三国志で、鳳雛龐統と共に風采の上がらない賢者と言えば、張松でしょう。
張松で有名なのは、孟徳新書を暗記したことです。孟徳新書は曹操の作品ですが、暗記した後どうなったのでしょうか。
そして張松は結局、乱世の奸雄曹操ではなく、劉備に味方しました。劉備に付くことで、張松の未来は明るいものになったのでしょうか。
また張松は、顔があまり綺麗でないことでも、知られているのです。三国志のイケメンと言えば周瑜や陸遜がいますが、顔は天が定めた決まりなのでしょうか。
他にも、張松の子供と兄も説明していきます。張松の兄ですから、当然張松を助けてくれたのでしょうか。
三國志の張松を詳しく解説していきます!
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目次
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張松は曹操の名著孟徳新書をすぐに暗記するほどの能力
三国志の張松は、曹操軍の強さの秘訣である孟徳新書を暗記して、間違えずに話してみせました。
曹操は人材収集家なので、張松の才能を高く評価するかと思ったら、逆に怒って刑罰を与えたのです。
やはり、張松が曹操を侮りながら暗唱したことが、癇に障ったのでしょう。
そして、曹操の孟徳新書は、あの孫子を参考に作られているのです。
あなたも、孫子を解釈し、何々親書を作成してみるのも良いでしょう。
ちなみに、曹操を侮辱しながら才能を示した禰衡(ねいこう)もいます。
禰衡は、虚名があったため、曹操は他の武将に送り付けて始末させたのです。
張松は、孫子を利用した曹操の孟徳新書を暗記し、能力を見せましたが、逆の結果となりました。
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張松の孟徳新書暗記能力を高評価した楊修
三国志の張松が、曹操の愛書孟徳新書をすぐに諳んじたので、楊修は驚きました。
そもそも楊修は、曹操配下で大量の仕事を上手くこなす有能な人物だったのです。
その楊修も驚嘆するほどの能力を張松は、持っていました。
そして楊修は、曹操が鶏肋と述べた際、捨て難いとして、他の者たちに軍の退却を指示したのです。
一見良い見解なのですが、主君曹操の考えを見通し過ぎたことで、後に楊修は曹操から最後が送られました。
良い能力もひけらかすように見せていくと、逆に危うい結果になることもあるのでしょう。
張松の才能を称賛した楊修徳祖(ようしゅうとくそ)は、曹操を知り過ぎたため、最期が近付いたのです。
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曹操を見限った張松は劉備から重用されたのです
三国志の張松は、曹操の傲慢さに嫌気が差し、劉備に益州を託そうと考えました。
曹操は天下の多くを掌握しており、益州も一気に踏み潰そうと思っていたため、益州劉璋の使者張松をぞんざいに扱ったのです。
そして張松は、劉璋軍の中でも高い地位を有していたので、益州地図を持っていました。
益州地図があれば、益州を獲得したも同然であり、張松はそれを劉備にあげたのです。
張松の思惑通り進んでいると思っていたら、劉璋に劉備への内通がバレてしまい、処罰されて最後が来ました。
劉備は仁義の軍勢なので、劉備陣営の中に、張松があまりにも露骨に裏切り過ぎている、と考えた軍師がいたのでしょうか。
張松は、益州を頼むことが出来るのは、劉備だけと考えていたのですが、劉璋には理解されず、処刑されたのです。
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張松と共に劉備を益州に迎えようとした法正
三国志の張松は、自分だけでなく賢者として知られていた法正も抱き込んで、劉備を呼ぼうとしていました。
法正は、後に定軍山の戦いで、曹操配下の勇将夏侯淵を打ち取るほどのすごい鬼才です。
法正にも見限られていた劉璋は、やはりその程度の人物だったのでしょう。
そして、劉璋の配下には許靖という名声のある人物もいました。
ですが、許靖は初めから劉備に付くわけでもなく、劉璋が危なくなってから劉備に寝返ろうとしたのです。
劉備は許靖の不忠を批判していましたが、名声ある者を重用する姿勢を示すために、許靖に地位を与えました。
劉璋の配下には、張松と法正以外にも、後から劉備に味方しようとした許靖もいたのです。
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劉璋配下の別駕の張松は能力の高い官吏
三国志の張松は、有能な人物で、別駕という高い地位に就いていました。
- 張松は顔が悪いだけでなく鼻も不格好だったと言われています
- 顔が良くなかった張松の子供張表は優れた外見
劉璋は益州付近を統治していたのですが、曹操の勢力拡大を警戒し、使節を派遣したのです。
曹操側も益州まで手に入るわけですから、当初は友好的に振る舞っていました。
ですが、曹操は自らに匹敵する勢力が減ってきたことで、傲慢になり、劉璋の使者張松を侮る対応をしたのです。
怒った張松は、劉璋に劉備に付くことをおすすめしました。
結局張松は、曹操が勝とうが劉備が勝とうが、どちらでも良かったのかもしれません。
張松が重要な内はセーフですが、用済みになると・・・
益州の劉璋の部下の張松は、曹操と結ぼうとしていましたが、失敗し、劉備と連携する事を決意したのです。
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張松は顔が悪いだけでなく鼻も不格好だったと言われています
張松は、三国志の中でも、顔が良くない方の部類に含まれているのです。
もしかすると、張松の才能が際立つように、顔が悪い存在にされたのかもしれません。
そして、鳳雛と評価されていた龐統も、張松クラスの残念な顔と伝わっています。
龐統は司馬徽から鳳雛と評価されるまでは、外見の悪さから、あまり支持されていませんでした。
また、諸葛亮孔明の妻の黄月英も、美しくないことで有名です。
孔明の嫁選び、と故事成語にもなっています。
三国志の世界でも、顔と能力が両方揃うのは、難しいのでしょうか。
ちなみに、三國志のイケメン武将で人気なのは、周瑜と荀彧と陸遜でしょう。
張松は、鳳雛龐統や黄月英と同じくらいの顔のクオリティでした。
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顔が良くなかった張松の子供張表は優れた外見
三国志の張松は、容貌が悪いとされていますが、息子の張表は立派な見かけと言われています。
張松の妻が、美人な女性だったのでしょうか。
そして張松の兄は、張粛なのですが、張松の劉備招聘を支持していませんでした。
ですので、張粛は弟張松の陰謀を知ると、益州の主君劉璋に、張松の策略を暴露したのです。
張松は、実の兄に裏切られあえない最後となりました。
張松はなぜ、事前に兄張粛に相談していなかったのでしょうか。むしろ裏切りは、張松の方かも・・・
また張松は、兄の信頼すら得られていませんでした。
劉備からも結局は、益州を獲得するための手段、としか見られていなかったのかもしれません。
張松の息子が張表(ちょうひょう)で、兄が張粛(ちょうしゅく)です。
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まとめ:三国志の張松永年(ちょうしょうえいねん)の暗記技能と先を見る能力
三國志の張松が、優れた記憶能力を持っているだけでなく、劉備の将来も見抜いていたことも解説しました。
張松がもっと生きていたら、蜀漢が人材難に陥らなかったかもしれません。
そして張松が、孟徳新書により、曹操から恨みを買ったことも書きました。孟徳新書はそれだけ、曹操の思い入れが深かったのでしょう。
また、張松の能力を称賛した楊修も説明しました。楊修も結局は、曹操から処刑されたので、張松と楊修は、似た者同士だったとも言えるでしょう。
他にも、顔が良くなかった張松の子供が、なぜか素晴らしい外見だったことも記載しました。
親の外見は、息子に関係ない事もあるのでしょう。
張松は、早くから劉備に味方したにも関わらず、残念な最後な人物なので、知っておくと何かに役立つかもしれません。