三国志うきん!于禁憤死、青州兵、関羽死因、曹操絵、豊臣秀吉も解説

三国志で、最後の晩節を汚した残念武将と言えば、于禁でしょう。

于禁は、日本の戦国時代の有名武将豊臣秀吉に似ているのです。秀吉は猿と揶揄されていましたが、于禁はどのような部分が、秀吉風なのでしょうか。

そして于禁は、若い時から将軍としての活躍を期待されていました。于禁は残念な最後だったため、若い時に力を使い果たしたと言えるかもしれません。

また曹操軍には、ユニークな青州兵という部隊もいたのです。于禁は青州兵とトラブルがあったのですが、于禁はどのように対応したのでしょうか。

他にも、于禁を打ち負かした関羽の末路も記載していきます。于禁に勝利していながら、関羽はなぜ上手くいかなかったのでしょうか。

三國志の于禁を詳しく解説していきます!

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曹操の敗戦の宛城の戦いで殿を務めた于禁は三国志の豊臣秀吉

三国志の于禁は、曹操の油断を付いた張繡軍に上手く対処したので、被害が少なくなりました。

そもそも張繡は、曹操の軍門に下っていたにも関わらず、曹操の言動に不快を抱き謀反したのです。

そして、日本の戦国時代に織田信長が、浅井長政に妹を嫁がせて同盟を結んでいました。

織田信長が突如朝倉攻めを行うと、朝倉と関係の深い浅井長政が、織田信長を攻めたのです。

その際に殿を務めたのが、後の豊臣秀吉でした。

また、豊臣秀吉は何とか持ちこたえ、織田信長の脱出を援護したことで、他の武将よりも上の地位に大出世したのです。

于禁は、主君曹操のために危険な殿軍を担ったので、三国志の秀吉と呼ぶべき人物ではないでしょうか。

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若い頃から曹操以外の武将からも将軍にふさわしいと評判だった于禁

三国志の于禁は、早熟の将軍であり、超世の傑曹操からも高評価でした。

そして于禁は、徐州の陶謙との戦でも活躍したのです。

陶謙は、曹操の父曹嵩を最後に追い込んだとされており、曹操軍は報復に徐州を荒らし回りました。

かなりの報復だったため、陶謙の援軍として、劉備は仁義で参戦したのです。

他の諸侯が見捨てる中現れた劉備の仁義に感動した陶謙は、徐州を劉備に与えることにしました。

劉備は後に、益州と荊州を統括する武将に登り詰めますが、やはり仁義で人助けをしていたからなのでしょう。

あなたは法律と仁義どちらが大切だと思いますか?

于禁は、曹操だけでなく他の武将からも、評判の良い人物だったのです。

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曹操が組織していた黄巾の乱の残党の青州兵に陥れられなかった于禁

三国志の于禁は、青州兵の不正を糾弾し、黄巾の残党だからか逆恨みされましたが、動じませんでした。

曹操軍に敵が近付いていたので、于禁はしっかりした説明をせずにいたのです。

曹操は于禁を信頼していたため、青州兵の嘘を信じずに、于禁を罰しませんでした。

そして于禁が、急な難題にも対処したので、曹操は于禁の将軍としての有能さに褒美を与えたのです。

曹操は人材収集家であるため、于禁の本質を見抜き、青州兵の虚言を制しました。

また、曹操の元には、于禁以外にも名将張遼(ちょうりょう)と楽進(がくしん)と張郃(ちょうこう)もいたのです。

于禁は、曹操配下の青州兵の乱暴狼藉に、適切に対処することで、能力の高さを示しました。

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樊城の戦いの際に武神関羽の水攻めで晩節を汚した于禁の死因

三国志の于禁は、曹仁の援護に訪れましたが、関羽が水を味方としたため、投降しました。

于禁はやむを得ず降伏しましたが、曹操の部下に最近加わった龐徳は、関羽に頑強に抵抗したのです。

龐徳の前の主馬超は、関羽の主君劉備に付いているにも関わらず、龐徳は曹操への忠義を貫きました。

このことで、于禁が曹操軍の歴戦の勇将であったのに、関羽の軍門に下ったことが際立ったのです。

そして関羽は、確かに魏軍に圧勝しましたが、荊州の守りを疎かにしたことで、呉の孫権たちに荊州を奪われました。

関羽は抵抗したのですが、孫権軍に最後を与えられ、于禁は孫権の元でしばらく過ごしたのです。

于禁は樊城の戦いで、曹仁を助けようとしましたが、逆に関羽に敗れました。

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曹操と袁紹の戦いの隙を突いた劉備の挙兵と于禁

三国志の于禁は、四世三公の名門袁紹の攻撃を防御することで、曹操の劉備討伐を援護しました。

劉備は、前漢の高祖劉邦の子孫を名乗っており、後漢を牛耳る曹操と対立していたのです。

そして袁紹は、官渡の戦いで曹操に大敗するのですが、劉備の軍勢をもっと積極的に助けていれば、この時点で曹操に勝てたという意見もあります。

劉備援護を主張していたのが、袁紹の軍師田豊で、官渡の戦いに反対することで投獄されてしまいました。

袁紹の元には優秀な軍師がいましたが、曹操のように使いこなせなかったのです。

曹操は于禁の援助もあり、袁紹軍が来る前に劉備撃破に成功し、良い体制で官渡の戦いに臨めました。

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曹操の息子曹丕の代で祖国に戻った于禁を待ち受けていた悲劇絵で憤死

三国志の于禁は、身を屈することで生き永らえており、祖国に帰れましたが、関羽に降伏した大恥の絵画が飾られていたのです。

曹丕は、表立って于禁を批判することはありませんでしたが、内心では于禁を蔑んでいました。

父曹操から重用されていたにも関わらず、于禁があまり抵抗せずに簡単に敵に降伏したことが、許せなかったのでしょう。

于禁は法律を重視し厳しく部下を律してきたのに、自分が敵の軍門に下ったことを本当は恥じていたため、関羽との戦いの絵画を見た後に、無念と自責で最後が来ました。

于禁は関羽の水攻めの不運で敵に降伏し、何事も無かったかのように過ごしていましたが、祖国で大恥の責任を取らされたのです。

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于禁は法律を重んじる将軍で他の曹操の部下も敬礼していたのです

三国志の于禁は、部下を統制する際に、法を厳酷に適応したため、畏怖されましたが親しみを得られませんでした。

曹操は朱霊を嫌っており、どうにかして軍勢を解体したいと思っていたのです。

ですので、曹操の他の配下からも恐れられている于禁を利用し、朱霊の軍を于禁の部下としました。

朱霊たちは、于禁に畏怖し抵抗するするどころか、身動きすら取れなかったのです。

そして、于禁と並び称される将軍として、楽進がいました。

楽進は于禁と異なり、法律よりも部下を選ぶ人物だったわけですが、本当はどちらが良いのでしょうか・・・

于禁は、法律を大事にしており、曹操の他の部下たちからも畏怖されていたのです。

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まとめ:三国志の于禁文則(うきんぶんそく)は死因が憤死

三國志の于禁は、曹操の元で大活躍したからこそ、憤死が死因となってしまったことを解説してきました。

于禁が法律ではなく、もっと違う方法で部下を統制していたら、結果は変化したのでしょうか。

そして于禁が、豊臣秀吉のように、曹操軍の危険な殿軍をきっちり行えたことも説明しました。どこかで一見損に見える役回りをこなしてこそ、皆に認められるのでしょうか。

また于禁が、関羽との激戦よりも、生き残ることを選んだことも記載しました。于禁が本気を出して最後の一兵まで戦えば、関羽を打ち取ったのは、于禁だったかもしれません。

于禁は、法律により厳しく軍隊運用を行っていたにも関わらず、最後は命惜しさに敵に降伏しているため、学ぶところも多いでしょう。

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