曹丕司馬懿!性格どんな人?四友関係、曹操曹真曹爽曹植、最後も解説

隠した鬼才で知られる司馬懿と仲が良かったのが曹丕です。

司馬懿は、曹操からも警戒心を持たれる才覚と偽りのある人物でした。曹丕との関係性が無ければ、すぐに最期だったかもしれません。

司馬懿のライバルは諸葛亮孔明、と言われることが多いですが、曹真も見逃せません。曹真は、諸葛亮の思惑を見抜いて対策を講じた事もあります。

そして、司馬懿の子孫たちの天下を決定的なものとしたのが、曹爽との対決なのです。司馬懿らしい謀略で勝利しました。

また、司馬懿の妻の紹介もします。まさに司馬懿の妻というべき、油断ならない性格な女性です。

三國志の曹丕と司馬懿を詳しく解説していきます!

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曹操も疑念を抱いていた司馬懿を保護した曹丕との良好関係

三国志の曹丕は、司馬懿と気が合っていたため、曹操からの司馬懿への危惧から守ってあげていました。

曹丕は、曹操の他の息子たちと後継者争いもあったので、ひとりでも味方を確保しておきたい、という思惑もあったのでしょう。

司馬懿も曹操の天下の中で、御曹司とつてがあった方が、何かと便利だったのかもしれません。

そして司馬懿は、曹丕が40くらいの年齢で最後を迎えた後は、曹丕の次の曹叡(そうえい)の軍師も務めました。

また、司馬懿が長生きしたからこそ、天才諸葛亮孔明に対抗し得、曹丕の子孫繁栄になったのでしょう。

曹丕が、司馬懿仲達を曹操の疑惑から守護することで、良い絆が作られていきました。

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曹丕の四友は司馬懿と陳羣と朱鑠と呉質

三国志の曹操の後継者曹丕は、司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)と陳羣(ちんぐん)と朱鑠(しゅしゃく)と呉質と四友な関係でした。

論語で聖人な孔子からも高評価だったのが顔回ですが、陳羣は曹丕から顔回と称されていたのです。

朱鑠は曹真と共に、呉質に外見を揶揄されたため、かなり怒りました。

そして呉質は、曹操の息子曹丕と曹植の後継者争いで、曹丕に味方しました。

曹丕と呉質が密談していることを曹植派の楊修に察知されたため、持ち物の中身を贈り物に代えたのです。調べても何も不審なものが出なかったため、逆に楊修が疑われたのです。

曹丕は、四友関係な朱鑠と司馬懿と呉質と陳羣と共に政権運営を行いました。

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曹丕は魏の文帝に就任し世界史に重要な足跡を残しました

三国志の曹丕は、何百年も続いた漢帝国を終わらせることで、世界史に重大な転換点を創り出しました。

前漢を高祖劉邦が建国して以来、新の王莽を挟んで、劉氏が何百年も中国を統治していたのです。

超世の傑曹操孟徳も魏王になるのみで、皇帝にはなりませんでした。

また、いにしえの偉大な王に文王がいるのですが、文王は天下の多くを掌握しながら、殷に頂点を譲っていた人物です。

曹操は文王を目指していたため、皇帝に就任しなかったと言われています。

そして、劉邦の子孫とされていた劉備が、曹丕の文帝即位に対抗して昭烈皇帝となり、孫権も皇帝に就任したため、3人も皇帝がいる三国志が到来したのです。

曹丕が皇帝となると、劉備玄徳や孫権仲謀も皇帝に即位し、世界史に大切な意義をもたらしました。

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後漢朝廷支持な荀彧と司馬一族栄達な司馬懿

三国志の司馬懿は、荀彧が保護した後漢皇帝や曹操に仕えるのではなく、自らや一族に貢献しました。

荀彧は、一時期は曹操から信頼厚く、張良子房であるとまで言われていましたが、権勢を極めようとする曹操と次第に対立し始めたのです。

滅びゆく後漢を支持し続けたことで、荀彧は曹操からも見限られていき最後が来ました。

反対に司馬懿は、ずる賢さを意味する狼顧の相(ろうこのそう)と曹操から見抜かれながらも、曹操政権を生き抜き、孫の司馬炎の晋建国に貢献したのです。

荀彧はどこか曹操を信頼している面があって、曹操に真正面からぶつかってしまったのかもしれません。

後漢朝廷に殉じた荀彧と孫に国を建国させた司馬懿では、重要な拠り所が異なっていました。

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虎豹騎の曹真とライバル司馬懿

三国志の曹真は、虎退治により虎豹騎を率いて、司馬懿と功績を競いました。

司馬懿仲達は、五丈原の戦いで天才諸葛亮孔明と知略を戦わせましたが、陳倉の戦いでは、曹真の勘が冴えたのです。

諸葛亮は魏国の攻略を狙っており、陳倉を通過すると曹真は考え、しっかり防御を整えていました。

郝昭(かくしょう)が上手く陳倉を守備したことで、天才諸葛亮の大軍を追い返したのです。

そして曹真は、蜀漢征伐で評価され、朝廷で特別待遇を受けていました。

実際に蜀漢を滅ぼしたのは、鄧艾(とうがい)と鍾会(しょうかい)ですが、曹真が下地を作ったからこそでしょう。

曹真子丹(そうしんしたん)は虎豹騎で有名であり、陳倉の戦いでは、天才軍師諸葛亮孔明に先んじて、郝昭に守備させた名将と言えます。

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司馬懿の本領発揮!仮痴不癲を見抜けなかった曹爽の最後

三国志の司馬懿は、権力を掌握するために、年老いて判断力が低下したふりをすることで、皇族に連なる曹爽を油断させ排斥しました。

司馬懿が利用したのは、兵法三十六計の愚かを偽装して真の目的を果たす仮痴不癲(かちふてん)でしょう。

そして、桓範という有能な人物は、司馬懿の仮痴不癲を見破っており、曹爽が取り巻きたちと本拠地を留守にする重大性を曹爽に主張しました。

ですが、曹爽は事の重要性に気付けず、司馬懿に魏国での実権を奪われ、しばらくしてから処刑されたのです。

司馬懿自身も数年後に、年齢70歳くらいで最期を迎えました。

司馬懿仲達は、仮痴不癲の兵法で、曹爽(そうそう)の油断を引き出し、司馬一族の天下の基礎を創り出した後、最後が訪れました。

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軍師司馬懿はどんな人?逸話、曹操との関係

三国志の司馬懿は、抜け目がないという意味の狼顧の相(ろうこのそう)と、曹操から疑われるほどの才能と野心を持っていました。

  • 司馬懿は本性を隠して他人に同調する性格でした
  • 司馬懿の妻は張春華で側室は柏夫人です
  • 司馬懿の子孫は現在は存在しないとされています

司馬懿は、曹操の軍師的な立ち位置で、曹操軍が漢中を制圧した際に、蜀あたりに居座っている劉備を防御が整う前に叩くべきと述べたのです。

曹操は劉備を侮っていたのか、光武帝の名言を持ち出して、そのまま放置して帰ってしまいました。

そのしばらく後に、劉備軍の黄忠と法正が、曹操軍の電光石火の猛将夏侯淵を定軍山の戦いで打ち取ったため、曹操よりも司馬懿の方が先見の明があったと言えるでしょう。

司馬懿仲達は、曹操から警戒されつつも軍師として献策を行い、貢献しようとしました。

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司馬懿は本性を隠して他人に同調する性格でした

三国志の司馬懿は、自分の気持ちよりも、他人に取り入ることを優先する性格だったのです。

曹操は、司馬懿を狼顧の相(ろうこのそう)として疑惑を持ち続けましたが、司馬懿の偽る性格を見抜いていたからでしょう。

曹操の部下に、楊修(ようしゅう)という賢人がいました。楊修は、曹操が述べた鶏肋を上手く解釈し軍を撤退させたり、秀でた才能を見せたりすることが多く、逆に曹操から邪魔者と思われてしまったのです。

三國志という乱世では、皆が疑心暗鬼に陥っているため、能力をそのまま出してしまうと、異なる意味に取られてしまうことも多いのでしょう。

司馬懿が、自らの本心を偽ってまで生き抜いたのと対照的に、楊修は才を安直に見せ過ぎたため、曹操から最期を与えられてしまいました。

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司馬懿の妻は張春華で側室は柏夫人です

三国志の司馬懿仲達には、妻として張春華がおり、側室としては柏夫人がいました。

司馬懿仲達は、司馬八達のひとりに数えられるほど、高い能力で評価されていたのです。

人材収集家曹操も、司馬懿の才能に着目しており、登用しようとしましたが、仮病で断りました。

ですが、手伝い係に仮病がバレてしまったため、張春華は手伝い係を消したのです。

この件依頼、司馬懿も張春華に用心するようになりました。

ちなみに、張春華はかなり博学として知られているので、手伝い係がいるとどのような災いが発生するか、瞬時に理解できたのでしょう。

司馬懿も内心感謝していたのかもしれません。

張春華(ちょうしゅんか)は、司馬懿の妻らしく、抜け目ない賢女だったのです。

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司馬懿の子孫は現在は存在しないとされています

三国志の司馬懿仲達の子孫は、八王の乱でかなり亡くなってしまい、現在は子孫はいないと言われています。

司馬懿の子孫で有名な人物は、張春華の子供でもある司馬師と司馬昭です。

ちなみに、司馬昭の息子の司馬炎が晋の皇帝に就任し、中国を再び統一しました。

そして司馬懿は、家系図的には、趙国の名将司馬尚(しばしょう)の息子司馬卬(しばごう)の子孫でもあります。

司馬卬は王に上り詰めましたが、あえない最後を迎えたため、子孫である司馬懿は、慎重に生きたのかもしれません。

そのおかげもあってか、曹操の子孫たちの天下を奪って、司馬懿の子孫たちが栄華を得たのでしょうか。

八王の乱という大事件により、天下を極めた司馬一族も死去していきました。

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父曹操からの寵愛と詩の才能を示した曹植と漢帝室保護で名臣の心をつかんだ曹丕

三国志の曹操は、勢力を拡大し魏王を狙っており、宴を催し、息子の曹植と曹丕が詩を披露し、後継者争いが終結していきました。

曹植は詩の達人として知られており、宴でも素晴らしい詩を魅せました。

そもそも、曹操の宴では、荀彧らの名臣たちが欠席していたのです。出席しなかった重臣たちは、曹操の権力拡大を暗に批判している者たちでした。

曹丕は、漢帝室を思いやる詩を見せる事で、欠席した荀彧たちにアピールしたのです。後に曹丕は曹操の後継者と同時に漢帝室継承者となっていきました。

曹丕は、曹操でも得られなかった荀彧たちの心をつかむことで、曹植子建(そうしょくしけん)との後継者争いに、勝利していったのです。

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まとめ:三国志の曹丕子桓(そうひしかん)と司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)

三国志の曹丕と司馬懿の関係性と活躍を解説してきました。曹丕と司馬懿は、お互いに欠けたところを補っていたのです。

曹操が狼顧の相(ろうこのそう)と述べたように、司馬懿は曹操の子孫たちと対立するようになっていきました。

曹操すら手こずった司馬懿を曹爽では、難しかったのでしょう。

そして、曹爽の父の曹真の代くらいまでは、司馬懿たちを圧倒していたため、その時までに何とかすべきだったと言えます。

曹丕は、曹植との後継者争いを制したことも説明しました。才能だけでなく、より先の重要なことを考えられることが、大事なのでしょう。

御曹司な曹丕と策略野望のある司馬懿の信頼関係への考察は、いろいろな人間関係に活用出来るのではないでしょうか。

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