三国志の天才諸葛亮孔明と激戦を繰り広げたのが、魏の皇帝曹叡です。
曹叡は、あの始皇帝や武帝とも、並び評されるほどの偉人と言われています。この二人クラスとなると、有能と述べるしかないでしょう。
そして、曹叡の父は曹丕で、母は美人で有名な甄姫です。ただ、出生に関してあるうわさが・・・
また、曹叡はイケメンで威厳がある人物と評判なのです。三國志のイケメンを知りたい人も、必見な話でしょう。
他にも曹叡は、後の日本が誕生する前の邪馬台国の女王卑弥呼と外交関係を結んでいました。強大な呉も、曹叡の魏と邪馬台国に挟まれたら危ないのでしょう。
卑弥呼も大国魏と組んでおくと、メリットがあったのです。
三國志の曹叡を詳しく解説していきます!
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目次
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曹叡は秦の始皇帝や前漢の武帝ほどの有能さ
三国志の曹叡は、人物眼のある劉曄から、始皇帝や武帝くらい有能と評価されたのです。
曹叡の前の魏の君主である曹丕の時代に、蜀漢の孟達が追い詰められて、魏に降伏してきました。
劉曄(りゅうよう)は孟達が、魏のためでなく自己利益で曹丕の元に来たので、怪しんでいたところ、結局孟達は再び蜀漢に鞍替えしようとしたのです。
孟達は上手く逃げ切れず、司馬懿仲達に打ち取られました。
司馬懿は、諸葛亮すら持て余す孟達を瞬殺する軍師だったのです。果たして、曹叡の後継者や子孫たちに扱えるのでしょうか。
司馬懿を排除しようとすると、蜀漢と呉の動きが気になるため、悩みどころでしょう。
武帝や始皇帝くらいの能力があると言われたのが、魏の明皇帝曹叡です。
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曹叡は人物評に不得手な性格で妻の郭太后にも飛び火
三国志の曹叡は、人物眼に優れておらず、油断ならないという意味の狼顧の相な司馬懿に、大権を与えてしまいました。
曹叡の一族の代表として曹爽がいたのですが、外征が失敗し、司馬懿が台頭してきたのです。
司馬懿は、曹叡の妻だった郭太后を上手く抱き込み、曹爽派を一掃することに成功しました。
司馬懿の流れの後継者司馬昭に対抗するため、郭太后は曹操の再来とまで言われていた曹髦(そうぼう)を支持し、皇帝に就任させたのです。
ですが、結局は司馬昭も有能で、曹髦を追い詰めて最後を与えました。郭太后は、曹氏の巻き返しに、多少貢献はしたのでしょう。
司馬懿は、曹爽との権力争いに打ち勝ち、曹叡の妻を務めた郭太后も味方とすることで、司馬一族の未来を切り開きました。
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曹叡の母は曹丕の逆鱗に触れ処刑された美人な甄姫
三国志の曹叡は、母甄姫が父曹丕から処罰されていたため、曹丕からあまり快く思われていませんでした。
- 曹叡は曹丕の子供ではなく袁煕の息子という話もあります
- 曹叡の後継者は養子の曹芳です
甄姫は元々は、四世三公の名門袁紹の息子の袁煕の妻だったのです。
ですが、曹丕から美貌を好まれて、甄姫は曹丕の妻となりました。
曹叡が曹丕から愛され難いのは、甄姫が元々敵将の妻だったからかもしれません。
また、甄姫は曹丕からの愛が薄れていったため、心理的に追い詰められていきました。曹丕に不満を述べたところ、そのまま最期となってしまいました。
ちなみに、甄姫の息子の曹叡が皇帝となれたため、甄姫は汚名返上されています。
曹叡は、複雑な関係の父曹丕と母甄姫(しんき)から生まれた人物でした。
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曹叡は曹丕の子供ではなく袁煕の息子という話もあります
三国志の曹叡の母甄姫は、元々袁煕の妻だったので、すでに妊娠していて曹丕の嫁になったという説も、存在しているのです。
曹叡は、曹丕からあまり可愛がられていませんでしたが、袁煕の子供と思っていたからかもしれません。
そして、曹丕だけでなく曹操も人妻好きだったと言われています。
乱世ですから、人の女を奪うと征服欲が、より一層満たされるのかもしれません。
また、世界的な英雄であるモンゴル帝国のチンギスハンも、人妻好きのような発言をしています。
偉人の中には、変わった趣向を持っている人もいるのでしょう。
四世三公の名族袁紹の息子の袁煕(えんき)と甄姫の子供が、曹叡という話もあるのです。
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曹叡の後継者は養子の曹芳です
三国志の曹叡は、子供たちがどんどん亡くなったため、曹芳を養子にして後継者と決めました。
曹芳の後見役は、司馬懿と曹爽だったのですが、2人だったので、方向性の違いから対立が顕在化してしまったのです。
曹爽はあまり軍事的な能力が無いにも関わらず、司馬懿や他の武将に優ろうとするために、無理に蜀漢遠征を行い負けてしまいました。
このことでその後は逆に司馬懿陣営が力を持ち始め、最終的には曹爽派に、最期をもたらすことに成功したのです。
曹爽は、賢者から忠告を受けたのですが、豊かに暮らせると甘く考え、司馬懿の軍門に降ってしまっていました。
曹芳(そうほう)は、魏の明皇帝曹叡の後継者でしたが、曹爽と司馬懿の権力争いに翻弄されたのです。
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曹叡は病が死因で最期を迎えました
三国志の曹叡は、35歳くらいで最後が訪れました。
曹叡は、見識豊かとして知られていたのですが、病で弱気になったのか、怪しい不思議なパワーを持つ女性を信じたのです。
そのミステリアスな女性の水を利用しても、病から回復しないため、結局その怪しい女性を死に追いやりました。
曹叡の最後が近付く中、魏の権力争いもピークを迎えたのです。
最終的には、曹叡が病にも関わらず、側近が無理に筆を取らせて一筆書かせることで、曹爽と司馬懿仲達が権力を握るようになっていきました。
曹爽は曹氏一族ですが、司馬懿のような熟練した実力は欠けており、後々この人事が響いてくるのです。
魏の明皇帝の曹叡は、35歳くらいの年齢で死因病で、最後が来ました。
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西晋の人物批評家孫盛は曹叡をイケメンと評価しています
三国志の曹叡は、西晋の歴史研究家の孫盛からも、イケメンな外見と伝え聞いていると述べられています。
曹叡はイケメンだからなのか、女性関係にも積極的で、利権が発生したため、人身売買が起きてしまうほどだったのです。
そして、威厳でオーラーのある外見でもあったと言われています。もしも曹叡が将軍として軍隊を率いたら、蜀漢や呉の軍勢は、曹叡の威厳で降伏ケースもあるでしょう。
また、曹叡は曹丕ではなく袁煕の子供という説も存在しているため、袁煕に似ている顔だったのかもしれません。
ちなみに、三国志でイケメンと評価される武将には、周瑜や陸遜や荀彧もいます。
曹叡は、イケメンで威厳あふれる外見により、高評価だったのです。
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曹叡の側近劉放は曹操に貢献していました
三国志の劉放は、曹操の味方となるよう周りの者たちに訴えていたため、後に魏の明皇帝曹叡の側近にまで出世したのです。
そして、魏に対抗する蜀漢と呉があったため、劉放は、呉の主君孫権の文書を離間の計に利用し、蜀漢と呉を混乱させようとしました。
蜀漢の軍師諸葛亮孔明と呉の君主孫権も賢人として知られており、冷静に対処したため、劉放はあまり翻弄出来なかったのです。
ちなみに、劉放は、燕王劉旦(りゅうたん)の子孫とされています。劉旦は、前漢に忠実な人物とは言えないのです。子孫の劉放は、どうだったのでしょうか・・・
劉放(りゅうほう)は、魏の明皇帝の側近で、結果的に、司馬懿仲達が実権を握る手助けをしました。
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曹叡は卑弥呼に新魏倭王を与えました
三国志の曹叡は、呉国を外交的にけん制するために、後の日本である邪馬台国の女王卑弥呼を新魏倭王としたのです。
卑弥呼側も、倭国での勢力争いがあったため、強大な魏の後ろ盾を欲していました。
邪馬台国と魏の外交関係は良好で、卑弥呼が狗奴国と戦を行った際に、魏から応援が来たと言われています。
そして、邪馬台国は、九州にあったという説と畿内に存在したという説が、存在しているのです。
卑弥呼が魏と軍勢をもっと連携していれば、呉を邪馬台国が滅亡させる未来も、あり得たのでしょうか。
邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)は、魏の明皇帝曹叡と誼を通じることで、他の倭の国々と有利な関係を築こうとしました。
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まとめ:三国志魏の明皇帝の曹叡元仲(そうえいげんちゅう)は始皇帝と武帝並に有能
三國志の曹叡が、将来を期待され有能だったことを解説してきました。始皇帝や武帝風なオーラーは、あったのでしょう。
曹叡が実は、曹丕の息子ではなく、袁煕の子供の可能性を有していることも述べました。乱世では、親子関係も乱れているのでしょうか。
そして、曹叡が人選ミスをしてしまったせいで、妻の郭太后に影響が出たことも書きました。郭太后は、司馬懿の子孫たちにある程度抵抗しているので、嫁選びは正解だったのでしょう。
また、曹叡の側近は、乱世の奸雄曹操から評価されていたことも説明しました。やはり曹操は、人物眼に優れた人材収集家だったのでしょう。
司馬懿らの司馬一族が、天下を掌握する前の曹氏の最後の栄華と言える曹叡は、どうすればもっと長く子孫を繁栄させられたと思いますか?