三国志で世渡りに失敗したのが、孟達でしょう。
孟達は益州の劉璋に仕えていましたが、劉璋の将来を危ぶんでいました。劉備に味方した孟達は、表面的には成功しているように見えるでしょう。
そして孟達は、劉備の義理の子供劉封と同じ軍勢にいました。孟達は後に危険を察知して生き残りましたが、劉封はどうなったのでしょうか。
また、蜀から魏に味方した孟達を曹丕は非常に高評価したのです。孟達は、魏の方が合っていたのでしょうか。
他にも、孟達の最後と司馬懿の関係も語ります。司馬懿は諸葛亮クラスの賢人ですから、孟達の本当の姿を見抜いていたのではないでしょうか。
三國志の孟達を詳しく解説していきます!
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目次
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益州の劉璋の元に劉備を迎えた孟達
三国志の孟達は、劉璋に仕えていましたが、見限って将来有望な劉備に味方しました。
劉璋配下の張松は、初めは大勢力の乱世の奸雄曹操に付こうとしていたのですが、曹操に無礼な対応を受けたのです。
ですので、張松は劉備の元を訪れ、益州あたりの地図をあげました。
張松と孟達の劉備入蜀は、順調に進んでいると思われていましたが、張松の兄は劉璋への忠誠心の厚い人物だったのです。
結局張松の動きは劉璋への裏切りとされてしまい、張松は最後が来ました。
乱世の時代だからこそ、忠誠心の足りない人物は、厳しく罰を受けるのでしょう。
孟達と共に劉備に味方した張松は、孟達が生き残る中、益州劉璋季玉(りゅうしょうきぎょく)に背いたとして処罰されたのです。
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劉備の義理の息子劉封と共に活躍した孟達
三国志の孟達は、劉封と一緒に劉備の勢力拡大に貢献しました。
劉封は、当時後継者がいなかった劉備に、養子とされた人物です。
そして劉封は、劉備の息子の劉禅と異なり武勇に優れた武将だったので、孟達と共に前線で活躍出来ました。
ただ、劉備の子供劉禅が甘夫人との間に生まれると、後継者争いの危険性から、劉封の将来の雲行きが怪しくなってきたのです。
仁義な劉備でも、本当の息子の方が可愛いのでしょう。
もしも劉封が長生きしていたら、後の蜀漢の人材不足が、結構解消されたのではないでしょうか。
劉備の義理の子供劉封(りゅうほう)は、劉備入蜀の功労者孟達と共に戦で功績を挙げましたが、劉禅が劉備の後継者とされました。
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劉備の義兄弟関羽が窮地に陥った際に援軍を送らなかった孟達
三国志の孟達は、自分の領土が未だ不安定なことを理由に、関羽を助けなかったので、劉備から激怒されました。
関羽は、孟達が援軍をあげなかった戦いで、最期となってしまったのです。
孟達はかつて益州の劉璋を見限ったように、再び劉備を見限り、魏の曹丕に鞍替えしました。
そして、孟達は曹丕に付く際に、伍子胥と蒙恬の事例を出しています。
伍子胥は、呉王夫差の忠臣であったからこそ処刑され、蒙恬も、国家に忠実だったからこそ最後を迎えたのです。
孟達は関羽の件で、劉備に弁明して認められるのは難しい、と判断したのでしょう。
孟達は関羽を救助しなかったため、曹丕に味方することになり、蒙恬と伍子胥の話で説得しました。
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優雅な立ち居振る舞いで曹丕から高評価だった孟達
三国志の孟達は、非常に見栄えの良い人物だったため、曹丕から重用されました。
孟達が曹丕からかなり重んじられたので、曹丕の部下から批判が出るほどだったのです。
曹丕は、劉備から鞍替えした孟達を大事にすることで、降伏者が増加することを狙ったのかもしれません。
そして孟達は、劉封にも鞍替えをすすめたのですが、劉封は劉備が父親だからか、曹丕の元には来ませんでした。
結局劉封は、孟達と共に関羽を見殺しにした責任を追及され、劉備から最期を与えられたのです。
劉備は仁義な人物とされていますが、劉禅が誕生したので、劉封を処分しておく方が得だと思ったのでしょうか。
曹丕の元に訪れた孟達は、立派な立ち居振る舞いで評判を獲得しました。
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司馬懿は自分が狼顧の相だからか孟達を警戒していたのです
三国志の孟達は、自己保身で劉璋から劉備へ、更には曹丕へ主君を変更しているため、司馬懿から疑われていました。
司馬懿は、狼顧の相という狡猾で油断ならない人物と曹操からも評価されていたのです。
孟達は再び保身のために蜀漢に戻ろうとするため、司馬懿だからこそ、孟達の本性を見通していたのかもしれません。
そして孟達は、曹丕の部下の魏諷からも高評価でした。
魏諷は後に魏王朝に背くので、孟達と魏諷は、類は友を呼ぶな関係だったのでしょうか。
ちなみに、司馬懿も後には曹一族と対決するため、誰が本当の味方か見抜くのは、容易ではないでしょう。
孟達は上辺は優雅な対応でしたが、本性に気付いている者もおり、司馬懿は孟達の裏切りを危惧していたのです。
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孟達は曹丕が亡くなると蜀漢の諸葛亮に付くのが有利と考え始めました
三国志の孟達は、魏で曹叡が皇帝となったため、立場が危うくなると思い、諸葛亮の北伐に加担しようとしたのです。
ただ、孟達が何度も主君を変更しているので、蜀漢の内部でも孟達を危険視する声もありました。
ですが、諸葛亮は北伐の際に、何でも利用したいと考えており、孟達と書面のやり取りを繰り返したのです。
そして諸葛亮は、腹心の軍師馬謖を街亭の戦いの指揮官に任命しました。
街亭の戦いは、山の麓あたりを防御すれば良いものだったのですが、馬謖は功を焦り登山し、水を魏軍に取られて自滅したのです。
孟達は、皇帝が代替わりし居辛くなったため、いつも通り主君の鞍替えを思考し、諸葛亮に連絡しました。
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孟達は蜀漢の諸葛亮への内通を司馬懿に察知され最後を迎えたのです
三国志の孟達は、諸葛亮の北伐に協力しましたが、司馬懿は電撃作戦で一気に孟達を打ち取りました。
孟達は、司馬懿が自分の蜀漢への鞍替えに気付いても、司馬懿が曹叡皇帝の許可を得るために、かなりの日数がかかると考えていたのです。
司馬懿は、孫子の君命に受けざるところありを体現し、迅速な対応で孟達の謀反と魏の損害を防ぎました。
曹叡は司馬懿を処罰するどころか、むしろ称賛したのです。
そして司馬懿が孟達を斬り、街亭の戦いでも張郃が馬謖に勝利することで、諸葛亮の北伐も失敗しました。
諸葛亮は鬼才と言われていますが、他の武将の扱いは、あまり上手いとは述べられないでしょう。
孟達は、諸葛亮の北伐に呼応したのですが、司馬懿は孫子の兵法を体現し、孟達を撃破したのです。
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まとめ:三国志の孟達子度(もうたつしど)の蜀と魏を渡り歩いた能力
三國志の孟達は、蜀から魏に華麗なる転身を遂げたことを解説してきました。乱世で生き残るには、どんどん鞍替えしていくのも生き方のひとつでしょう。
そして孟達が、劉備の入蜀に貢献していたことも説明しました。孟達は劉備のためというよりも保身なので、劉備はあまり恩に感じていなかったのではないでしょうか。
また孟達は、魏の曹丕から厚遇されていたことも述べました。曹丕は策略が多いので、ただ単に重用したというのはあり得ないでしょう。
他にも孟達の保身で裏切る性格は、司馬懿にはバレていたことも書きました。賢い人は上辺ではなく本質を見ているものなのでしょう。
孟達は、主君をどんどん変えた人物ですが、乱世に翻弄されていた面も大きいと言えます。