英布!呂布、黥面賊、項羽懐王、九江王能力、彭越塩漬け、韓信も解説

三国志の飛将軍呂布は、武勇に長けていましたが、英布も負けてはいないのです。

英布は、九江王になった武将ですが、若い頃は黥面賊でした。黥面は不名誉な刑罰ですが、英布は刑を与えられたことを、実は喜んでいたのです。

そして黥面賊英布は、覇王項羽が鉅鹿の戦いで勝ったので、大軍の生き埋めを行いました。項羽の元で皆が嫌がる仕事を率先して行うことで、英布は頭角を現したのです。

また、項羽のために英布はとうとう、義帝にまで手をかけました。しかし義帝懐王は、反秦勢力の旗印の役割を果たしていたので、やみくもに最期を与えるのは危険だったのではないでしょうか。

英布を詳しく解説していきます!

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刑罰を受け黥面の賊に落ちぶれながらも九江王に就任した英布

英布は、刑罰を被りながらも最終的には九江王になれた、罪人王でしょう。

そもそも英布は、人相見から刑罰を受けた後に王に即位出来る、と言われていたのです。

なので、英布は実際に刑罰が行われた際に、嫌がるどころかむしろ歓喜したと伝わっています。

また、英布は刑罰で黥面に変化したため、黥布と呼ばれることもあるのです。

そして秦は孝公の際に、商鞅を採用することで、法治国家となりたくさんの罪人を生み出しました。

楚漢戦争の時代は、秦の法治国家体制も滅亡し、変化する時期だったからこそ、英布のような罪人も王になれたのでしょう。

英布は、人相見の予言通り黥面の刑罰を受け、賊に身をやつしながらも、後に九江王に就任しました。

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盗賊から梁王に就任した彭越は劉邦から謀反の嫌疑をかけられ塩漬けにされたので英布は決起したのです

英布は、劉邦が相次いで功臣を処罰し続けたので、次は我が身と考え反乱しました。

そして彭越は、元々盗賊をしていたのですが、陳勝呉広の乱の混乱を乗り切れる軍勢を獲得するために、仲間に集まる期日を約束し遅れた者を斬るとも述べたのです。

彭越と約束したにも関わらず、遅れた者がいたので処罰し軍勢の統制を示し、盗賊らしいゲリラ兵法で劉邦に貢献しました。

また彭越は、覇王項羽からは侮られていたのですが、劉邦からは高評価され、梁王の地位まで与えられたのです。

英布は、梁王彭越(ほうえつ)が謀反の嫌疑に過ぎないのに、呂雉(りょち)から武勇を警戒され塩漬けにされたため、結局劉邦に反旗を翻しました。

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章邯は始皇帝陵墓の囚人の大軍を動員しましたが鉅鹿の戦いで覇王項羽に敗れ秦軍は英布に生き埋めの最後を与えられたのです

英布が、鉅鹿の戦いで秦軍に手こずったため、西楚の覇王項羽は破釜沈船の兵法で、名将章邯に勝利しました。

前漢の三傑の国士無双韓信が井陘の戦いで、陳余の大軍に勝つために、背水の陣を行ったことと似ているでしょう。

そして英布たちは鉅鹿の戦いで、項羽の祖父項燕に勝った、王翦の子孫の王離も確保しました。

王離は、優れた人物でしたが、王翦から三代目の将軍なので因果が訪れたと言われています。

ちなみに、覇王項羽の祖父項燕大将軍は、亡くなる間際に、楚はわずかな人数になっても必ず秦を滅ぼすだろう、と豪語しました。

英布は、名将章邯(しょうかん)の元囚人の軍勢に苦戦しましたが、覇王項羽(こうう)は退路を断ち決死の覚悟で勝ち、秦の大軍に生き埋めの最期を送ったのです。

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蒯通の天下三分の計を聞かず劉邦の天下となった後に謀反した国士無双韓信の最後の二の舞を恐れた英布

英布は、前漢の三傑のひとりの韓信が、劉邦への功績が著しいにも関わらず、謀反により最期を加えられたため、恐れを抱きました。

そもそも国士無双韓信は楚漢戦争の際、劉邦と項羽と共に、三国志のように三者鼎立することが可能だったのです。

しかし韓信は、劉邦が大将軍にしてくれた大恩と、項羽からの冷淡な対応により、軍師蒯通の天下三分の計を用いませんでした。

そして劉邦が天下を掌握すると、韓信の役割も少なくなり、蒯通の予測通り軽んじられるようになったのです。

前漢の三傑の国士無双韓信(かんしん)が、劉邦からの冷遇に怒り決起し、最後を与えられたので、前漢の功臣英布も粛清を畏怖しました。

⇒天下三分の計!意味わかりやすく、失敗愚策、三国志故事成語も解説

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英布は項羽が西楚の覇王として振る舞えるように義帝こと懐王に最後をあげたのです

黥面賊英布は、項羽が天下を自由に裁断出来るように、義帝懐王に最期を与えました。

そもそも陳勝と呉広が、秦の圧政への民衆の不満を利用して反乱したことで、項羽や英布も躍進出来たのです。

しかし呉広と陳勝は、かつての王族のパワーを味方としなかったので、反乱がすぐに砕かれてしまいました。

そして項羽の軍師范増は、秦の張儀の横暴に苦しめられた、楚の懐王の子孫の羋心を見つけ、懐王と名乗らせることで、秦滅亡を促進したのです。

ちなみに張儀は、縦横家の代表格で、巧みな弁舌で連衡策を展開し、秦の覇業に貢献しました。

西楚の覇王項羽は秦を滅亡させたので、義帝懐王(ぎていかいおう)が不要となり、部下の英布に最後をもたらさせたのです。

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三国志の呂布は人中の呂布馬中の赤兎の異名もあり英布の勇猛さに似ているでしょう

英布は楚漢戦争で、西楚の覇王項羽の部下の中でも、著しい功績を挙げました。

そして呂布は、名門の袁紹も苦戦していた黒山賊張燕を激しい赤兎馬の突撃で、難なく撃破したのです。

また呂布は、董卓が悪政により批判が高まると、義理の親子関係だったにも関わらず、自分の都合で簡単に裏切りました。

英布も、覇王項羽に取り立ててもらったのに、後々には敵の劉邦に味方し、項羽を攻撃するようになったのです。

呂布も英布も乱世に誕生しているため、時代に翻弄され裏切りを行わなければならかった、とも言えるでしょう。

英布と三国志の飛将軍呂布奉先(りょふほうせん)は、優れた武勇を誇りながらも、主君を裏切る心を持っており、後に災いが来ました。

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私利私欲で天下に号令をかけた英布は下策しか取れず劉邦に最後をもたらされました

黥面賊英布は、刑罰を受けてから秦戦で活躍し項羽に重用され、劉邦に厚遇されながらも、自己利益ばかりを考えていたのです。

そして英布が、韓信と彭越が粛清されたため、追い詰められて決起した際に、実は3つの道が存在していました。

劉邦は英布の軍事力を警戒していたので、軍師に方策を尋ねたところ、英布は民心掌握や外交を考慮出来ず、ただ単に暴れるだけで終わるでしょうと語ったのです。

やはり英布は、刑罰を受けた程度の人物に過ぎず、私利私欲にまみれた武将だったのでしょう。

英布は、西楚の覇王項羽を彷彿とさせる軍事力を示しましたが、黥面にさせられ自己愛に偏った武将だったため、前漢の初代皇帝高祖劉邦(りゅうほう)に負けたのです。

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まとめ:黥面賊九江王英布(えいふ)の能力と三国志呂布と国士無双韓信と彭越塩漬け

英布が、西楚の覇王項羽の元でどのような功績を獲得し、九江王になれたかを解説してきました。全うなやり方でなくとも、英布のように主君に貢献すれば、出世出来るのでしょう。

そして、劉邦の功臣の彭越が塩漬けな末路となり、英布が反乱せざるを得なかったことも説明してきました。

劉邦の時代に、彭越や英布らの勇猛な武将を粛清出来たことが、後の漢帝室の存続に寄与していはいるでしょう。

また、彭越や韓信の残念な最後と同様にならないようにした英布も、私利私欲な武将だったため、劉邦に勝てなかったことを述べてきました。

皇帝として前漢を導くのにふさわしいのが劉邦だと、戦でハッキリしたのです。

英布は、陳勝呉広の乱が起きたからこそ、ただの黥面賊で終わらずに、九江王にまで就任出来たため、どのような苦境でも諦めない精神を学べるでしょう。

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