項梁!項羽関係、最後定陶、項伯劉邦、章邯死因、殷通項燕范増も解説

秦を大混乱に陥れた陳勝呉広の乱の後に、秦を崩壊に導いていくのが、項梁なのです。

覇王として有名な項羽の叔父項梁は、項羽をしっかり育てた将軍、でもありました。しかし、後に覇王と呼ばれる項羽も、若い頃は奮わない面も有していたのです。

そして、項梁は処罰から免れる場面で、三秦の塞王司馬欣の援助を受けました。項梁がいたからこそ、秦が大打撃を受けたため、司馬欣の眼力は確かでしょう。

また、秦に容易に連勝した項梁が、敗者の心理に陥ったことも、説明していきます。項梁が傲慢になっていなければ、項羽ではなく項梁が、覇王に就任していたかもしれません。

項梁を詳しく解説していきます!

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西楚の覇王項羽と叔父関係だった項梁は項羽を育て上げた武将でもあるのです

項梁は、秦の王翦大将軍に滅亡させられた楚で、再起を懸けて項羽を教育しました。

しかし項羽は、文字も剣道もあまり習得出来ず、項梁は不満に感じていたのです。

ですが、項羽には独自の理論があり、文字は名が読み書き出来れば良く、剣道は一人しか相手に出来ないと主張しました。

そして項梁は、項羽に兵法を教えたのですが、大枠を知るだけで、それ以上は学ばなかったのです。

ですが、項羽は実際に秦を滅ぼし、西楚の覇王として中国に君臨したため、無理に習得しなかったことが、好影響に繋がったのではないでしょうか。

項梁は、後の西楚の覇王項羽(こうう)を指導し育てましたが、項羽は、文字や剣道や兵法でも、真価を発揮していませんでした。

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殷通は先んずれば人を制すと考え秦への反乱に味方しようとしましたが項梁と項羽の本質に気付いていなかったのです

項梁は、殷通が後れて人に制されないために、陳勝呉広の乱に加担したがっているにも関わらず、無理に最後をあげました。

殷通という秦側の人物が管理する組織ではなく、楚や項梁自身が率いる方が、秦に勝てると考えたのでしょう。

そして殷通の立場を奪った項梁は、陳勝亡き後も、秦に猛攻を行い、後に西楚の覇王項羽が誕生する礎を確保したのです。

ちなみに、殷通が桓楚を将軍にしようとしていたので、項梁は、桓楚がどこにいるかを項羽なら分かると述べ、項羽を近寄らせ殷通を一気に討たせました。

項梁は、殷通(いんとう)から評価されていましたが、項羽と共謀し最期を与え、殷通の勢力を支配下に置き、秦攻略を優勢に進めていったのです。

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三秦の塞王司馬欣に項梁は連座で確保された際に助けてもらったのです

項梁は、連座で囚われてしまったので、三秦の塞王司馬欣に援護してもらい、無事に脱出しました。

当時司馬欣は、秦の牢獄の管理者だったのですが、曹咎の献策により、項梁を救ったのです。

ですので、後に項梁と甥関係の西楚の覇王項羽から、感謝の意味もあって、三秦の塞王に就任出来たのでしょう。

そして司馬欣は、秦の敵だった項羽に降伏し、自らは王になれましたが、投降した何十万もの秦軍を犠牲にしてしまっていました。

その恨みから、三秦は秦の人々の指示を得られず、あまり活躍しないまま最後を迎えたのです。

項梁は、西楚の覇王項羽から三秦の塞王に任命される、司馬欣(しばきん)から、連座の処罰を回避させてもったことがあります。

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秦に連戦連勝したことで傲慢になっていた項梁は定陶で章邯に最後を与えられました

項梁は、何度も秦軍に勝っていたため、章邯の偽装退却を見抜けず、定陶で最期をもたらされたのです。

そして章邯は、陳勝呉広の乱の指導者の陳勝にも大勝した名将、でした。

そもそも秦が強国化したのは、厳格な法治が要因だったわけですが、章邯は大量の囚人を釈放することで、秦軍を補強することを二世皇帝胡亥と趙高に献策したのです。

確かに章邯は、反乱をどんどん終わらせていきましたが、法治を崩した秦は、秦国とは言えないのではないでしょうか。

項梁は、秦に勝ち過ぎたために驕りが生じ、秦の法家思想を変更し元囚人で大軍を確保した、章邯(しょうかん)の奇策により、定陶で無念な最後が来ました。

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項梁の兄弟の項伯は覇王項羽よりも劉邦に味方し楚漢戦争後に褒美を獲得するほどだったのです

項梁の兄弟には項伯がいたのですが、甥の項羽ではなく、劉邦に加担することが多かったため、楚漢戦争後も生き残れました。

そもそも項伯は、若い頃に殺人の罪で追われていたのですが、前漢の三傑の張良に保護されたのです。

なので項伯は、張良の主君の劉邦を手助けしなければならない状況に、心理的に陥っていました。

例えば、鴻門之会という劉邦に最後を送り、項羽の天下を盤石とするチャンスでも、項伯は剣舞し、張良への恩に報い劉邦を庇ったのです。

項梁の兄弟である項伯(こうはく)は、鴻門之会で劉邦を斬る千載一遇の好機を、張良子房(ちょうりょうしぼう)への恩返しの機会に利用してしまい、覇王項羽の天下に亀裂を発生させました。

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秦の縦横家張儀に操られ悲劇な最後を遂げた懐王を范増の進言により擁立することで項梁は人心を掌握しました

項梁は、軍師范増が楚の懐王の無念を活かす策を述べたため、懐王の子孫を見つけ、担ぎ出したのです。

しかし楚の王族の力を利用して、項梁と項羽が飛躍したことは、懐王義帝を蔑ろにすることが危険、であることも意味していました。

ですので、秦王子嬰に最期をもたらし秦を滅ぼした、西楚の覇王項羽が、義帝に就任していた懐王を用済みとして無下にしたことが、項羽の天下を崩れさせる大きい原因になったのです。

また項羽は、やはり大将軍な人物で、皇帝や君主になるような武将では、なかったのでしょう。

項梁は、楚の懐王の末裔を范増(はんぞう)の献策で、反秦勢力の旗頭としましたが、覇王項羽は義帝懐王の影響力を軽んじ、自滅の一途を辿りました。

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項梁の父親は蒙恬と李信を撃破し昌平君を楚王とした大将軍項燕だったのです

項梁の父は、秦の有能な大将軍の李信と蒙恬に勝利したこともある、項燕でした。

項燕は、秦が天下統一を目前に控えている中、蒙恬と李信の大軍に勝っているので、本物の大将軍と言えるでしょう。

そして項梁の父親項燕は、長年秦に仕えていた楚の王族の昌平君を、楚王に擁立したのです。

昌平君が、楚の項燕に付いたことは、秦の人々にとっても、衝撃的な事件だったのではないでしょうか。

また項燕が、ほぼ敗北と分かりながら、楚王と共に秦と徹底抗戦したことが、項梁や項羽の決起を導いたのでしょう。

項梁の父親は、昌平君(しょうへいくん)を楚王に即位させただけでなく、蒙恬と李信にも大敗北を与えた大将軍が、項燕(こうえん)であり、楚の秘めた力を天下に明示しました。

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まとめ:項梁(こうりょう)と項羽関係と定陶死因最後と劉邦項伯

項梁が、秦を崩壊させるために、どのように活躍したかを解説してきました。秦は項燕だけでなく、項梁も始末しておくべき、だったのではないでしょうか。

そして先手必勝な殷通を、項梁が上手く出し抜いたことも、説明してきました。結局項梁こそが、先んじて人を制する武将、だったのでしょう。

また、軍師范増の進言を使った項梁が、春秋戦国時代の王族と連携し、秦を攻撃したことも述べてきました。

法治国家の秦も、君主は嬴の血縁だったため、楚の王族を持ち上げたのは、効果的だったのでしょう。

項梁は、西楚の覇王項羽の叔父にふさわしい勇猛な大将軍であり、項燕にも、匹敵するのではないでしょうか。

⇒項燕と三国志!楚国大将軍、李信史実、項羽王翦、蒙恬昌平君も解説

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