章邯と三国志!三秦制圧人物、韓信能力最後、楚漢戦争項羽劉邦も解説

三国志の于禁は、樊城の戦いで関羽の水攻めに敗れましたが、章邯も韓信の水攻めで最後が来ました。

陳勝呉広の乱は、秦の守りの代表格である函谷関をも、脅かしたのです。秦のために章邯、反乱軍の軍略に長けた周文と激突しました。

そして章邯は、反乱軍を鎮圧している内に、覇王項羽の叔父項梁とも戦ったのです。項梁は、秦に何度も勝った名将なので、章邯でも難しいのではないでしょうか。

また、秦の朝廷で法律を悪用していた趙高を、章邯が警戒していたことも説明していきます。章邯以外の誰かが、朝廷を上手く統治していれば、始皇帝時代を超える栄華が秦に訪れたかもしれません。

章邯と三國志を詳しく解説していきます!

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陳勝呉広の乱で鉄壁の函谷関を攻略した周文に勝利した秦の章邯の能力

章邯は、難攻不落なはずの函谷関を反乱軍の周文が討ち破ったので、迎撃しました。

そもそも秦が強大化したのは、商鞅と孝公の法治主義のおかげだったのです。

しかし陳勝呉広の乱は、法の圧力に抗議して大規模となり、秦は兵力に困ったため、章邯は囚人を解放することを胡亥と趙高に要請しました。

初めは困惑した趙高と胡亥も、陳勝呉広の乱の勢いを恐れ、章邯の元囚人軍組織を許可したのです。

ちなみに、項羽に九江王とされた英布は、黥面賊と言われていたため、元囚人から出世した武将でもあります。

章邯は、秦が大国化した由縁である商鞅(しょうおう)の法治主義を違えた囚人部隊で、陳勝呉広の乱を鎮圧していきました。

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西楚の覇王項羽の叔父項梁の油断に付け込み章邯は定陶で奇襲し最後を与えたのです

章邯は、項羽の叔父の項梁が連戦連勝で浮かれていたので、精鋭部隊で急襲し、勝利しました。

秦には丞相李斯がおり、子供の李由が前線で、反乱軍を食い止めていたのです。

ですが、李由は項梁軍に味方していた劉邦の部下の曹参に、打ち取られました。

そして項梁は、自軍が何度も秦に勝っていたため、強大な秦が弱体化したと思い込んでいったのです。

後に項羽に斬られる宋義は、項梁の慢心に気付き諫言したのですが、直らずあえない最期を迎えました。

章邯は、西楚の覇王項羽の叔父項梁(こうりょう)の軍が、丞相李斯(りし)の息子の李由を斬ったことを逆に利用し、項梁に不意打ちで最期を送ったのです。

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鉅鹿の戦いで西楚の覇王項羽は陳勝呉広の乱を鎮圧しつつあった章邯に勝ったのです

章邯は、陳勝呉広の乱の指導者たちを軒並み討つことに成功し、趙を包囲し総仕上げにかかっていました。

しかも、防御の固い邯鄲を章邯は破壊し、反乱軍の士気を下げてもいたのです。

そして西楚の覇王項羽は、司令官の宋義がなかなか章邯軍と決戦せず、贅沢をしていたので激怒し、宋義を斉と計り謀反を企んでいたとして斬りました。

船を沈め釜を捨て、決死の決意と捨て身の攻撃で、項羽は章邯軍に覇王の気概を示したのです。

ちなみに、章邯軍にはかつて楚を席巻した、王翦の孫の王離も所属していました。

章邯は、趙の張耳(ちょうじ)を包囲し陳勝呉広の乱の完全鎮圧を目指していましたが、西楚の覇王項羽が想像以上に勇猛な気迫を持っていたため、鉅鹿の戦いで敗れたのです。

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趙高が法律で悪政を続けていたため章邯は身の危険を感じ項羽の軍門に下ったのです

章邯は、頑張れば項羽に勝てるほどの軍勢を有していましたが、勝利しても敗北しても処罰される状況に追い込まれ、項羽に鞍替えしました。

ですが、項羽軍には章邯の大軍を養う食糧は無く、軍師の范増が秦軍反乱のリスクを述べたため、章邯の大軍は生き埋めにされたのです。

後に章邯は、司馬欣と董翳と共に三秦として、旧秦領統治を行いました。

しかし、何十万もの秦人が生き埋めにされながら、項羽の部下としてのうのうと帰って来た三秦の末路は、悲惨だったのです。

章邯は、趙高(ちょうこう)が法律を乱用していたので、西楚の覇王項羽に投降し身の保身を図り三秦となりましたが、秦を裏切った報いも受けました。

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法治を暴走させた趙高は子嬰に討たれたとされることが多いですが章邯が最期を送ったという説もあります

章邯は、二世皇帝胡亥を牛耳り秦を滅亡に追い込んだ趙高を憎んでいたので、章邯が趙高を斬った可能性は充分に考えられるでしょう。

三秦として秦の領地を項羽から与えられたのは、趙高を打ち取った功績も、含まれていたのかもしれません。

そして二世皇帝胡亥は、本当の後継者の扶蘇を、趙高と丞相李斯の謀略で追い落とし即位した、と言われていることが多いのです。

しかし、章邯が趙高を討ったとしている説では、始皇帝が元から胡亥を後継者に考えていたとする説も、存在しています。

章邯は、趙高が秦を滅ぼした要因だと考えていたため、最後を与え、三秦の威信を示したという説も、伝わっているのです。

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水を巧みに操る兵法に長けた国士無双韓信は三秦の章邯を水攻めにし最後をあげました

章邯は、廃丘に立てこもりましたが、水攻めを受け心理的にも追い詰められ、最期が来たのです。

そして張耳と共に、前漢の三傑の韓信は、陳余を背水の陣で打ち取りました。

更に韓信は、項羽の腹心龍且を土嚢で堤防した箇所に誘い出し、土嚢を一気に外し水の猛攻で壊滅させたのです。

また龍且は部下から、韓信を侮るべきでないと進言されていましたが、かつて股くぐりしていたとして侮辱するばかりでした。

ちなみに韓信は、大出世した後、股くぐりさせた者を呼び出し、発奮させてくれたとして逆に称賛したのです。

章邯は、背水の陣に代表されるように、水を上手く利用する韓信(かんしん)に水攻めされ、龍且(りゅうしょ)と同じように廃丘で最後を迎えました。

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国士無双韓信は暗渡陳倉の策で三秦の章邯を不意打ちし制圧しました

章邯は、三秦と呼ばれていましたが、秦人には同胞生き埋めの件で恨まれていたため、韓信軍の急襲に対応しきれなかったのです。

韓信の主君劉邦は、項羽の軍師范増に危険視され、漢中に左遷されていたので、中央に戻るために蜀の桟道を再整備していました。

そして項羽軍の章邯は、桟道の整備にかなり時間がかかると考えており、劉邦に油断していたのです。

しかし実は、桟道の再整備はおとりであり、本当の目的は陳倉から章邯を攻撃することにありました。

三秦の章邯は、劉邦(りゅうほう)が桟道を修築していると思い込み油断していたので、韓信の暗渡陳倉(あんとちんそう)の策を見抜けず敗北したのです。

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まとめ:三秦制圧人物章邯(しょうかん)の能力と三国志と項羽劉邦の楚漢戦争と韓信最後

章邯が、どのように陳勝呉広の乱に対処し、三秦となったかを解説してきました。項羽ではなく劉邦に章邯が付いていれば、結末は変わったかもしれません。

そして西楚の覇王項羽が、章邯が鎮圧しつつあった秦への反乱を、再燃させたことも説明してきました。

項羽が、気迫で章邯軍を撃破していなければ、秦の統治が復活した可能性もあるでしょう。

また国士無双韓信が、得意の水攻めで、章邯を追い詰めたことも述べてきました。自然を使う韓信の兵法には、名将章邯でも太刀打ち出来なかったのでしょう。

章邯は、趙高の法律の圧政に抵抗し、陳勝呉広の乱から秦を守ろうとした武将でありながら、たくさんの同胞を見殺しにし三秦という悲劇を被った名将ではないでしょうか。

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