范増と三国志!項羽亜父関係、鴻門之会、人物像性格、能力死因も解説

三国志の鳳雛龐統は、益州の劉璋との会見の際、鴻門之会の范増を演じたとされています。

范増は、西楚の覇王項羽から、亜父と親しまれるほどの人物でした。項羽は、疑り深い性格だったので、余程范増とは相性が良かったのでしょう。

そして亜父こと范増は、主君項羽が楚の懐王を取り立てることを提案しました。楚の懐王が、范増クラスの策士だったら、項羽を上手く統制して、自らが真の皇帝となれたのではないでしょうか。

また范増は、鴻門之会を利用し、主君項羽に盾突く劉邦を剣舞にかこつけて、亡き者にしようとしました。しかし劉邦は、人望を集めている人物ですから、簡単にはいかないのではないでしょうか。

ちなみに、范増と亜父の読み方は、はんぞうとあふです。

范増と三國志を詳しく解説します!

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西楚の覇王項羽の亜父とは范増なりで二人には深い信頼関係がありました

范増は、覇王項羽から亜父と呼ばれるほど、敬われていたのです。

そして項羽は、かつて秦の始皇帝の大将軍李信に大勝した項燕の子孫、と伝わっています。

項燕は、確かに李信には勝ちましたが、始皇帝の部下の王翦には、大敗してしまったのです。

ですので、覇王項羽は子孫として項燕の雪辱を行うため、范増を軍師に迎えました。

ちなみに、李信は厳酷な秦の始皇帝の元で、項燕に敗れたにも関わらず、その後も将軍として活躍しているのです。

李信は、始皇帝のお気に入りの大将軍、だったのではないでしょうか。

范増は、西楚の覇王項羽に亜父と称され、楚の項燕(こうえん)大将軍の恨みを晴らすために、厚遇されたのです。

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豎子とは一緒に謀略を行えないという名言を鴻門之会後に放った范増


范増は、劉邦に最後を与える千載一遇のチャンスをふいにした項荘を豎子と述べ、項羽も暗に罵りました。

やはり項羽は范増の主君なので、項羽を豎子と言ってしまうと、臣下の道に外れるのではないでしょうか。

そして范増は、劉邦が献上した宝剣を、その場で破壊してもいます。

後に劉邦は、左遷されながらも大勢力となり、項羽に勝利するため、范増の読み通りだったと言えるでしょう。

また劉邦は、項羽の元部下で有能な者を、多く味方としていたのです。最後は結局、人望で決まるものなのでしょうか。

亜父范増は、鴻門之会で劉邦に最期をもたらせなかったことを悔み、豎子とは作戦を共に出来ないと語り、主君項羽をも批判しました。

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陳勝呉広の乱の敗因を分析し范増は項羽に楚の懐王の擁立を進言しました

范増は、春秋戦国時代の王族の影響力を活用することで、強大な秦国を倒せると考えたのです。

そして楚の懐王は、秦の縦横家張儀の領土割譲に騙され、秦軍にも負け更には幽閉されて最後を迎えました。

ですので范増は、楚の懐王に同情する者は多く、民心を集められるとして、楚の王族の子孫の羊飼い羋心を懐王として即位させたのです。

後に楚の懐王は、項羽と范増が秦を滅亡させたので、義帝に就任しました。

また項羽は、後に劉邦に敗北するため、しっかり義帝を確保していれば、違う未来が訪れたかもしれません。

亜父范増は、悲運が多かった楚の懐王を持ち出し、西楚の覇王項羽(こうう)の味方とすることで、秦滅亡のスピードを速めたのです。

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彭城の戦いで劉邦の50万以上の大軍に項羽はわずか数万で勝利したので軍師范増は滎陽の戦いで劉邦にとどめを刺そうとしたのです


范増は、主君の項羽が懐王こと義帝に最後をもたらしたため、彭城の戦いで一時的に危機に陥りますが、項羽の武勇は健在でした。

劉邦たちは、50万以上もの軍勢を動員しながら、覇王項羽に敗れたので、和平を求めましたが范増から拒絶されたのです。

そして范増と項羽は、滎陽で劉邦を閉じ込めたのですが、劉邦が部下の紀信に身代わりをさせて逃亡に成功しました。

また劉邦は滎陽の戦いの際に、軍師酈食其から、春秋戦国時代の列国の子孫に領土を与えれば、民心を得られると聞いたのです。

しかし前漢の三傑の張良からは、列国の末裔を故郷に帰らせれば、勝手に自立してしまうでしょうと批判されました。

亜父范増は、西楚の覇王項羽が彭城の戦いで、劉邦の大軍に勝利したため、滎陽の戦いを行いましたが、劉邦は紀信の犠牲で逃げ延びたのです。

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鴻門之会で范増は項荘を利用し劉邦に最後をあげようとしましたが項伯に妨害されました

范増は、劉邦が秦滅亡の先駆けとなり、皇帝就任に近付いたため、鴻門之会で始末しようとしたのです。

項荘は范増に命じられ、劉邦の近くで剣舞を行い、流れで劉邦に最期を与えようとしました。

しかし覇王項羽の叔父項伯は、劉邦の軍師張良に命を助けてもらったことがあったため、項荘の剣舞を防いだのです。

また、劉邦の部下には樊噲がおり、危機を察知し不意に鴻門之会に訪れ、頭髪上指すほどの迫力を見せました。

ちなみに樊噲は、生肉と大酒を豪快に飲み食いしたため、項羽から高評価されたのです。

亜父范増は、劉邦の皇帝即位を阻むために、鴻門之会で項荘(こうそう)に剣舞させましたが、項伯(こうはく)と樊噲(はんかい)に邪魔されました。

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鳳雛龐統は三国志の中でも鴻門之会の范増の人物像に似ている冷酷な性格の策士でしょう

三国志の龐統鳳雛は、主君劉備が容易に益州を掌握出来るように、魏延に劉璋の前で剣舞させました。

ですが、范増の鴻門之会の際と同様に、劉璋の部下の名将張任も剣舞をし始め、龐統の策略は失敗したのです。

そして龐統が、劉備の的盧馬に乗り落鳳坡に訪れると、劉備の身代わりとなる形で張任に最後を送られました。

龐統は、益州の劉璋との会見で、非道徳なやり方で主君に尽くそうとしたため、残念な最期となったのでしょうか。

三国志の鳳雛龐統士元(ほうとうしげん)は、鴻門之会の亜父范増のように、魏延文長(ぎえんぶんちょう)に陰謀を行わせ益州を獲得しようとしましたが、結局落鳳坡で因果応報な最後が来ました。

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陳平の策略で疑心暗鬼に陥った項羽から范増は邪険にされ怒りで病気が死因となったのです

范増は、覇王項羽から亜父と評価されるほどの人物でしたが、陳平の作戦に対抗出来ず、項羽から疎んじられていきました。

陳平は元々は、項羽軍にいたのですが、項羽の猜疑心の強い性格を見限り、劉邦陣営に鞍替えしたのです。

そして劉邦は、陳平の知力を高く買っており、范増と項羽を不仲にさせるために、莫大なお金を援助しました。

陳平は特に范増への策略は念入りに行い、范増の使者を厚遇し項羽の使者は冷遇したのです。

項羽は、秦を滅亡させた時点で、中国史での役割が終わっている、と言えるかもしれません。

范増亜父は、西楚の覇王項羽から信頼されていましたが、劉邦の軍師陳平(ちんぺい)は巧みな作戦により、項羽と范増を離間させました。

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まとめ:范増項羽の亜父関係と三国志と鴻門之会での能力性格人物像

亜父范増が、主君項羽のために、どのような策を展開したかを解説してきました。項羽陣営に范増以外にも策士がいれば、范増の負担も減ったのではないでしょうか。

そして、鴻門之会で范増が、項羽を暗に豎子と非難するほど激怒したことを、説明してきました。覇王項羽は戦は最強ですが、策略に不得手なので、段々と劉邦に押されてしまったのです。

また、項羽が陳平の策にハマり、范増を遠ざけるようになったことも述べてきました。范増の人心掌握の拙さなのか、陳平の策の深さと言うべきなのでしょうか。

范増は、西楚の覇王項羽から亜父と厚遇される関係でしたが、結局真の信頼も天下も獲得出来なかったのです。

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