三国志太史慈!最後、弓、孫策一騎打ち、張遼、甘寧、死因、墓も解説

三国志の呉の国で弓が得意で、命中力もかなり高い猛将と言えば、太史慈でしょう。

そして太史慈は策略にも長けており、敵の包囲を突き崩しました。あなたの実生活にも応用出来るかもしれません。

真面目に呉に尽くしているように見えた太史慈には、秘めた野心があったのです。かなり大胆な内容なので、度肝を抜かれるでしょう。

また、孫策と太史慈は一騎打ちで肉薄したのです。小覇王孫策と対等に戦えるのは、凄過ぎるでしょう。

他にも、太史慈の策に対抗する張遼も、説明していきます。かっこいい将軍張遼に、太史慈はどのような兵法を仕掛けたのでしょうか。

三國志の太史慈子義(たいしじしぎ)を詳しく解説していきます!

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太史慈のずば抜けた弓術の強さは百発百中と述べられるほどでした

三国志の太史慈は、必ず命中するほどの弓術で、弓の扱いにおいて天下無双と言えます。

遠くで敵が騒いでいた際に、太史慈はその敵の手に命中させることも出来たのです。

そして、若い時太史慈は役人をしていたのですが、他の地域と揉め事に発展してしまいました。

太史慈は、策によって他の地域の文書を入手し処分することで、自分の側を勝たせたのです。

ただ、手法が問題となり役人を辞任する羽目になりました。

役所仕事は、戦のようにただ単に勝利すれば良いというわけではないのでしょう。

兵法三十六計に、敵の根本を外すことで勝つ釜底抽薪(ふていちゅうしん)がありますが、対立側の文書を無くす点が、この兵法と言えます。

太史慈は、必中な弓の技術で名を馳せる武将で、勝ちにこだわる性格でもありました。

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兵法三十六計の奥義瞞天過海で魅せた太史慈の計略能力

三国志の太史慈は、味方を助けようとしたのですが、包囲が固かったため、わざと弓の訓練を繰り返すことで、油断を引き出し一気に敵陣を突破しました。

兵法三十六計に、同じ行動をすることで、何も起きないと思わせ、油断した隙にアクションを起こす瞞天過海(まんてんかかい)があり、その実例でしょう。

そして、太史慈はあの乱世の奸雄曹操からも高評価で、引き抜きを受けました。

ですが、太史慈は恩義に厚い武将だったため、曹操からの誘いを断ったのです。断ったことで、曹操からの評価がさらにアップしたかもしれません。

ちなみに、曹操は人材収集家として知られており、有能な人物であれば敵将でも、自らの陣営に加えていきました。

太史慈は、瞞天過海の兵法で、困窮している味方を救出し、計略能力の高さを示しました。

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合肥の戦いで太史慈の趁火打劫の兵法を見抜いた張遼

三国志の太史慈は、わずかな軍勢で呉の孫権に抵抗する張遼に手こずりました。

太史慈と張遼は、三国志の華な一騎打ちを展開したとされています。

そして、合肥の戦いの際に太史慈は、張遼の陣に戈定(かてい)を潜伏させていたのです。

戈定は、仲間と共に張遼の軍内で騒ぎを起こし、混乱状態を作り出しましたが、歴戦の勇将張遼は動じずに鎮圧しました。

兵法三十六計の一つに、敵が動揺している間に利益を奪う趁火打劫(ちんかだこう)がありますが、これが失敗したものでしょう。

兵法の使い方が甘かったというべきか、張遼が有能だったと述べるべきなのか。

太史慈は、戈定を利用して趁火打劫の兵法で、張遼に勝とうとしましたが、上手くいきませんでした。

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小覇王孫策と一騎打ちを行い強さを示した太史慈

三国志の太史慈は、孫策に武勇を示したことで、敵対していながら許されました。

孫策は、太史慈が兵を集めて来ると述べたので、解放してあげたのですが、他の諸将は疑っていたのです。

孫策は一騎打ちで、深い信頼関係が芽生えていたため、太史慈が戻って来ることを信じていました。

しばらくすると、太史慈は孫策の元に帰還したので、孫策の見る目の確かさと太史慈の律義さを皆に示したのです。

孫策は残念ながら、若死にしてしまいましたが、長生きしていたら、太史慈と孫策とタッグの戦がもっと見られたでしょう。

孫権は政治力に長けていましたが、孫策は武勇に優れていたので、呉はもっと戦が増加し、太史慈の活躍の場も増えたのでは?

太史慈は、孫策と一騎打ちをすることでむしろ評価され、仲間に加わっていきました。

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弓の名人太史慈と蛮勇甘寧は異なる性格を持っていたのです

三国志の呉には、武勇に秀でた正統派な太史慈とアウトローな甘寧がいました。

太史慈は真面目に訓練をして役人を務めていて呉に味方し、甘寧は男伊達を気取り才覚を評価され呉に加わったのです。

太史慈は急に問題を起こしたという記録はあまり無いのですが、甘寧は気分次第で問題行動を結構しています。

甘寧は呉で才能を認められ重要な人物だったため、問題を起こしても、なかなか処分されませんでした。

そして、太史慈は弓が本来得意なのですが、三國無双では近接武器を使うキャラとなっているのです。

定軍山の戦いで有名な黄忠や夏侯淵が、三國無双の弓キャラとして登場しています。

正統派な弓の達人の太史慈と悪漢な武人甘寧が、三国志の呉で活躍していました。

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太史慈の最後には皇帝への野心が見えます

三国志の太史慈は、最後を迎える際に、天子になりたかったという風に述べているのです。

呉に忠節を尽くしたはずの太史慈が、実は自分がトップになるために潜り込んだだけだとしたら・・・

太史慈はハッキリしない死因で40歳くらいで亡くなりましたが、曹操や司馬懿のように長生きしていたら、呉を乗っ取り皇帝に就任していたのでしょうか。

呉国が後年乱れていきましたが、その時に太史慈が生きていたら・・・

結局その人がどういう人かは、最期まで分からないということでしょう。常に油断しない心構えが、重要と言えます。

そして、太史慈の墓は江蘇省あたりで、他の呉の重臣らと共に発見されました。

太史慈は、呉への恩義や忠誠心が高いと見せかけて、大野心を隠し持っていたのです。

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太史慈の息子の太史享(たいしきょう)と子孫の太史叔明(たいししゅくめい)

三国志の太史慈には、主君孫権に育てられた子供の太史享と、学者として名高い末裔の太史叔明がいます。

太史享は、どのような活躍をしたかはハッキリしていません。無難な武将として終わったのでしょうか。

そして、太史叔明は、老子や荘子などの難解とされることが多い思想を解説出来るほどの人物でした。

太史叔明は世の人々から認められており、話を聞きに多くの人が訪れていたのです。

また、兵法で知られているのが孫子なので、弓に長けた太史慈が孫子の講義を行った場合、たくさんの人が聞きに来たかもしれません。

ちなみに、孫子は戦わずして勝つのが良いという、老子の無のような話もあります。

太史慈の子孫には、太史享と太史叔明もいます。

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まとめ:三国志の太史慈子義(たいしじしぎ)は弓と一騎打ちに秀でた名将

三国志太史慈の弓の腕前と知略を解説してきました。弓の訓練に励んでいくと、太史慈を目指せるかも!?

小覇王孫策と太史慈は、深い信頼関係があったことも語りました。一騎打ちで生まれる信頼、ドラマのキャラのような二人でしょう。

そして、太史慈の息子と子孫も説明しました。有名な学者が出て来るというのは、太史慈からはあまり想像出来ないでしょう。

また、張遼や甘寧と太史慈の関係性も論じました。3人共武勇に優れていた点は、似ているでしょう。

太史慈が、いろいろな兵法三十六計を利用していたことも記載しました。兵法に興味がある人は、もう一度熟読しておいてください。

弓術に長けた大野心ある将軍太史慈、三国志でもあまり見られない要素の組み合わせでしょう。

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