陳勝呉広の乱!指導者名言きっかけ、スローガン意味わかりやすく解説

秦の始皇帝の死後に、三国志の張角の黄巾の乱のような陳勝呉広の乱が、勃発しました。

鬼神の不思議な力を使うことで、陳勝と呉広は巧みに民意を操ったのです。良く分かっていない人々を上手く動かすには、鬼神のパワーが不可欠なのではないでしょうか。

そして、後に隠王と評価された陳勝が、どのような最後だったかも説明していきます。陳勝がもっと頑張っていれば、前漢の皇帝が劉邦ではなく、陳勝だった可能性もあるでしょう。

ちなみに、陳勝呉広の乱のスローガンである、王侯将相いずくんぞ種あらんやの読み方は、おうこうしょうしょういずくんぞしゅあらんやです。

陳勝呉広の乱を詳しく解説していきます!

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秦の圧政に抵抗するために鬼神のパワーで陳勝と呉広は反乱を行ったのです

陳勝呉広の乱は、秦の法治主義が過酷であり、二世皇帝胡亥と趙高が私利私欲を貪っていたため、起きました。

そして陳勝と呉広は、占い師の元に相談に行き、鬼神を味方にすると上手くいくと知ったのです。

ある時、釣った魚の中に、陳勝が王となるという布が現れました。

更に夜になると楚が復活し、陳勝が大王に就任すると不思議な動物の声で聞こえてきたのです。

また呉広と陳勝は、扶蘇と項燕を持ち出し、秦への民衆の不満を増加させることにも成功しました。

陳勝と呉広は、秦の法律で厳罰を受けることを恐れ、鬼神の力を利用するだけでなく項燕と扶蘇を名乗ることで人心掌握し、反乱を成就させたのです。

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陳勝は反乱を成功させ張楚を建国しましたが張耳は批判的でした

陳勝呉広の乱は、秦に不満を抱える者たちに支えられ、大成功したのですが、張耳は陳勝が王に即位する危険性を見抜いていたのです。

反乱は、秦の悪政に抵抗しているものなので、陳勝が王に就任すると、別の秦が出現したと見なされる可能性がありました。

なので張耳は、かつての王族を味方として、秦を滅亡させた後に陳勝が皇帝となるべき、と語ったのです。

そして後に西楚の覇王項羽が、軍師范増の献策で、楚の王族の子孫を懐王として担ぎ出し、祖父項燕の悲願だった秦滅亡を実現しました。

陳勝と呉広は、王への野心を天下に見せてしまったため、張耳(ちょうじ)が危惧していた通り反乱がすぐに失敗したのです。

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王侯将相いずくんぞ種あらんやのスローガンが陳勝と呉広の反乱の名言だったのです

陳勝と呉広は、農民出身だったため、皆を奮い立たせるために、誰でも王や侯や将や相になれると豪語しました。

そもそも呉広と陳勝たちは、秦の労務のために目的地に向かっていたのですが、雨が激しかったので期日に遅れることが確定したのです。

ですので、秦の酷法では厳罰となり、万が一助かっても労務でかなりの人数が最後を迎えるので、反乱を起こした方が良い、と陳勝は主張しました。

また、始皇帝の息子の扶蘇と西楚の覇王項羽の祖父項燕は当時、生きていると考えている者も多かったので、陳勝と呉広は反乱軍を集めるために、上手く利用したのです。

陳勝呉広の乱は、王侯将相いずくんぞ種あらんやのスローガンで、法律で虐げられてきた民衆に希望を与えました。

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戦国四君の春申君に仕えていた周文は陳勝呉広の乱の際に春秋戦国時代難攻不落だった函谷関を突破したのです

陳勝呉広の乱で、軍略に長けていることを自負していた周文は、秦の函谷関の攻略に成功しました。

難攻不落のはずの函谷関が制圧されたことは、強国秦の終わりを告げる出来事、と言えるでしょう。

そして周文は、函谷関突破までは順調だったのですが、秦には章邯がおり、囚人の大軍で応戦したのです。

秦は厳酷な法治主義で他国を圧倒していましたが、陳勝呉広の乱により、法を曲げてでも戦わなければならなくなりました。

陳勝呉広の乱では、春申君(しゅんしんくん)の元で学んだ周文章(しゅうぶんしょう)も活躍し、難攻不落の函谷関でも勝利しましたが、章邯(しょうかん)の元囚人軍に大敗したのです。

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前漢の初代皇帝高祖劉邦から後に隠王を与えられた陳勝は部下に裏切られ最期を迎えました

陳勝呉広の乱は、当初は破竹の勢いを見せていましたが、それぞれの武将が勝手に自立し王を僭称するなどの大混乱が、発生したのです。

張耳と陳余と武臣は、陳勝から趙攻めを命じられ上手くいったのですが、陳勝に不信感を抱いていたので、無理に武臣を趙王としました。

そして陳勝は、武臣の勝手を怒りましたが、処罰すると他の武将たちも離反しかねないと部下から説得され、逆に武臣の趙王就任を祝ったのです。

また、秦が想像以上に健闘したため、とうとう陳勝の元にも迫り、部下が心理的に追い込まれ陳勝を討ちました。

陳勝呉広の乱は、結局鎮圧されていきますが、劉邦(りゅうほう)と覇王項羽(こうう)が秦を滅亡させることに成功し、劉邦は陳勝を隠王として称賛したのです。

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周文が章邯に負けたことで田臧は焦り丞相李斯の息子李由攻略に手間取っていた呉広に最期をもたらしました

陳勝呉広の乱は、函谷関攻略後に周文が章邯に敗れたことで、鎮圧されそうになり、呉広にも災いが訪れたのです。

呉広は、軍事的な見識に乏しいと部下から思われており、田臧たちに最後を与えられました。

そして丞相李斯の子供の李由は、呉広の軍に持ち堪えることに成功しましたが、結局劉邦の部下の曹参に敗れたのです。

また秦の朝廷では、趙高が権勢を極めており、李由が陳勝呉広の乱と内通していたとして、丞相李斯を腰斬に追い詰めました。

秦末の陳勝の反乱の指導者呉広は、田臧(でんぞう)から軍略を非難され、丞相李斯(りし)の息子李由(りゆう)にもなかなか勝てなかったため、最後を送られたのです。

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陳勝は燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんやの名言を放ち大きな野望を語っていました

陳勝呉広の乱は、秦の全土に飛び火していきましたが、陳勝は若い頃から鴻鵠の大志を抱いていたのです。

ある時陳勝は、普段を労働をしている際に、周りの者たちに、お金持ちになっても今の苦労を忘れないようにしよう、と述べました。

しかし周りの者たちは、陳勝を侮り、人から使われている程度の者が何を偉そうに、と言ったのです。

すると陳勝は、小さい鳥の燕雀には、大きい鳥の鴻鵠である自分の考えは分からないと思いました。

そして後に、張楚の王に就任したのが陳勝なので、陳勝は鴻鵠だったと評価出来るでしょう。

陳勝呉広の乱は、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんやの精神で、一般農民から一気に張楚の王にまで上り詰めました。

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まとめ:陳勝呉広(ちんしょうごこう)の乱の指導者名言意味とスローガンわかりやすくときっかけ原因結果

陳勝呉広の乱が、どのようなきっかけで発生し、指導者たちがどうなったかも解説してきました。呉広と陳勝は賢者とは言えませんが、勇敢さとスピード感を兼ね備えた武将とは述べられるでしょう。

そして張耳が、陳勝の見通しの甘さに気付いていたことも、説明してきました。もしも陳勝が、謙虚に張耳の進言を聞いていたら、悲惨な末路にならずに済んだかもしれません。

また陳勝の部下の周文が、秦で無敵を誇っていた函谷関に侵入出来たことも、記載してきました。

秦が崩壊寸前だったことと、周文の軍学の優秀さが合致したことで、函谷関突破という歴史的快挙が実現したのでしょう。

陳勝と呉広は、時代の先駆けとなった人物なので、劉邦や項羽よりも学べる部分が多いと感じる人も、いるのではないでしょうか。

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