江東の小覇王!孫策伯符死因、意味、太史慈一騎打ち、周瑜呂蒙も解説

三国志で、秦国を滅亡させたいにしえの覇王項羽と並び評されているのが、江東の小覇王孫策です。

江東の小覇王孫策は、かつて中国を震撼させた西楚の覇王項羽、と似ていることを意味しています。覇王項羽と同じような存在とは、誉め言葉なのでしょうか。

そして、江東の小覇王孫策の死因が、性格に起因することも説明していきます。関羽も尊大な性格で、呂蒙に敗れましたが、孫策はどのような性格だったのでしょうか。

また、江東の小覇王孫策が、太史慈を一騎打ちから採用したことも述べていきます。孫策は覇王項羽な武勇なので、敵の武人も敬服しやすいのでしょう。

三國志の江東の小覇王を詳しく解説していきます!

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孫策が江東の小覇王なのは覇王項羽と似ているが項羽ほどではないという意味です

三国志の孫策は、江東の小覇王と評価されていましたが、覇王項羽レベルとは考えられていませんでした。

許貢は、孫策が江東を領有していく様子を、覇王項羽に近いと述べていたのです。

そして許貢は、孫策への警戒発言を孫策自身に知られてしまったため、最後を与えられました。

力のない人物が余計な発言をすると、その発言の重みで押し潰されることもあるのでしょう。

しかし後に、許貢の残党が孫策に報復するので、孫策も本当の意味では、許貢に勝利してはいなかったのではないでしょうか。

孫策は、許貢(きょこう)が他の武将への警戒心を煽る文書を作成したため、覇王項羽が再来したかのような苛烈な対応を行いました。

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小覇王孫策は江東のニ喬で美人な大喬も江東制圧により獲得しました


三国志の小覇王孫策は、江東を制圧したことで、美女で有名な大喬を妻と出来たのです。

孫策には、信頼する軍師の周瑜がいましたが、周瑜は大喬の姉妹の美人な小喬を妻としました。

そして周瑜は、孫策の死後は孫策の弟孫権に仕え、赤壁の戦いの勝利を得たのです。

赤壁の戦いでは、曹操が大軍で攻めて来ましたが、周瑜は劉備の軍師諸葛亮と共に火攻めで打ち負かしました。

そもそも赤壁の戦いは、曹操が孫策の妻大喬と周瑜の妻小喬が欲しいと発言し、周瑜が激怒したことが発端、とも言われています。

江東を掌握することで小覇王孫策は、美人な大喬(だいきょう)を妻とし、軍師周瑜が美女小喬(しょうきょう)を妻にしたことで、周瑜公瑾(しゅうゆこうきん)と義兄弟にもなれたのです。

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江東の小覇王孫策は即断即決なだけでなく軽はずみで自信家な性格だったことが死因となったのです

三国志の江東の小覇王孫策は、覇王項羽の件の許貢の残党に奇襲されたことが、死因となりました。

敵を滅ぼして残党がいるというのは、乱世の常ですが、孫策は武勇に長けていたので、単独行動が多かったのです。

孫策は、名将太史慈と一騎打ち出来るほどの勇猛さが、軽率な行動と自分への過信へと変化し、最後が来ました。

そして孫策は、大仙人于吉が信仰されていたので、危険視し処刑したのです。

許貢の残党からの攻撃と于吉の呪いで、孫策の死が決定的になったと伝わっています。

小覇王孫策を覇王項羽に似ていると称した、許貢の残党からのダメージだけでなく、仙人于吉(うきつ)の魔術が死因と言われているのです。

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江東の虎と高評価だったのが小覇王孫策の父孫堅です


三国志の小覇王孫策の父親孫堅は、江東の虎と称されていました。

そして江東の虎孫堅は、猛将呂布に勝利したとも言われています。

呂布は飛将軍と評価されていただけでなく、人中の呂布馬中の赤兎とも述べられていました。

呂布の主君董卓は、孫堅が非常に勇猛なので、軍師李儒の献策により孫堅を味方に確保しようとしたのです。

しかし孫堅は、董卓の悪政を嫌っていたため、董卓の使者李傕を追い払いました。

また、江東の小覇王孫策の父孫堅は、勇猛だったために、前線で戦い過ぎ荊州劉表戦で、最後を招いたのです。

小覇王孫策の父孫堅文台(そんけんぶんだい)は、猛将でしたが、危険と隣り合わせであり、江東の虎が諸刃の剣な最期が来ました。

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袁術の仲王朝建国の暴走を利用して乱世の奸雄曹操を味方とした江東の小覇王孫策

三国志の小覇王孫策は、元々袁術の庇護を受けていましたが、暴挙に出たので超世の傑曹操と連携しました。

曹操は乱世の奸雄と言われていたのですが、後漢皇帝献帝劉協を確保していたため、権威も身に付けていたのです。

そして孫策は、急速に勢力を拡大したので、小覇王を快く思っていない者も多く、献帝劉協すなわち曹操の支持を欲していました。

また、袁術は四世三公の名門でしたが、能力が高いとは言い難く、仲王朝建国後すぐに滅亡したのです。

小覇王孫策は、仲王朝建国の暴挙を行った袁術公路(えんじゅつこうろ)から完全に自立するために、後漢皇帝献帝劉協伯和(りゅうきょうはくわ)を味方としていた曹操と交流しました。

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皇帝就任を夢見ながら最後を迎える太史慈と一騎打ちした江東の小覇王孫策

三国志の江東の小覇王孫策は、互角の実力を持っている太史慈と出会いました。

太史慈は、敵に予行演習を何度も見せることで、警戒心を失わせ、一気に打ち負かしたことがある名将です。

そして太史慈は、孫策と死闘を行い打ち取る寸前にまで追い詰めましたが、孫策の味方が集合し用兵で敗れました。

また孫策は、一騎打ちを行う中で、太史慈の信義を見抜き武力の高さも評価し、仲間としたのです。

しかし太史慈は、最期を迎える前に、皇帝への野心をのぞかせる発言をしています・・・

小覇王孫策は、江東を制圧する中で、名将太史慈子義(たいしじしぎ)を獲得しましたが、太史慈は皇帝になろうとしていたと言われているのです。

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江東の小覇王孫策は地盤固めのために後に関羽を打ち取る呂蒙を採用しました


三国志の江東の小覇王孫策は、劉備の義兄弟関羽に樊城の戦いの後に最後を与える、呂蒙を味方としたのです。

呂蒙は初めは、皆から呉下の阿蒙と侮られていました。

孫策は武勇に秀でていたので、同じように武力に長けている呂蒙を登用し、知力面は問わなかったのでしょうか。

そして孫策の弟孫権は、呂蒙の知略を危惧し勉強要請を行いました。

すると呂蒙は、孫権の軍師魯粛が驚くほどの知略を身に付け、荊州の関羽対策案を提示するほどにまで成長したのです。

呂蒙子明(りょもうしめい)は、江東の小覇王孫策に採用された際は、武力一辺倒でしたが、後に猛勉強し荊州の武神関羽雲長(かんううんちょう)を圧倒しました。

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まとめ:三国志江東の小覇王孫策伯符(そんさくはくふ)と死因一騎打ちと太史慈周瑜呂蒙

三國志の小覇王孫策が、どのように江東で活躍し、最後を迎えたかを解説してきました。

孫策の弟孫権が赤壁の戦いで、乱世の奸雄曹操に勝利しましたが、孫策が長生きしていれば、曹操領に攻め込んで勝てた可能性もあるでしょう。

そして江東の小覇王孫策が、軽率と自信過剰で、死因を作り出したことも説明してきました。

孫策が、凄まじいスピードで江東制圧を行った付けが、死因に繋がるのは因果応報かもしれません。

また、江東の小覇王孫策が、名家の袁術に対抗するために、超世の傑曹操の権威を利用したことも書いてきました。

若年でありながら孫策が大勢力となれたのは、巧みな外交力を持っていたからかもしれません。

孫策は項羽のオーラがあったため、身を慎んでいれば、江東の覇王と後に称されていたのではないでしょうか。

⇒厳白虎!孫策小覇王、江東の戦い、厳輿、会稽太守、于吉、董襲も解説

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