貂蝉と董卓の関係!部下呂布、実在しない、娘董白、一族配下も解説

三国志のかわいい美女貂蝉と董卓の関係は、知っておくべきでしょう。

美人な貂蝉は、董卓と呂布を争わせるために、誘ったのです。2人の武将を戦わせることが出来る事だけでも、貂蝉が美女だと分かるでしょう。

そして董卓と呂布は、美女貂蝉に操られていましたが、美人貂蝉が実在していないと言われているのです。なぜ、実在していない美女から翻弄されるのでしょうか。

また、董卓にもたくさんの部下がいました。華雄は関羽と一騎打ちしましたし、李傕と郭汜は董卓の死後に暴れ回ったのです。

他にも、董卓の配下と言える蘇我入鹿も記載していきます。蘇我入鹿は飛鳥時代の人物ですが、結局どうなったのでしょうか。

三國志の貂蝉と董卓を詳しく解説していきます!

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美女貂蝉は董卓と呂布の関係を悪化させました

三国志の美人貂蝉は、董卓の暴政を砕こうとした王允のために、董卓と呂布の両方に気を持たせたのです。

董卓は悪な政治を行っていましたが、武力を押さえており、王允だけでは対抗出来ませんでした。

そして、王允の娘に貂蝉がいて、かなりの美女だったので、董卓と呂布を惑わせると王允は考えたのです。

また董卓と呂布は義理の父子関係でしたが、貂蝉があまりにも美人だったため、王允の作戦通り仲違いしました。

董卓と呂布は志で仲間だったわけではなく、利益打算の関係に過ぎなかったのでしょう。

美女貂蝉は、董卓だけでなく呂布にも色仕掛けを行い、養父な王允子師(おういんしし)の期待に応えたのです。

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董卓の孫娘董白は幼いにも関わらず領土をもらいました

三国志の董卓の孫娘には、董白がおり、董卓から深い寵愛を受けていたのです。

董白は董卓からの厚遇で出世したため、董卓が没落するとその弊害もダイレクトに受けました。

そして、董卓と呂布を対立させたのは王允なのですが、呂布が董卓を討った後に、董一族をことごとく処刑したのです。

董卓の孫娘も、王允によりあえない最後となりました。

王允は、董卓の高齢の母も処刑するほどの苛烈な対応をしたため、後に董卓の部下の残党から報復されたのです。

王允は後漢の忠臣ですが、実力が伴っていなかったと言えるでしょう。

董卓の孫娘の董白(とうはく)は、たくさんの恩恵を受けていたため、董卓が最期を迎えると自分も道連れになったのです。

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董卓と呂布を翻弄した美女貂蝉は実在していないと伝わっています

三国志の美人貂蝉は、想像力豊かな人が、イメージを膨らませて考えた存在なのです。

董卓と呂布は、実在していない美女でいさかいを起こしていたのでしょうか。

実は呂布は、董卓の侍女と秘密で繋がっており、董卓に判明しないようにしていたのです。

その侍女のイメージを拡大したのが、美女貂蝉と言われています。

そして中国では、美人として楊貴妃と王昭君と西施がいるのです。

この3人をモデルとして、美女貂蝉が誕生したのではないでしょうか。

また、楊貴妃と西施は傾国の美で知られていたので、董卓を破滅させた美人貂蝉とも似ているでしょう。

美女貂蝉は、呂布と董卓を誘惑しましたが、実在していない可能性が高いのです。

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王允は暴政な董卓を暗殺するために曹操に七星宝刀を与えました

三国志の董卓は、王允から貂蝉の色の罠を受ける前も、曹操から消されそうになっていたのです。

曹操は、先祖が前漢の宰相だった曹参の子孫と言われており、董卓の悪政を憎んでいました。

ただ、董卓の武力も高かったため、うかつには攻撃出来ないので、董卓に味方だと思わせていたのです。

そして王允は初めは、曹操を董卓一派だと考えていたのですが、曹操の策を聞き、七星宝刀をあげることで董卓暗殺を委ねました。

曹操は董卓が寝ている際に、こっそり近付き刺そうとしましたが、七星宝刀の眩い輝きで董卓が起きてしまったのです。

董卓は、王允と曹操から憎まれており、曹操孟徳(そうそうもうとく)は王允の七星宝刀で、董卓暗殺を企みました。

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董卓は呂布に討たれましたが部下の李傕と郭汜が長安を占拠しました

三国志の董卓は、美女貂蝉に誘導された呂布により斬られましたが、配下の郭汜と李傕が董卓の敵討ちをしたのです。

  • 董卓の配下の華雄は関羽との汜水関の戦いでの一騎打ちで最後が来たのです
  • 日本の飛鳥時代の董卓の部下と言うべき蘇我入鹿

王允は、呂布と美人貂蝉を利用して董卓を倒したので、後は自分の意のままになると考えていました。

ですので、董卓の残党達に強い態度で臨み粛清したわけですが、反発する者も多かったのです。

そして李傕と郭汜も、主君董卓が敗れたので、初めは王允に降伏しようとしていましたが、強く批判されました。

李傕と郭汜は結局、大軍で王允を倒し、そのまま長安を占領したのです。

董卓の部下の李傕(りかく)と郭汜(かくし)は、美人貂蝉の養父王允から苛烈に責められたため、逆に王允を負かしました。

⇒漢王朝最後の皇帝!劉協、献帝、末裔、曹操司馬懿、滅亡、皇后も解説

董卓の配下の華雄は関羽との汜水関の戦いでの一騎打ちで最後が来たのです

三国志の董卓の部下には、一騎当千の猛将華雄がいましたが、関羽にはすぐに敗れました。

華雄は反董卓連合軍が汜水関に迫ったので、江東の虎孫堅の配下や四世三公の名門袁術袁紹の部下をどんどん倒したのです。

ただ、このどんどん勝利したことで、後に華雄が負ける関羽が、どれくらい凄いかを演出しているとも言えます。

そして、董卓の部下軍師には李儒もいました。

李儒は、洛陽から長安への遷都を献策したり、かつての後漢皇帝を暗殺したりもしているのです。

李儒がいたからこそ、董卓の悪政が長持ちしてのでしょう。

董卓の部下の華雄は、汜水関の戦いで大活躍しましたが、武神関羽に最期を与えられたのです。

⇒かゆう三国志!華雄関羽、ゆしょうはんほう、赤兎馬呂布、李儒も解説

日本の飛鳥時代の董卓の部下と言うべき蘇我入鹿

三国志の董卓と評価されているのが蘇我入鹿なので、入鹿は時代と国境を越えた董卓の部下と述べられるでしょう。

かつて蘇我入鹿の祖父蘇我馬子の時代には、蘇我氏は、聖徳太子と協力していました。

蘇我馬子が存命の際は、強敵物部守屋がいたので、蘇我氏としても朝廷と戦えなかったのでしょう。

そして蘇我入鹿は、物部氏や聖徳太子がいないので専横していましたが、乙巳の変で中大兄皇子と中臣鎌足に討たれました。

悪を行っていると誰かしらが見ており、その制裁を受けるのでしょう。

中臣鎌足は、董卓な蘇我入鹿を討伐した功績と大化の改新の実績により、藤原と名乗るようになったのです。

蘇我入鹿(そがのいるか)は、董卓のような人物と言われており、董卓と同じように最後は悲惨な末路でした。

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まとめ:三国志の美女でかわいい貂蝉(ちょうせん)と董卓(とうたく)と部下呂布の関係

三國志の美人貂蝉は、董卓と呂布にある意味勝つことが出来た美女、であることを解説してきました。

外見の美しさを極めると、天下を統一出来る事もあるのでしょうか。

そして、董白という董卓の孫娘も説明してきました。誰かの一族という理由で良い思いをしていると、一蓮托生になってしまうのでしょう。

また、董卓は悪政を行い過ぎて、王允や乱世の奸雄曹操からも狙われていたことも記載しました。

曹操は董卓を見ていたからなのか、権力者になっても身を慎んでいたのです。

他にも、董卓からあまり学んでいなかった蘇我入鹿も書きました。蘇我入鹿が三国志を読み込んでいれば、蘇我氏の栄華が続いたかもしれません。

美女貂蝉と董卓と呂布の危険な関係は、学んでおくべき人間関係でしょう。

⇒陳宮三国志!最期会話、曹操関係、呂布、劉備、ちんきゅう能力も解説

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