三国志で益州を統治していたのが、劉璋です。
劉璋の父劉焉は野心家で、益州からの勢力拡大を狙っていました。劉璋も同じように、勢力を伸ばしたのでしょうか。
そして劉璋は、近くの張魯の強大化にも悩んでいました。劉璋は温厚に、抗議で済ませたのでしょうか。
また、劉璋が劉備を呼ぶ際に、賛否両論がありました。劉璋は結局劉備をどうすることにしたのでしょうか。
劉璋配下の法正が、後に劉備に貢献したことも書いていきます。劉璋が法正を使いこなしていれば、劉備が敗れていたかもしれません。
他にも、劉璋配下の武将が諫言するために、壮絶な最後が来たことも説明していきます。劉璋がもっと有能なら、簡単には劉備が蜀漢の主にはなれなかったでしょう。
三國志の劉璋を詳しく解説していきます!
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目次
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父劉焉の時に勢力下だった張魯が自立したので怒った劉璋
三国志の劉璋は、五斗米道の張魯が勝手に自立したため、張魯の母と弟に最後を与えました。
- 献帝から警戒された劉焉(りゅうえん)の息子が益州の劉璋
- 劉璋の父劉焉は贅沢な馬車を愛用したことで荊州八俊の劉表(りゅうひょう)から批判されました
劉璋の父劉焉は、張魯の母が美女であったので、張魯たちを重用していたのです。
そして張魯は、五斗米道という黄巾の乱の太平道張角と似ているやり方で、統治を行いました。
乱世で混乱する民衆の支持を集めた張魯は、劉璋だけでなく曹操にも対抗し得るほどだったのです。
また、張魯の勢力拡大を喜んだ部下から王を名乗ることを望まれましたが、軍師は自重をすすめました。
後に張魯は曹操から、実は良い心を持っていると評価されていますが、王にならなかったことも評価に含まれていたのでしょうか。
五斗米道の張魯公祺(ちょうろこうき)は、劉璋に反抗する事で、弟と母を失いましたが、善政を行ったのです。
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献帝から警戒された劉焉(りゅうえん)の息子が益州の劉璋
三国志の劉璋は、益州から勢力発展を目論んでいた劉焉の子供です。
劉焉の野望は、後漢皇帝劉協も知るところで、劉璋に諫めさせようとしました。
献帝は、董卓や曹操を抑えることが出来なかったように、劉焉にもあまり効果が無かったのです。
そして劉焉は、献帝の話を聞かないどころか、息子劉璋を都長安に帰さないようにしました。
劉焉の後漢皇帝への反抗だったのでしょうか。それとも献帝に未来が無いと思ったのか・・・
また、劉焉が献帝に危険視されつつも益州で権勢を得たことで、息子の劉璋は益州を獲得出来ました。
乱世において、ある程度の野心はむしろ、身の保身になるのでしょうか。
益州の劉璋は、後漢皇帝劉協に野心を危惧された劉焉の子供です。
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劉璋の父劉焉は贅沢な馬車を愛用したことで荊州八俊の劉表(りゅうひょう)から批判されました
三国志の劉璋には、荊州の統治者劉表から警戒された父劉焉がいたのです。
劉表は、益州の劉焉が荊州まで勢力を伸ばしてくることを危惧したのでしょう。
そして劉表自身は、荊州統治者に留まり、一見後漢朝廷に忠実に見えながらも滅亡に向かっていました。
なぜなら、都で曹操が勢力を拡大しており、抵抗勢力を打倒していたため、劉表は曹操に付くか抵抗するかをハッキリしなければならなかったからです。
劉璋の父劉焉の野望は、平穏な時代には批判されるべきですが、乱世の時には、やむを得ない事と言えるでしょう。
荊州八俊の劉表は、劉璋の父劉焉君郎(りゅうえんくんろう)の勢力拡大を恐れていましたが、乱世のならいと述べられるかもしれません。
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張松と孟達と法正は劉璋を見限り劉備(りゅうび)に味方しました
三国志の劉璋の配下には、能力の高い法正と張松と孟達が、所属していたのですが、劉備に付こうと考えていたのです。
超世の傑曹操が、益州にも影響を及ぼしてきており、劉璋は強力な軍勢を欲していたため、劉璋自身も劉備を招こうとしました。
かつて冀州に韓馥という統治者がいたのですが、臆病で乱世に適応出来なかったため、四世三公の名門袁紹に冀州をあげたのです。
韓馥は袁紹に力も握られてしまい動揺し自殺しましたが、劉璋は劉備に益州を提供して生き残れるのでしょうか。
有能な劉璋配下の張松(ちょうしょう)と法正(ほうせい)と孟達(もうたつ)は、劉備に鞍替えする事で、乱世で飛躍しようとしました。
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劉備は劉璋の兄劉瑁の未亡人を妻とすることで益州の継承者を確たるものとしました
三国志の劉璋の兄には劉瑁がおり、すでに死去していたので、劉備は劉瑁(りゅうぼう)の未亡人を妻とし人心掌握したのです。
劉備は当初は、劉瑁が同じ劉であるため、未亡人でも妻とするのは・・・と考えていました。
ですが、劉備の軍師法正が強く薦めたので、劉瑁の未亡人を妻に迎えたのです。
そして法正は、劉璋配下で張松が裏切り者として処刑されていく中で、生き残りました。
元の主君から別の主君に鞍替えするのは、簡単な話ではないのでしょう。
また後年劉備は、夷陵の戦いで陸遜に惨敗したのですが、軍師諸葛亮は法正さえいれば・・・と嘆いたのです。
劉備は軍師法正の進言もあり、劉璋の兄劉瑁の未亡人を妻としました。
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劉璋配下の黄権と王累は劉備が入蜀することに反対したのです
三国志の劉璋の配下には、主君思いの王累と黄権がおり、劉備を警戒していました。
王累は劉備の入蜀に頑強に抵抗し、高い建物から吊られて献策したのですが、失敗して最後を迎えたのです。
劉璋の配下にも、王累のような忠誠心あふれる賢人がいました。
そして黄権は、劉璋に対して劉備は実力があり過ぎるので、上手く対処出来なければ、益州を奪われると進言したのです。
ですが黄権は、劉璋の本拠地成都が劉備に攻略されたため、劉備の軍門に降りました。
劉備は仁義を掲げているので、劉璋配下の名将たちを上手く味方に出来たのでしょう。
劉備の入蜀に抵抗したのが、劉璋配下の黄権公衡(こうけんこうこう)と王累(おうるい)です。
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劉璋と劉備の益州平定戦では厳顔と張飛のドラマもあったのです
三国志の劉璋配下の厳顔は、劉備軍の張飛に激しく抵抗しましたが、捕えられました。
張飛は激しい気性で知られており、なかなか降伏しなかった厳顔を強く罵ったのです。
劉璋配下の厳顔も、劉備軍の無礼を咎め激しく応酬しました。
張飛は厳顔が本物の勇者であることが分かったため、自らの非を認め丁寧に待遇し、厳顔たち降伏者の心をつかんだのです。
また、五虎大将軍に黄忠がいますが、老将として知られ、同じ老将の厳顔とタッグで戦果を上げました。
能力が高くとも活かせなかった劉璋と反対に、劉備の配下では老将でも力を発揮したのです。
張飛益徳(ちょうひえきとく)に、劉璋配下の厳顔(げんがん)は、対抗しましたが敗れ、以後は劉備配下として活躍しました。
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まとめ:三国志の劉璋季玉(りゅうしょうきぎょく)と益州と蜀
三國志の劉璋が、どのように益州を統治したかを解説してきました。父劉焉がもっと生きていれば、劉璋も天下を狙えたのでしょうか。
そして劉璋の父劉焉が、荊州の劉表からも非難されていたことも説明しました。劉璋は父劉焉を見ていたからこそ、あまり勢力拡大しなかったのでしょうか。
また、劉璋配下の有能な者たちが、劉備を迎えたがっていたことも述べました。劉璋と劉備の勝負は、この時すでに決していたのでしょう。
他には、劉璋配下の中に忠誠心の厚い武将がいたことも書きました。どのような主君にも、忠臣はいるものなのでしょうか。
劉璋は益州で平穏に過ごしていたために、乱世に乗り遅れました、戒めとすべきでしょう。