三国志の蜀漢攻略の功労者鄧艾は、最強将軍白起と同じ末路に陥ったのです。
白起は、長平の戦いで大量の捕虜を獲得しましたが、対処に困り生き埋めにしました。春秋戦国時代の習いとはいえ、大軍の生き埋めは残酷なので恨まれ易いでしょう。
そして、王翦と白起の秦の主君への対応が対比していることも、説明していきます。白起は強すぎな最強将軍ですが、処世術はどれくらいのレベルだったのでしょうか。
また、白起が勝利した楚国では、縦横家張儀が暗躍していたことも、記載していきます。張儀がいたおかげで、白起が楚に勝利し易い土壌が、整えられていたのでしょう。
白起と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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最強将軍白起は趙括に長平の戦いで勝ちましたが捕虜の食糧不足と反抗の可能性を理由に生き埋めにしました
白起は、閼与の戦いで秦軍に勝った、趙奢の息子の趙括に圧勝することで、名声を不動のものとしたのです。
そして趙奢は、名将の廉頗が難しいと述べていた、閼与の戦いで勝った武将でした。
かつて趙括が、得意気に兵法論を展開していた際に、趙奢は妻に本当の兵法を理解しておらず危険だ、と述べていたのです。
また長平の戦いの趙の指揮官は、初めは歴戦の勇将の廉頗だったのですが、秦の范雎の策略で、趙括に変更させられました。
名将趙奢(ちょうしゃ)からも偽物だと見抜かれていた趙括(ちょうかつ)を、秦の范雎は趙軍の司令官とすることに成功し、白起は長平の戦いで勝利するだけでなく、趙軍を反乱の危険性と食料難を理由に生き埋めにしたのです。
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長平の戦いで白起が趙軍の捕虜を大量に生き埋めにしたことは発掘でも証明されました
白起がどれくらい最強将軍かを示したのが、趙括との長平の戦いですが、後に大量の人骨が出土し、大軍の生き埋めが現実味を帯びているのです。
そして長平の戦いで白起は、確かに大勝利したのですが、後の秦軍は趙に深く恨まれていたため、なかなか趙を占領出来ませんでした。
戦国四君の春申君と信陵君も、趙に加担したので、秦は結局敗北したのです。
また趙が弱体化したにも関わらず、いつまで攻めても滅亡しないため、秦の昭襄王は白起に再度指揮を執るように要請しましたが、白起は范雎に解任させられたことを根に持っていました。
最強な白起将軍が、大軍を生き埋めにしたことは発掘で立証されていますが、長平の戦い以後の秦軍の趙攻めは、白起を欠き難航したのです。
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王翦は秦の始皇帝に上手く取り入り天寿を全うし白起は最強将軍であることを優先し昭襄王から最後を与えられました
白起は、長平の戦いでの大戦果のまま趙になだれ込みたかったのですが、范雎が地位に拘り、趙攻めを中止してしまったのです。
ですので白起は、後の秦の趙攻略軍の失敗を非難し続けました。
秦の昭襄王は、趙攻め失敗で苛立ち、白起も大将軍になることを拒むため、結局白起に最後をもたらしたのです。
そして王翦は、楚の大将軍項燕が李信に勝利したので、秦の始皇帝から直々の抜擢があり、最終的に項燕に勝ちました。
王翦は、白起と異なり主君への対処にも成功し、大将軍としても大戦果を獲得したのです。
白起は、范雎に長平の戦い以後の趙攻略を妨害されたので、反抗し最後を招きましたが、王翦(おうせん)は項燕(こうえん)に勝っただけでなく、秦の始皇帝嬴政の心も上手く操りました。
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三国志の鄧艾は蜀漢を滅亡させ強すぎたため最強将軍白起と同様に最後が近付きました
白起は、長平の戦いで趙括の大軍に勝利しただけでなく、数多の戦でも勝ち続けましたが、秦の昭襄王と范雎に警戒され最期が来たのです。
そして鄧艾は、劉備と諸葛亮が建国して以来、魏を悩ませ続けた蜀漢を滅ぼし、皇帝劉禅たちを確保しました。
白起に比肩する戦果を獲得した鄧艾は、ライバルの鍾会と実力者司馬昭から謀反を疑われ、捕われたのです。
また鍾会には、元蜀漢の大将軍の姜維が味方しており、鄧艾が謀反していると取れる書類を偽造していました。
三国志の鄧艾士載(とうがいしさい)は、手強い蜀漢を上手く壊滅させましたが、白起が趙括との長平の戦いの大勝利で、范雎に畏怖されたように、司馬昭子上(しばしょうしじょう)と鍾会士季(しょうかいしき)に危惧され、死因を増やしてしまったのです。
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呉起の法治主義が失敗し縦横家張儀に騙された楚は最強将軍白起に大敗したのです
白起は、楚が貴族分権で、法家呉起の改革でもあまり改善していなかったため、勝利することが出来、武安君になれました。
かつて楚の悼王の時代、呉起が無理に法治主義を実行することで、楚は一時的に大国化したのです。
しかし、貴族分権だった楚の内部での反発は大きく、悼王に最期が来ると、呉起にも最後が訪れました。
また、楚に恨みのある張儀が、縦横家の才能を遺憾なく発揮し、楚の懐王を上手く騙し、更に楚にダメージを及ぼしていたのです。
最強将軍白起は、秦の縦横家張儀(ちょうぎ)が懐王を誘導し打撃を与え、呉起(ごき)の法治主義でも強国に変貌し切れなかった楚を、鄢郢の戦いで大敗させました。
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秦の昭襄王を圧倒するほどの権勢を有していた魏冄から高評価だった最強な白起将軍
白起は、魏冄から信任され、魏と韓の連合軍を伊闕の戦いで、打ち負かしたのです。
韓と魏は連携したとはいえ、別々の国なので、お互いが他人任せだったため、白起に巧みに付け込まれました。
そして魏冄は、他の三人の権力者と共に四貴とも称され、秦の昭襄王を圧迫していたのです。
范雎は、昭襄王の危機感を煽り重用されると、兵法三十六計の遠交近攻策で、秦を強大化させました。
また魏冄は、秦国からかなり遠い敵国を攻めており、結局は統治することが難しいので、范雎の策の方が評価されたのです。
韓と魏の急場の連合軍を、伊闕の戦いで壊滅させた最強将軍白起は、魏冄(ぎぜん)から好印象でしたが、魏冄は范雎(はんしょ)の遠交近攻策に敗れました。
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縦横家蘇秦の弟蘇厲は白起が強すぎる将軍なので引き際をわきまえるべきと述べました
白起は、長平の戦い以外の大戦でも勝利し続けていたため、勝ち逃げすることで、名声を守れると蘇秦の弟は主張したのです。
やはりどんな人も浮き沈みがあり、養由基の必中な弓でも、気力が減退し外れることもある、と言えるのではないでしょうか。
そして長平の戦いの後は、范雎と昭襄王に希望されても将軍とならなかった白起は、完全には引退してはいませんでした。
ですので、昭襄王に盾突いていると判断され、白起は強すぎる最強将軍として、あの世に行くことになってしまったのです。
最強な白起は強すぎる将軍だったので、縦横家蘇秦(そしん)の弟蘇厲(それい)が忠告していたのですが、しっかり引退しなかったため、昭襄王と范雎から自害に追い込まれました。
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まとめ:最強将軍白起(はくき)は強すぎと三国志と生き埋め理由発掘
最強な白起将軍が、長平の戦いの他の大戦でも、毎回勝利していたことを解説してきました。秦が天下統一出来たのは、法治主義と白起の存在が、要因でしょう。
そして、白起が趙軍を生き埋めにした現場が、発掘されたことも説明してきました。発掘が注目されるほど、白起の生き埋めが、想像を絶する所業だったからでしょう。
また、三国志の鄧艾が、白起のように蜀漢攻撃で大名声を博しながら、最後が近寄って来たことも述べました。
白起に策謀に長けた范雎がいたのと同様、鄧艾にも策士の鍾会がいたことが、似た末路となった原因ではないでしょうか。
白起は、強すぎる最強な将軍能力が仇となり、最後に追い込まれたので、引き際の重大性が分かるでしょう。