうしじょう)の支持を受けずに蜀漢の人事を行い出したので、処罰したのです。
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鄧艾(とうがい)は秦の白起のように最強で無実でしたが衛瓘は仕返しを恐れ田続を活用し最期を与えました
三国志の衛瓘は、鍾会の真意が見通せず、鄧艾を謀反人と見なして逮捕したので、憂いを断つために田続に斬らせたのです。
鄧艾は、蜀漢攻略の偉業を成し遂げるために、難所を無理に行軍していました。
田続は鄧艾に、軍勢の休息を求めたのですが、鄧艾は士気を乱したとして、田続を処刑しようとしたのです。
この件を不満に感じていた田続は、衛瓘の誘いに乗り、鄧艾を打ち取ったとされています。
果たして、私怨で最強な鄧艾を討った田続と衛瓘は、今後まっとうに生きることが出来るのでしょうか・・・
衛瓘は鍾会の策で、鄧艾士載(とうがいしさい)から恨みを買ったのですが、後に責任追及されることを恐れ、田続(でんしょく)をけしかけて鄧艾に最後を送りました。
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衛瓘は鍾会の策にハマり蜀漢攻略の英雄鄧艾を最後に追い込みました
三国志の衛瓘は、鍾会からの進言もあり、鄧艾を謀反人として逮捕しましたが、実は鍾会こそが乱を企んでいたのです。
鍾会は、諸葛亮の後継者で蜀漢の大将軍の姜維を味方に引き込み、司馬昭に対抗しようとしました。
姜維はそもそも、鍾会の過ぎた野望を見抜いており、鍾会を利用して魏を撃破したら、蜀漢を再興しようと考えていたのです。
鍾会も姜維も、大志で提携したのではなく、利益打算の狡猾な策で結び付いていました。
そして鍾会の魏の兵は、戦が終わったのだから故郷に帰りたがっており、姜維の蜀漢軍は敗者なので士気が激減していたのです。
衛瓘は、鍾会士季(しょうかいしき)の驚くべき作戦を見抜けず、鄧艾を謀反人に仕立て上げてしまいました。
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衛瓘を利用した鍾会(しょうかい)は劉備以上の人物!?
三国志の衛瓘は、いつの間にか鍾会の乱に加担させられていましたが、鍾会は劉備以上の能力と言えるのでしょうか。
鍾会は諸葛誕の乱を鎮圧した際に、前漢の三傑張良クラスの策謀、であると絶賛されました。
対する劉備は、超世の傑曹操に何度も敗れながらも、仁義と漢帝室再興を目指した英雄です。
鍾会は、策略では劉備を凌駕していると述べられますが、大志では遠く及ばないのではないでしょうか。
それに、鍾会が利用しようとした蜀漢は、大将軍姜維を含め劉備を慕う者が多いので、劉備を侮れば、蜀漢軍に後ろから討たれるのは必定でしょう。
衛瓘を上手く騙した鍾会は、劉備玄徳(りゅうびげんとく)以上と自惚れていましたが、劉備ほどの大志が無く、姜維と共に反乱軍として最後を与えられました。
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衛瓘が最強な鄧艾を私怨で討ったことを批判した西晋の杜預は鍾会の乱に加担しませんでした
三国志の衛瓘は、鍾会に利用され結果的に鄧艾を最後に追い込みましたが、杜預は鄧艾がどのような人物か知っていたので、衛瓘を非難しました。
杜預は、衛瓘が立派な人のフリをしていることに気付いており、悲惨な末路を迎えることを予測していたのです。
そして杜預は、春秋左氏伝を愛読していました。
蜀漢の劉備の義兄弟関羽も、春秋左氏伝を暗記していることが知られているため、春秋左氏伝愛読者は仁義に厚い、と言えるかもしれません。
また、最強な鄧艾が蜀漢を滅ぼしたように、杜預は破竹の勢いで、呉を滅亡させたのです。
杜預元凱(どよげんがい)は、鍾会に惑わされず反乱に味方しなかっただけでなく、衛瓘が鄧艾に私刑を行ったことも批判していました。
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衛瓘はかつて最強鄧艾にしたように八王の乱の際私怨で処刑されたのです
三国志の衛瓘は、武帝司馬炎の息子司馬瑋と皇后賈南風の夫司馬衷を、政権から遠ざけようとしたので、恨まれていました。
そして、賈南風の父賈充は、かつて司馬炎の父司馬昭が実権を掌握する際に、魏の皇帝曹髦を排除した知恵者だったのです。
また賈南風は、司馬瑋の衛瓘への不満を利用し、衛瓘を処刑した後は、司馬瑋が独断で行ったと主張しました。
司馬瑋は、衛瓘を排除して安心し油断していたので、賈南風から邪魔に思われていることに気付かず、流れで処刑に追い込まれたのです。
衛瓘は、鄧艾の恨みをかわすために、鄧艾を田続に斬らせましたが、八王の乱で賈南風(かなんぷう)と司馬瑋彦度(しばいげんど)から私刑されてしまいました。
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衛瓘は皇帝の一族曹爽の権勢に誤魔化されませんでした
三国志の衛瓘は、虎豹騎曹真の子供の曹爽の本質に気付き、距離を置いていたのです。
当初曹爽は、司馬懿と共に皇帝曹芳を補佐していましたが、司馬懿の存在が目障りとなってきたので、上手く中央政府から遠ざけました。
ですが曹爽は、自分と気の合う人物ばかりを重要な地位に就けたので、結局は失敗し出したのです。
司馬懿は、曹爽たちにもう年老いたかのように思わせておき、曹爽が出払ったところで、政権を掌握しました。
曹爽が本当の実力者になるまで、我慢強く司馬懿に師事していたら、曹操の一族の天下がもっと続いたでしょう。
衛瓘は、曹爽が乱世の奸雄曹操の一族、であることに惑わされなかったので、司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)と戦わずに済んだのです。
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まとめ:三国志の衛瓘伯玉(えいかんはくぎょく)と最強な鄧艾と劉備な鍾会
三國志の衛瓘が、歴戦の名将鄧艾鍾会と、どのような関係であったかを解説してきました。衛瓘は、鍾会鄧艾から生き残れた賢者、と言えるかもしれません。
衛瓘は鍾会の作戦に乗せられ、鄧艾をかつての大将軍白起と同様に、最後に追い詰めてしまったことを説明してきました。
鄧艾や白起のような最強将軍は、引き際も重要なのでしょう。
そして鍾会が、劉備以上を自負し、衛瓘を騙し姜維と共に反乱を行ったことも、記載してきました。
鍾会は姜維と共にすぐに自滅したので、本当の策士ではなかったのかもしれません。
衛瓘は鍾会の策に活用され、どさくさに紛れて最強な鄧艾を死に追いやった人物なので、一流にはなれなかったのでしょう。