三国志の赤壁の戦い前夜、巧みな弁舌を披露した諸葛亮は、張儀クラスと称されました。
張儀は素行不良により、楚の宰相から苛烈な罰を受けたのです。しかし張儀の武器の弁舌だったため、吾が舌を視よと豪語しました。
そして張儀は蘇秦と違い、秦国で連衡策を主張していたのです。張儀のずば抜けた話術なら、蘇秦以上に合従策を行えた可能性もあるでしょう。
また蘇秦と張儀が、鬼谷子の元で勉強した関係だったことも説明していきます。縦横家になりたい人は、鬼谷子の門を叩くべきなのでしょう。
他にも、張儀より一枚上手だった司馬錯の考えも、述べていきます。司馬錯は蜀への考察と周への見識で、張儀を超える見解を示しました。
張儀と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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お金が無く態度も良くなかった張儀は泥棒だと思われ処罰されましたが妻に吾が舌を視よと述べました
張儀は、楚の宰相と宴会した際に、宰相が財宝を無くしたとして、過酷な刑罰を受けたのです。
しかし張儀は、自らの優れた弁舌能力を自負していたため、妻に吾が舌は無事かを確認させました。
そして後に張儀は、秦国の宰相に就任し、楚の宰相への報復を宣言したのです。
能力の高い人物には、多少の嫌疑があったとしても、悪い対応をすべきではないのではないでしょうか。
また秦は、春秋戦国時代の他の国々と戦っているため、他の国々への恨みを晴らそうとする人材も、多く集まっていたのです。
楚の宰相から疑念を持たれ、張儀は過酷な罰を被りましたが、才能に満ちあふれた張儀は、妻に吾が舌を視よと頼むほどの余裕がありました。
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楚の懐王に商と於の六百里をあげる代わりに斉との合従破棄を提案した張儀
張儀は、かつて態度と金銭面で、罪を被せられた報復のために、楚の懐王に広大な領土の割譲を申し出ました。
楚の懐王は非常に喜び、屈原の主張を聞かずに斉との合従を明確に終わらせ、張儀に領土を渡すように述べたのです。
しかし張儀は、六里をあげると言うばかりで、楚の懐王は欺かれてしまいました。
そして楚の懐王は、怒りに任せて秦を攻撃しましたが、結局敗北したのです。
ちなみに、楚の懐王は秦に翻弄されて生涯を終えますが、西楚の覇王項羽が楚の懐王を、秦を滅亡させる際の旗印にしたと伝わっています。
張儀は吾が舌を視よと述べた通り、楚の懐王を弁舌で操り合従を破壊させ、秦軍は怒る楚軍を返り討ちにしました。
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六国を合従させた蘇秦と違い張儀は秦国で連衡策を行ったのです
蘇秦は、強大な秦を恐れる六国の利害を一致させ、秦国を函谷関の中に封じ込めました。
そもそも秦国は、商鞅の法治主義以来、他国を圧倒する国力に変化していたのです。
ですので、秦以外の国は、どうにかして他国と連携するより他なく、蘇秦は巧みに六国を合従させました。
そして張儀は、蘇秦の敵の秦国に参加し、蘇秦の合従を崩すために、秦国とそれぞれの国を再度同盟させ連衡させたのです。
また、秦は張儀の連衡策が成功したこともあり、始皇帝による天下統一が実現しましたが、後に西楚の覇王項羽と劉邦などの他国の合従軍に滅ぼされました。
張儀は、強大な法治の秦国のために連衡策を主張しましたが、蘇秦は六国を合従させることで、秦の強大化を阻んだのです。
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秦の武王に張儀が嫌われていたため連衡策が破綻し合従が増加したのです
張儀は、秦の武王から疎んじられていたので、列国は蘇秦の合従策に戻っていきました。
そして張儀は、周りの者たちから批判されてもいたため、処刑を恐れ魏に訪れることを希望したのです。
斉は張儀を憎んでいたので、魏の襄王の元に張儀が来れば、斉の魏攻めを引き起こせると主張しました。
また魏の襄王の父は、秦を法治主義に導いた商鞅を侮り、最期を与え損ねた人物でもあります。
魏の襄王の父が、商鞅を登用していれば、魏が法治国家に変貌し、逆に秦を併合していたのではないでしょうか。
張儀は縦横家らしく、秦の武王との不和だけでなく斉からの恨みも利用し、魏の武王の元に訪れ最後を迎えました。
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蘇秦と張儀は鬼谷子の元で縦横家の策を学ぶ関係だったのです
縦横家の蘇秦は、鬼谷子の術を上手く操り、趙で立身していた際に、張儀が来ました。
張儀は、蘇秦と同門関係ということもあり、蘇秦の元に行くとわざとかなり待たされたのです。
そしてやっと、蘇秦に会えたと思ったら、激しく罵られ採用もされませんでした。
張儀は辱められて怒ると、蘇秦に仕返しするために、秦に登用されたのです。
結局張儀の採用動機は、私憤に過ぎないのですが、それでも採用されてしまうほど、張儀の能力が高かったのでしょう。
張儀は蘇秦と共に鬼谷子(きこくし)の元で、縦横家の術を習得しましたが、蘇秦(そしん)に先を越され侮辱までされたため、復讐目的で秦に参加したのです。
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蘇秦はただ単に張儀を辱めたのではなく趙と燕の合従を秦に崩させないためだったのです
張儀は、同門のツテで蘇秦に会っただけで、罵られ怒りで秦に採用を求めましたが、採用のお金を蘇秦が援助していました。
秦での登用が成功した際、お金を援助してくれた人にお礼をしようとしたところ、援助者は蘇秦の指示だったと述べたのです。
張儀は、蘇秦の方が鬼谷子の術を深く学んでいることを知り、蘇秦に敬意を表しました。
また蘇秦は、張儀のことを高評価しており、自分以上の才能があると語ってもいたのです。
蘇秦は張儀に恨み癖があり、恨むパワーで行動することを、事前に把握していたのではないでしょうか。
張儀は、蘇秦に見下されたので報復のために秦に登用されましたが、蘇秦は張儀を操って、燕と趙の合従を秦に攻めさせないようにしていました。
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韓を攻撃し周の権威を奪うべきと主張した張儀を批判した司馬錯
張儀は、秦国にとっては蜀攻略よりも、韓攻めと周の権勢を取り上げることが重要、だと考えていました。
対する司馬錯は、蜀を併合することで、秦は更に豊かとなり、蜀が辺境なので他の国々から批判もされ難いと恵文王に主張したのです。
更には、周を追い詰めた場合、他の国々から非難されるだけで終わる危険性がある、と述べました。
そして秦の恵文王は、かつて商鞅の厳酷な法治に恨みを抱き、商鞅に法律と権威で最後を与えた君主なのです。
しかし恵文王は、法治主義を行い続け、その後の秦国の隆盛をもたらしました。
司馬錯(しばさく)は、張儀が周を責めようとしたため、蜀攻めの方が秦の国力をアップさせると語ったのです。
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まとめ:張儀(ちょうぎ)の吾が舌を視よ連衡策と三国志と縦横家蘇秦関係
張儀が、縦横家の蘇秦の合従策に対抗し、連衡策を展開したことを解説してきました。もしも張儀と蘇秦が、初めから連携していたら、すぐに七か国が統一されたかもしれません。
そして張儀は、過去の恨みを忘れておらず、楚の懐王を巧みに操ったことも説明してきました。楚の宰相が、三国志の曹操のように人材収集家だったら、張儀が楚の味方だったかもしれません。
また張儀は、秦で武王から処罰される寸前に陥ったことも、述べてきました。外交に巧みな張儀だからこそ、秦の武王から警戒されていたのでしょう。
縦横家の張儀がいたからこそ、商鞅の法治で強国化した秦の天下統一が、着実に近付いたのではないでしょうか。