曹操と皇帝!ならなかった、天才、魏武、息子、子孫日本、劉備も解説

三国志の曹操は、皇帝に近い存在だったにも関わらず、皇帝になりませんでした。

曹操は、ただ単に皇帝にならなかったわけではなく、深い理由があったのです。何かを得る事だけがメリット、と考えてしまう人も、勉強になるでしょう。

そして曹操は、息子曹丕から武皇帝とされたことも、説明していきます。曹丕は自らが皇帝となるだけでなく、なぜ曹操まで、皇帝にする必要があったのでしょうか。

また曹操が、皇帝に近かっただけでなく、天才な存在だったことも記載していきます。自分の対応で故事が作られるレベルになってこそ、本物の天才なのでしょう。

他にも、天才武皇帝曹操の子孫が日本にいたことも、述べていきます。日本史を知っている人は、聞いたことがある人でしょう。

曹操と皇帝を詳しく解説していきます!

⇒始皇帝と劉備!水銀陵墓死因、妻寵姫、子孫日本、本名えいせいも解説

⇒曹操と呂布!最後命乞い、劉備死因、戦い最期、中国三国志最強も解説

スポンサーリンク
おすすめ中国史商品検索窓口

曹操は皇帝にならなかったことで周の文王のように徳を天下に示しました

三国志の曹操は、後漢の皇帝劉協を確保し、献帝の実力を凌駕していたので、いつでも皇帝に即位出来る環境だったのです。

ですが曹操は、殷配下の周の文王が、天下の多くを掌握していながら、皇帝とならなかったことを評価し、自分自身で見習いました。

そして周の文王は、悪王として有名な殷の紂王に、仕えていたのです。

殷の紂王は、贅沢に好き勝手行うという意味の酒池肉林の故事成語を、生み出すほどの暴君でした。

しかし周の文王は、殷の紂王に、はむかわずに生涯を終えたのです。

超世の傑曹操は、かつての周の文王のように、実力者でありながら献帝劉協に臣下の礼を行い続け、皇帝になりませんでした。

⇒漢王朝最後の皇帝!劉協、献帝、末裔、曹操司馬懿、滅亡、皇后も解説

魏の重臣の片目で眼帯な夏侯惇は曹操に皇帝就任をすすめました

三国志の曹操は、腹心の勇将夏侯惇から、皇帝即位を要請されましたが、断ったのです。

皇帝というのは、一番上の立場と言えるもので、そのトップに無理になってしまうと、曹操に批判的にな者たちが活気づく危険性があったからでしょう。

夏侯惇は曹操から異例の厚遇を受けていた人物で、いわば別の空間の曹操と言えるほどの存在でした。

夏侯惇からすると、曹操の出世は自らの出世なので、気軽な気持ちで皇帝即位をすすめたのかもしれません。

夏侯惇は、曹操が最後を迎えると、曹操に引っ張られるように亡くなったのです。

曹操は、眼帯片目の腹心夏侯惇元譲(かこうとんげんじょう)からも、皇帝即位を求められましたが、徳を重視して拒絶しました。

⇒三国志かこうとん!夏侯惇能力、眼帯逸話、曹操死因、関羽因縁も解説

スポンサーリンク

曹操は死後に後継者の曹丕から太祖武皇帝とされたのです

三国志の曹操は、生前は皇帝に就任しませんでしたが、曹丕が文皇帝となったことで、武皇帝に就任しました。

  • 曹操の息子曹丕は後漢皇帝劉協から禅譲され文皇帝に就任したのです
  • 曹丕が文皇帝に就任し曹操が武皇帝となったことで劉備は蜀漢の昭烈皇帝に即位しました

曹丕は魏の初代皇帝ですが、実質は曹操が初代皇帝と言えるかもしれません。

そして曹操の息子曹丕は、曹操も皇帝であるとすることにより、皇帝一族としての権威を高める事にも成功しました。

曹丕が自分だけ皇帝だと、私心で天下を奪ったように見えますが、父親の曹操も皇帝にしておけば、孝行に見えるのではないでしょうか。

ちなみに曹丕は、後漢皇帝劉協から禅譲を受ける際に、何度か辞退した上で、やむを得ず禅譲を受け入れた体を取っています。

曹操の子供曹丕は、自らが文皇帝に即位した記念に、父曹操を太祖武皇帝に就任させました。

⇒曹丕司馬懿!性格どんな人?四友関係、曹操曹真曹爽曹植、最後も解説

曹操の息子曹丕は後漢皇帝劉協から禅譲され文皇帝に就任したのです

三国志の曹操の子供曹丕は、曹操と異なり、献帝劉協から禅譲を受け、文皇帝に即位しました。

献帝劉協は、曹丕から山陽公の立場を与えられ、名目は皇帝ではないのですが、特別待遇を受けたのです。

そして曹操が、皇帝に即位する必要がなかった理由には、皇帝の権威に就かずとも、他の武将を指導出来る実力を有していたことが、挙げられます。

曹丕は曹操の息子という面が大きく、能力面では曹操以下なので、皇帝の権威が無ければ、他の武将から侮られる危険性もあったのです。

曹操の息子の曹丕子桓(そうひしかん)は、後漢の献帝劉協を退位させ、皇帝となることで、父曹操に匹敵する実力を獲得しました。

⇒賈詡と曹操!逸話、評価、どんな人?能力、典韋張繡、息子曹丕も解説

曹丕が文皇帝に就任し曹操が武皇帝となったことで劉備は蜀漢の昭烈皇帝に即位しました

三国志の曹操が武皇帝とされたことで、劉備は自らが、後漢朝廷の正統な後継者であることを示すために、昭烈皇帝となったのです。

劉備は、曹操が後漢朝廷で影響力を拡大し、魏王になったので、対抗して漢中王に就任しました。

後漢皇帝劉協の先祖は、初代皇帝の劉邦であり、かつて劉邦は、天下を掌握する際に漢王に即位したのです。

劉備は漢中王になることで、かつて劉邦が覇王項羽に勝利し前漢の初代皇帝に就任したように、自らも曹操に勝利して、後漢朝廷を立て直す決意を示しました。

曹操が魏王になったため、劉備玄徳(りゅうびげんとく)が漢中王に即位した時のように、武皇帝曹操に対抗し劉備は昭烈皇帝に就任したのです。

⇒三国志劉備!どんな人?能力、誓い仲間、最後、人肉逸話、曹操も解説

スポンサーリンク

武皇帝曹操は悪事を発見する天才でしょう

三国志の曹操武皇帝は、自らへの反逆をすぐに未然に、察知するほどの天才だったのです。

曹操のうわさをすると曹操が現れる、という名言は、天才の危機管理能力を表しています。

そして曹操は、董卓が後漢朝廷を掌握していた際に、董卓が暴君なため、王允の七星宝刀で暗殺しようとしました。

しかし失敗し、曹操は董卓から追われる存在、となってしまったことがあるのです。

最終的に董卓は討たれますが、曹操は抵抗勢力の厄介さを、自分自身で立証したと言えます。

政府を牛耳りたければ、曹操のように素早く、反対派を潰すべきなのかもしれません。

武皇帝曹操に天才的な察知能力があったのは、自分自身が悪を除くために、手段を選ばなかったからでしょう。

⇒三国志おういん!王允娘、董卓、さいよう、かく、呂布、李傕も解説

武皇帝曹操の子孫には日本の遣隋使で有名な高向玄理もいます

三国志の武皇帝曹操の末裔には、日本の大化の改新で活躍した、国博士の高向玄理もいました。

一見無関係に見える日本史と三國志も、こういうところで繋がってくるのです。

そして、蘇我入鹿と蘇我蝦夷が、大和朝廷で専横を行っていたため、中大兄皇子と中臣鎌足が、2人を討ったのが乙巳の変とされています。

その後の新しい政治の場、中国で学んだ知識を披露したのが、高向玄理なのです。

また、曹操の子孫の高向玄理は、朝鮮半島の新羅にも訪れています。高向玄理は、先祖の曹操のように、高い能力を保有していたのでしょう。

曹操武皇帝の子孫には、日本史の小野妹子との遣隋使で著名な高向玄理(たかむこのくろまろ)もいます。

⇒毌丘倹!能力、高句麗、公孫淵、文欽の乱文鴦、司馬師、諸葛誕も解説

スポンサーリンク

まとめ:三国志の曹操孟徳(そうそうもうとく)は魏の太祖武皇帝で天才

三國志の曹操が、皇帝に即位しなかったにも関わらず、結果的には後漢で、強大な影響力を行使したことを解説してきました。

曹操は獲得してないにも関わらず、実は得ている天才的な実力で、偉人足り得たのでしょう。

そして曹操が、いにしえを深く学んでいたことも、説明してきました。昔を学習していけば、曹操のような天才的な考えが、思い浮かぶかもしれません。

また、曹操のライバル劉備が、王と皇帝就任の件で、対抗していたことも書いてきました。

劉備は、仁義で漢帝室再興を考えていたので、曹操がどれくらい後漢皇帝に近い存在だったかが、分かるでしょう。

曹操は、天才的な発想で皇帝に就任せずに、天下を統治したのです。

⇒曹操と張遼!泣く子も黙る強さ、死因どんな人?関羽関係、呂布も解説

重要なお知らせ

スポンサーリンク

おすすめ中国史商品検索窓口

 

 

↓中国史大人気関連記事↓

中国史史記と三国志のカテゴリー

-三国志の魏の武将