項燕と三国志!楚国大将軍、李信史実、項羽王翦、蒙恬昌平君も解説

三国志の孫策は小覇王と称されたので、西楚の覇王項羽の再来と言うべきで、項羽の祖父項燕も偉大な大将軍でした。

項燕は、秦の大将軍李信の大軍勢を、巧みに負かしたのです。李信は、始皇帝からも信任された武将でしたが、項燕はそれ以上の将軍だったということでしょう。

そして、万里の長城で有名な蒙恬も、項燕には勝てませんでした。楚がもっと早く項燕を大将軍に任命していれば、秦ではなく楚が、天下統一を目指す立場だったかもしれません。

また、大将軍項燕を敗北させ、楚王を捕えた王翦も説明していきます。王翦が長生きしていなければ、項燕の楚が秦を併合する可能性も、あったのではないでしょうか。

項燕と三國志を詳しく解説していきます!

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李信が秦の始皇帝に命じられ20万の大軍で攻めて来たので迎撃した項燕大将軍

項燕は、李信が天下統一の総仕上げに、攻め寄せたため、楚の大将軍の威信を示したのです。

そもそも李信は、燕でも、王の喜と太子丹に勝つほど有能な大将軍でした。

しかし項燕は、李信を楚に深入りさせ怠慢を生じさせ、打ち負かしたのです。

そして李信に大勝した勢いで、大将軍項燕は、逆に秦を滅ぼすために大軍を動かしました。

ちなみに、太子丹は祖国燕を救うために、荊軻を暗殺者として始皇帝の元に送り込みましたが、上手くいかず、逆に李信の大軍を招いてしまったのです。

大将軍項燕は、燕王喜と太子丹にも勝利した、李信(りしん)を調子づかせた後に撃滅し、大国楚の底力を天下にとどろかせました。

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項梁は項燕の息子として父の望みであった秦攻略に従事していましたが章邯に敗北しました

項燕には、覇王項羽以外にも親族に、秦に連勝した項梁もいたのです。

そして項梁は、自軍の曹参が、秦の丞相李斯の子供の李由まで斬ったため、秦を軽んずるようになっていました。

宋義は項梁軍が、驕慢に陥っていたので、忠告しましたが、結局項梁は章邯に大敗したのです。

また覇王項羽は、宋義が悠長な策を展開し、秦を復活させる危険性があるとして、宋義を討ちました。

宋義は楚の懐王からも信頼されていたため、宋義の死は、懐王の衰退をも意味しているのです。

項燕大将軍の子供の項梁(こうりょう)は、曹参に秦の丞相李斯(りし)の息子李由を打ち負かさせましたが、慢心を宋義から指摘されても改められず、章邯から最後を送られました。

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匈奴対策で万里の長城を構築した蒙恬を項燕大将軍は城父の戦いで大敗させました

項燕は、斉攻略で活躍する蒙恬にも、城父の戦いで大勝利したのです。

やはり李信も蒙恬も、秦が大国であり、楚は天下統一の障壁に過ぎない、と侮っていたのではないでしょうか。

そして蒙恬は後に、始皇帝の後継者の扶蘇から監督され、胡亥との後継争いに敗れた扶蘇と共に、最後が来ました。

胡亥は趙高の謀略で、始皇帝の次の皇帝に就任出来ましたが、操り人形に過ぎず、胡亥もまた悲惨な最期となったのです。

秦が趙高をもっと早く斬っておけば、項燕の孫の項羽が勢力拡大する隙を、与えなかったのではないでしょうか。

項燕大将軍は、斉を滅亡に追い込む蒙恬(もうてん)にも勝ち、胡亥(こがい)と趙高(ちょうこう)で乱れる前の秦を震撼させました。

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秦の大将軍王翦は60万の大軍勢で項燕の虚を突き楚王負芻も確保したのです

項燕は、王翦の遠大な計略への対処を誤り大敗北を喫し、楚王負芻も奪われました。

負芻は、楚王家の乗っ取りを企んでいた李園に最期を与え、即位した楚王です。

そして李園は、妹の李環が戦国四君の春申君の子供を妊娠しているにも関わらず、李環を考烈王の妻とさせたと伝わっています。

春申君は、真相の口封じに李園から最後をもたらされ、李園も結局は後の楚王に滅ぼされたのです。

ちなみに史記の司馬遷は、春申君ほどの才能があれば、李園を討てたので、ただの油断に過ぎないと批判しています。

項燕大将軍は、蒙恬や李信よりも難敵な王翦(おうせん)には勝てず、楚王家を混乱させた李園(りえん)を討った負芻(ふすう)をも捕虜にさせられました。

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呂不韋の部下だった昌平君を楚王に就任させ項燕は秦の王翦に最後の抵抗を試みたのです

項燕は、始皇帝の腹心の昌平君が楚の王族であったことに目を付け、大将軍王翦に決死の攻撃を再度行いました。

昌平君を部下としていた呂不韋は、始皇帝嬴政の実の父親とも考えられている権勢家だったのです。

その権勢家の呂不韋も、始皇帝に警戒され、最後に追いやられました。

そして昌平君は、呂不韋の末路を危惧し、楚の王族としての務めから、項燕の誘いに乗り楚王になったのではないでしょうか。

また、昌平君に代表されるように、秦も一枚岩とは言えず、秦が本当に項燕への対処を間違った場合、他の国々が復活することもあり得たでしょう。

項燕大将軍は、始皇帝の側近の昌平君(しょうへいくん)の擁立に成功しましたが、王翦大将軍と秦の怒涛の勢いには抗えませんでした。

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王翦から最後に追い詰められた項燕は楚は三戸になっても秦を必ず滅亡させると豪語し始皇帝を恐れさせたのです

項燕は、後一息で秦を滅ぼす寸前にまで追い詰めていたため、楚がいずれは秦を占領すると考えていました。

そして項燕の孫の項羽の軍師范増は、楚の懐王が秦の張儀に操られ、遺憾な最後であったことも利用したのです。

陳勝呉広の乱で、秦への反乱が上手くいき、陳勝は王となりましたが、かつての王族のパワーを味方に出来ておらず、結局失敗しました。

范増は、楚の王族の子孫に懐王と名乗らせ、陳勝のような間違いをせずに、主君の項羽の秦攻略に貢献したのです。

項燕大将軍は、予言通り子孫の項羽(こうう)が軍師范増(はんぞう)の助言を聞き入れ、楚の懐王を擁立し秦滅亡を達成したため、先見の明も有していたと言えます。

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西楚の覇王項羽は大将軍項燕の悲願だった秦攻略を成し遂げたのです

項燕は、始皇帝の師の王翦の大軍に敗れましたが、子孫の項羽は、無念を忘れていませんでした。

秦の二世皇帝胡亥と趙高への不満が高まり、陳勝呉広の乱が起きると、項羽は劉邦と共に秦を倒そうとしたのです。

そして西楚の覇王項羽は、陳勝呉広の乱を治めつつあった秦の名将章邯を、鉅鹿の戦いで撃破しました。

また、楚漢戦争が始まる前の項羽は、劉邦にも圧倒的に優勢で、軍師范増の策で劉邦を左遷するほどだったのです。

項燕大将軍は、王翦に敗北し秦を滅亡させられませんでしたが、孫の項羽は秦を壊滅させることに成功し西楚の覇王となり、前漢の初代皇帝高祖劉邦(りゅうほう)をも圧倒していました。

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まとめ:楚国の項燕(こうえん)大将軍の史実と三国志と李信項羽

項燕が、楚の大将軍としてどれほどの戦果を、獲得したかを解説してきました。秦がすんなり中国を統一出来なかったところが、春秋戦国時代の深さも表しているでしょう。

そして項梁が、父親の項燕のために、秦に何度も勝ったことも説明してきました。項燕を倒して安心していた秦を驚かせる、大事件だったのではないでしょうか。

また、始皇帝の近習だった昌平君が、項燕に味方したことも記載してきました。秦には様々な国の人々がいたので、秦のやり方次第では、その人々が根こそぎ鞍替えする危険性も孕んでいたのです。

項燕は、李信だけでなく蒙恬にも勝利した楚国大将軍なので、西楚の覇王項羽にも匹敵する武将と言えるでしょう。

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