漢王朝劉邦とは?妻、どんな人柄?項羽比較、家臣軍師、始皇帝も解説

中国には皇帝がたくさんいますが、皇帝の中の皇帝と言えば漢の劉邦ではないでしょうか。

まずは漢王朝とは何なのか?劉邦の別名読み方といった初歩的なところから解説していきます。あまり劉邦に詳しくない人も、入りやすいでしょう。

そして、悪名高い劉邦の妻の話もしていきます。どのような悪か気になる人も要チェックです。このような女性かを見抜くのは、至難の業でしょう。

また、劉邦は成功した後からは想像つかないかもしれませんが、残念な性格でした。そのような劉邦なのに、なぜ上手くいったのでしょうか。

他にも有名な家臣団もご紹介します。あなたが知っているあの人も書かれているかもしれません。

漢王朝建国者劉邦をしっかり説明していきます!

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漢王朝劉邦とは?始皇帝の秦国の法秩序と覇王項羽に勝利した皇帝

始皇帝が亡くなった後に、混乱する秦国を覇王項羽らが打倒し、更に項羽を劉邦が打ち負かすことで前漢が成立しました。

  • 覇王項羽と人望の劉邦を比較
  • 農民出身の劉邦と貴族出身の始皇帝

王莽という人物が巧みに人心掌握したことで、前漢の後に新国が一時的に誕生しますが、光武帝劉秀が漢を再建し後漢を建国したのです。

劉秀はかなり遠縁ですが、前漢の劉邦の子孫と言えます。

劉邦は別名を高祖や高皇帝と呼ばれることもあり、字は季で、読み方は、劉邦(りゅうほう)季(き)です。

また、漢王朝が秦よりもかなり長く続いたため、漢王朝こそが中国を代表する国なイメージもあるでしょう。

ちなみに、後漢は乱世の奸雄曹操の息子の曹丕に禅譲して終了しています。

秦の始皇帝の一族の天下が続くかと思ったら、項羽が秦を打ち負かし、劉邦が項羽を破ることで漢という帝国が建国されました。

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覇王項羽と人望の劉邦を比較

項羽は亜父と信任していた范増すら使いこなせず、劉邦は自分以上の能力の部下がたくさんいて、使役出来ていました。

項羽の祖先は項燕と言う楚の大将軍で、かつて秦国が李信の20万の軍勢で攻め寄せた際、秦軍を壊滅させた武将でもあるのです。

しかし、天下の趨勢は決しており、項燕は秦国の王翦(おうせん)に敗れました。

項燕は戦死する際に、楚国は3戸になっても必ず秦を滅ぼすと述べたとされており、予言通り、項燕の子孫の項羽が秦を滅亡させたのです。

項羽の役割は、秦国を滅ぼすまでだったのかもしれません。

歴史上でも現代でも、より先の未来を描ける人物のところに、人々は集まるのでしょう。

劉邦は巧みに部下の心をつかみ、項羽は信頼していたはずの実力者すら、疑って追い出してしまったのです。

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農民出身の劉邦と貴族出身の始皇帝

劉邦は庶民出身だからこそ皆の気持ちが分かり、始皇帝は貴族の生まれだからこそ上から指導したのでしょう。

始皇帝自身が、法律万能思想を信じ有能であったからこそ、法によって上から教化し、圧政でありながらも中国統一状態を続けられたのです。

対する劉邦は、そのへんの農民から皆と共に苦労や喜びを分かち合って、天下を獲得しました。

劉邦の統治は、始皇帝の時代に虐げられてきた人々を光で照らすような労わりの政治と言えるでしょう。

かつて虐げられてきた側の代表として劉邦は、天下を取ったのではないでしょうか。

始皇帝は名門出身で有能であり民を虐げてでも強力に統治し、劉邦は民衆を助けるような統治で人心を得たのです。

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前漢の劉邦はどんな人かというと龍顔でほら吹きな性格です

劉邦は、顔立ちが龍に似ていて髭も綺麗ないわゆる龍顔でした。

劉邦の妻を呂雉と言うのですが、呂雉の父が劉邦の人相をかなり高く評価したのです。

劉邦と呂雉が結婚したのは、劉邦の龍顔のおかげと言えるでしょう。

そして、劉邦の性格は大らかですが、ほら吹きとされています。始皇帝の行列を見た際に、あのようになりたいと述べてみたり、呂雉の父に大金を献上すると偽ったりしていました。

大人物は、少しくらい大きいことを言うべきなのでしょうか。

また、人相で人を見抜けるようになると、もしかしたら将来かなり出世する人に出会えて、一気に歴史に名を残せるかもしれません。

龍のような外見をした前漢の劉邦は、大きい嘘を言いまくっている性格でした。

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劉邦の妻呂雉は中国三大悪女の一人

前漢の劉邦の天下統一と皇帝就任を助けた呂雉(りょち)は、悪女としても有名なのです。

劉邦クラスの偉人になると言い寄る女性は多く、戚夫人と息子の劉如意(りゅうにょい)の方に劉邦の気持ちも傾いていきました。

劉邦と呂雉の子供に劉盈(りゅうえい)がいたのですが、劉邦には劉如意の方が優秀に見え始めたのです。

呂雉と劉盈陣営は巻き返しを図るために、前漢の三傑の一人の参謀張良の知恵を使い、劉邦すら呼べなかった4人の賢人を招くことに成功しました。

権力闘争と後継者争いに敗れた戚夫人は、残虐な方法で呂雉からやり返され、亡くなっていったのです。

劉邦の妻の呂雉は、夫人の立場での権力闘争に勝利し、敵を残酷な方法で処分しました。

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前漢の劉邦は晩年には大らかな性格が鳴りを潜め功臣を処罰する乱行が目立ちました

劉邦は、たくさんの有能な部下に支えられて天下を得たにも関わらず、功臣を処刑して政権の安定を図りました。

  • 劉邦の家臣には樊噲や曹参もいます
  • 劉邦の軍師には張良子房と陳平がいます

処刑された功臣には、前漢の三傑のひとりの大将軍国士無双韓信や盗賊王彭越や罪人王英布がいます。

そして韓信は、他の武将に劉邦への謀反をそそのかした疑いが大きいので、処罰も妥当性が高いと言えるのです。

彭越はハッキリと謀反していたわけではなく、劉邦に非協力的な面があり疑われたことが要因とされています。

功臣にも関わらずどんどん処罰が行われていくので、英布も恐くなって立ち上がったのです。

功績のあった家臣でも処罰され、前漢の劉邦帝国は基盤を固めていきますが、抵抗する家臣たちもいました。

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劉邦の家臣には樊噲や曹参もいます

樊噲(はんかい)は、犬の処分をする仕事をしていたところから、前漢の劉邦と共に旗揚げして出世し、曹参は項羽との戦で戦功が著しい人物でした。

劉邦は、そのへんの農民から這い上がっていったため、仲間も樊噲のような人々が多いのです。

樊噲は鴻門の会では、項羽からの劉邦への追及を身を挺して防いだ武将とされています。

そして、曹参は前漢の三傑のひとり蕭何(しょうか)の後に政を取り仕切り、蕭何という偉大な政治家が作った決まりをしっかり守ることで、漢帝国を守護したのです。

ちなみに、超世の傑と評される曹操孟徳は、曹参の子孫とされています。

劉邦の家臣の樊噲は、庶民の仕事をしていましたが大出世し、項羽戦で曹参は大戦果を上げました。

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劉邦の軍師には張良子房と陳平がいます

張良は前漢の三傑のひとりで、陳平は優れた奇策で皇帝劉邦を助けました。

劉邦が項羽と戦っている際に、かつての王族たちに領土を与えると人心を得られると、述べた者がいたのです。

張良はすぐさま批判して、与えてしまうと皆がその王族たちの元に行ってしまい、劉邦のために働く者がいなくなりますよ、と忠告しました。

やるとしても、しっかり天下を平定してから行うべきということでしょう。

そして、陳平は劉邦が遊牧民匈奴の大王冒頓単于と戦い苦戦したため、単于の后に、もしも漢が降伏すれば美女が送られてきて立場が危ういですよと囁き、劉邦を包囲から救出したのです。

張良や三国志の諸葛亮孔明では、使えない策略と言えるでしょう。

劉邦の軍師の張良は有名な参謀ですが、陳平も策士として忘れてはならないのです。

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漢劉邦の他の話

漢劉邦で、他にも知るべき内容もお知らせしていきます。

劉邦が、自らが天下を得られた理由を、張良のような賢者・蕭何のような後方支援・韓信のような用兵な人物を、使いこなせたから、という名言を述べているのです。

自分に能力が無くても、有能者を部下と出来る才能さえあれば良いということでしょう。

そして、劉邦はしっかり自らの血縁の者を王にしていき、劉氏でなければ王になれないような体制を固めていったのです。

三国志の時代に後漢帝国において、曹操は魏王に任命されますが、劉邦の制度を超えるほどの偉人が現れた出来事と言えるでしょう。

曹操が、超世の傑(時代を超えた英雄)と呼ばれるゆえんかもしれません。

漢劉邦でここまで知っている人は、なかなかいないでしょう。

⇒呂布奉先とは!伝説的強さ最強、実在?最後死因、妻、読み方も解説

三国志劉備漢中王就任は劉邦の子孫で漢帝室継承者を示すため

三国志で劉備玄徳が漢中王になりましたが、前漢の劉邦の子孫を意識した動きでしょう。

その当時三国志の世界では、漢帝室の力が衰弱していき、曹操が権力をほしいままにしていました。

劉備陣営としては、漢帝室を守るために漢帝室にゆかりの深い漢中王を名乗ることで、曹操たちに対抗したかったのです。

かつて劉邦が漢中のあたりを領有し、漢王を名乗ったことになぞらえているのでしょう。

ただ、劉邦の時代とは異なり、曹操以外にも大勢力として孫権がいました。

しかも孫権はかなり有能で、劉備の義兄弟で武神な関羽を打ち取ってしまったのです。

漢中王に劉備は就任しましたが、劉邦の末裔パワーを得たかったからでしょう。

⇒劉備は劉邦の子孫?関係性や性格の違いを解説します

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まとめ:漢王朝劉邦(りゅうほう)の性格と項羽と始皇帝

漢王朝の劉邦がどのような人柄で、どのような功績を残したかを解説してきました。見習いたい部分はありましたか?

劉邦の妻の呂雉という悪で有名な女性も書きました。乱世の時代は、このような悪女を生み出してしまうのでしょうか。

そして、劉邦は、大きい嘘をつく性格なことも記載しました。巨大な嘘がいつの間にか現実になったのが、劉邦の人生だったのでしょうか。

また、項羽や始皇帝と劉邦の相違点も述べました。劉邦は、項羽や始皇帝にあまりない人間味や親しみやすい性格で、勝者となったのでしょう。

他にも、劉邦に粛清されてしまった家臣も説明しました。心が広いはずの劉邦も、皇帝や権力者になると性格が変化してしまうのでしょうか。

劉邦が残念な性格から、なぜか大出世していく部分は、きっちり学ぶと得られる事が多いでしょう!

⇒劉備の息子は無能?どんな人?名前は劉禅アト、他の義理の子供も解説

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