孔融と曹操!梨、楊徳祖、兄、逸話、孔子儒家、禰衡、三国志も解説

論語の聖人孔子の子孫で、曹操を批判した人物が、三国志の孔融なのです。

孔融は孔子の末裔ですが、関係の深い老子の子孫も語っていきます。老子は、聖人孔子の師とも言うべき大賢者です。

そして孔融は、梨の謙譲でも有名な人物とされています。謙虚なことは日本でも美徳なので、孔融は日本でも活躍出来たのではないでしょうか。

また孔融は、建安の七子として高評価な人材でした。七子ですから、孔融以外の逸材も説明していきます。

他にも、孔融と一緒に曹操を批判した重要人物、禰衡もいたのです。あまりにも権力者を批判すると、今も昔も危ないのではないでしょうか・・・

三國志の孔融を詳しく解説していきます!

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老子の子孫李膺と出会った孔子の子孫孔融

三国志の孔融は、自らの先祖の孔子と対を成している老子の末裔李膺と会談しました。

道教の老子は、論語の孔子の師とされている人物、でもあるのです。

老子は、孔子が仁義や古来からの礼節を、重要視している様子を批判しました。

あなたが重んじている昔の大賢者もすでに存在していない、良い商人が品物を奥に隠しているように、仁義をひけらかすのを控えるべきでしょう、という風に述べたのです。

孔子は大聖人と言われることが多いので、老子の発言に衝撃を受ける人も、多いのではないでしょうか。

今の時代でも、孔子は評価されているので、老子が必ずしも、孔子より優れている、とは言えないかもしれません。

孔子の子孫孔融と老子の末裔である李膺(りよう)は、運命的な会見を行いました。

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老子の子孫の李膺から高評価だった孔融をからかった者の末路

三国志の孔融は、老子の末裔の李膺から好印象だったのですが、近くにいた者から、子供の時聡明で大人になると愚かになる人もいる、と述べられました。

ですので孔融は、あなたは子供の時は、賢かったのですねと発言したのです。

やはり孔融の受け答えは、論語の孔子の子孫な賢さと言えるでしょう。

孔融は後に、曹操から処刑されるため、早熟というのは、ハズレではなかったかもしれません。

そして孔融は、父親が死去した際に、孝行をかなり行ったのです。聖人孔子の末裔らしい態度でしょう。

ただ、孔子は、過ぎたるは猶及ばざるが如し、とも述べています・・・

論語の孔子の子孫の孔融は、老子の子孫からも評判が良く、からかわれた際も上手く打ち返しました。

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孔子の子孫の孔融は梨を譲ることで美徳を示したのです

三国志の孔融は、梨を選べる際に小さい梨をチョイスしたことで、謙虚な人柄として評価されました。

孔融の先祖孔子の師老子も、大国が小国の下手に出る時小国の帰服を得られ、小国が大国にへりくだる時大国の承認を得られる、と語っているのです。

孔融は聖人孔子の子孫であると同時に、老子の考え方も実践していたのでしょう。

そして、三国志の世界では、劉備も謙虚な人柄で知られています。

孔融は、曹操ではなく劉備に仕えていれば、悲惨な最後を迎えずに済んだかもしれません。

劉備は謙譲を積み重ねることで、最終的に蜀漢の皇帝に就任したのです。

孔融は、大きい方の梨を兄弟にあげることで、謙譲の徳を身に付けていることを天下に示しました。

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兄をかばおうとした孔子の仁な孔融

三国志の孔融は、兄の知り合いが権力者に目を付けられ逃げて来た際に、匿ってしまったため、同罪になりかけました。

後に孔融は、兄と共に役人から厳しく追及されたのですが、自分に責任があると言い張ったのです。

兄も孔融も自らの全責任と述べるため、役人が孔融の母親に話を聞いたところ、なんと母も自らの責任と言い始めました。

結局孔融の兄の責任となってしまったのですが、孔融は近隣から知られる名士へと出世したのです。

3人共自分の責任と述べたのだから、徳がある、として不問とはなりませんでした。

孔融は、兄の知り合いの責任が追及された際に、母と共に罪を受けようとしたため、皆からの評判が高まったのです。

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建安の七子と称された孔融と陳琳は曹操を批判した人物でもあります

三国志の孔融は、超世の傑曹操の時代における、文学の中心的な存在を担っていました。

今の時代もそうですが、論語の聖人孔子の存在感があり、孔子の子孫である孔融は特別な存在だったのです。

そして、建安の七子には、官渡の戦いの前に、曹操を文書で罵った陳琳もいます。

曹操の敵袁紹は、名門で大勢力であり袁紹は陳琳に檄文を書かせて、士気を高揚させたのです。

結局曹操の方が実力があり、袁紹に勝利したため、後に陳琳も捕えられましたが、文才を高評価され生存しました。

孔融は、建安の七子の一人であり、同じように高い文才を持っていた陳琳孔璋(ちんりんこうしょう)も、メンバーだったのです。

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仁義と漢帝室再興を目指す劉備に陶謙の徐州を与えさせた孔融

三国志の孔融は、劉備に徐州の地盤を獲得させました。

そもそも陶謙は、曹操の父曹嵩が亡くなったことに責任があったので、曹操から苛烈に攻撃されていたのです。

皆が曹操を畏怖していたこともあり、陶謙を助ける者はあまりいませんでした。

劉備は、仁義な生き方と後漢朝廷再興を目標にしていたため、陶謙を助けに来たのです。

陶謙は、劉備の行動に非常に感動したので、孔融が劉備を説き伏せ、劉備に徐州を統括させました。

乱世にも関わらず、仁義や徳で勢力を拡大した貴重な事例でしょう。

孔融は、曹操が陶謙恭祖(とうけんきょうそ)の徐州を攻撃した際に、助けに来た劉備玄徳(りゅうびげんとく)が、徐州を獲得出来るように尽力したのです。

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禰衡から高評価だった楊修徳祖と孔融の死因は曹操

三国志の孔融は、曹操に批判的だった禰衡から支持されていましたが、曹操を非難し過ぎて最後が来ました。

禰衡はあふれ出る奇才な面から、孔融はいにしえの事例から、曹操を批判したのです。

また曹操は、有能な人材を集めたかったので、寛容だったのですが、度が過ぎてきたため、孔融を処刑しました。

曹操が赤壁の戦いの際に、非常に重要な局面で、孔融は敵の孫権に曹操の讒言を行ったのです。

そして楊修は、曹操の本心を知り過ぎたため、危険視され、最期が与えられました。

孔融は、禰衡と共に曹操を非難し続けたたことが、楊修徳祖(ようしゅうとくそ)は曹操を見通し過ぎたことが、死因となったのです。

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まとめ:三国志の孔融文挙(こうゆうぶんきょ)と曹操孟徳(そうそうもうとく)

三國志の孔融は、曹操の非難ばかりを繰り返しながらも、謙虚さや文才を示したことを解説してきました。

曹操の批判を控えておけば、一流の文人としてのみ名を残したのではないでしょうか。

そして孔融が、兄の犠牲になろうとしたことも、説明してきました。孔融は、聖人孔子の真似をしたかったのかもしれません。

また孔融が、劉備が出世するきっかけを提供したことも、記載してきました。劉備がここで踏ん張っておけば、江東を劉備が制圧出来たかもしれません。

他にも、孔融と楊修を支持した禰衡も書きました。超世の傑と称された曹操でも、思い通りに出来ない人物も、いたということです。

孔融と楊修は、仕えるべき主君を吟味すべき、だったのではないでしょうか。

孔融は優れた文人でありながら、曹操から理解されず破滅した悲劇の人物でしょう。

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