春秋戦国時代を法家思想で統一したのが、秦の始皇帝嬴政なのです。
始皇帝嬴政の弟の成蟜は、長安君でありながら、趙の悼襄王と組みました。成蟜が乱を起こさずに長生きしていれば、趙高の悪政も防げたかもしれません。
そして嬴政の父親の荘襄王は、呂不韋の愛人趙姫を妻としたのです。妻も気軽に獲得してしまうと、後々大惨事になることがあるのではないでしょうか。
また嬴政の子供の扶蘇は、焚書坑儒の危険性を訴え、弟に皇帝の座も取られたのです。始皇帝が最後を迎えた後に、扶蘇自身の方針を打ち出していれば、秦がより栄えたのではないでしょうか。
ちなみに、嬴政の読み方はえいせいです。
嬴政を詳しく解説していきます!
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目次
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秦の成蟜は始皇帝嬴政の弟であり長安君の立場を与えられましたが反旗を翻し趙の悼襄王に味方しました
嬴政の兄弟の成蟜は、秦で戦果を獲得し、長安君の地位ももらっていましたが、結局悼襄王に付いたのです。
そもそも、成蟜は趙攻めに向かっていたのですが、急に嬴政の敵に鞍替えしました。
しかし、嬴政はすぐに成蟜の反乱を鎮圧し、悼襄王の介入を上手く防いだのです。
そして悼襄王は郭開の策略もあり、完璧な藺相如と並び評された老将廉頗を再登用出来ませんでしたが、闘将龐煖を重用しました。
龐煖は、燕の劇辛に大勝しているので、悼襄王は眼力も有していたと言えるでしょう。
始皇帝嬴政の弟の成蟜(せいきょう)は、厚遇され長安君の立場も得ていましたが乱を起こし、趙の悼襄王趙偃(とうじょうおうちょうえん)と結託しましたが、すぐに最後が訪れました。
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趙姫は始皇帝嬴政の母親ですが嫪あいと姦通し昌平君と昌文君に討たれました
嬴政の母親の趙姫は、好色だったため、嫪あいの外見を寵愛し、子供も誕生したのです。
しかし、嬴政からは認められない関係だったので、嫪あいは昌文君と昌平君から最期を加えられました。
また、趙姫と嫪あいの件は、嬴政の実の父親とも言われている呂不韋の手引きだったため、呂不韋も凋落させられたのです。
ちなみに、昌平君は後に、楚の大将軍項燕に呼応して最後の楚王となり、秦から討伐されました。
始皇帝の母親の趙姫(ちょうき)は、息子嬴政よりも色好みを優先し、嫪(ろう)あいとの間に子供も生まれましたが、昌平君(しょうへいくん)と昌文君(しょうぶんくん)から断罪され、黒幕の呂不韋にも責任が波及したのです。
⇒趙姫!始皇帝母親、荘襄王妻名前、ろうあい子供、呂不韋最後も解説
始皇帝の父親の荘襄王は呂不韋の愛妾の趙姫を妻とし子供の嬴政が誕生したのです
嬴政の父親の荘襄王は、呂不韋の元にいた趙姫を気に入り妻とすることで、始皇帝が生まれました。
そもそも呂不韋は、大商人として成功したため、今度は王族に投資し莫大な儲けを得ようとして、嬴異人に近付いたのです。
嬴異人は、王族でしたが、秦王に即位出来る可能性が低く、困窮していたのですが、呂不韋が華陽夫人に取り入り大出世させました。
誰かの力で立身したければ、自分の持っているものを最大限、相手にあげなければならないのでしょう。
始皇帝の父親の嬴異人(えいいじん)は、呂不韋に妻趙姫まで世話してもらうことで、荘襄王(そうじょうおう)になり、息子の嬴政は天下を統一したのです。
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文信侯呂不韋が奇貨居くべしで獲得した荘襄王の妻趙姫は子供の嬴政と不思議な間柄でした
嬴政は、母親の趙姫が荘襄王の妻となる前に、呂不韋の子を宿していたとも伝わっているのです。
ですので、始皇帝嬴政の本当の父親は、呂不韋と言われています。
呂不韋が、ただの大商人で終わらずに、秦で非常に出世出来たのは、嬴政の実の父親だったことも要因ではないでしょうか。
また、戦国四君として孟嘗君と平原君と春申君と信陵君がいたため、呂不韋は張り合って、たくさんの食客を招き呂氏春秋を完成させました。
呂不韋がいたからこそ、人材集めの面でも、他の諸国に後れを取らずに済んだのでしょう。
始皇帝嬴政は、荘襄王の息子ではなく、趙姫と文信侯呂不韋(りょふい)との子供と言われており、秦王室の乱れの中で生誕したのです。
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秦の始皇帝嬴政の子供の扶蘇は李斯の焚書坑儒を強諫したので万里の長城の蒙恬を監督する羽目に陥りました
嬴政は、法家思想の李斯を信任し、焚書坑儒を行いましたが、息子の扶蘇は孔子の儒教を擁護したのです。
ですので、扶蘇は万里の長城の蒙恬の元に送られ、嬴政が最後を迎えた際に、傍にいれませんでした。
そして扶蘇と蒙恬の元に、嬴政が命じたとして自刃すべしという文書が届き、扶蘇は安易に受け入れてしまったのです。
実際は、李斯と趙高が胡亥を二世皇帝に即位させる目的で、始皇帝嬴政の書面を偽造したものでした。
また、胡亥と趙高の偽の文書に激しく抵抗した蒙恬も、弟の蒙毅と共に、無理に死亡させられたのです。
始皇帝の焚書坑儒を子供の扶蘇(ふそ)は非難し、蒙恬(もうてん)の元に移動させられただけでなく、父親嬴政の命令書を改竄した趙高と李斯(りし)に最後を与えられ、弟の胡亥に二世皇帝の地位も奪われました。
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二世皇帝には秦の始皇帝の息子の扶蘇が即位する予定でしたが嬴政の子供の胡亥が就任したのです
嬴政は、扶蘇を子供の中でも能力が高いと考えていたので、後継者に据えていましたが、胡亥の背後には趙高が控えていました。
そして胡亥は、嬴政の息子の中でも可愛がられていたため、巡幸にお供しており、運良く始皇帝の崩御に遭遇したのです。
崩御の際に嬴政は、趙高に扶蘇を即位させるように命じていましたが、趙高は胡亥を二世皇帝とする謀略で、扶蘇に最期を加え秦を牛耳りました。
ちなみに、陳勝呉広の乱で反乱軍は、人々からも人気だった扶蘇を名乗り、民心を糾合したのです。
始皇帝嬴政は、蒙恬の元にいた扶蘇を後継者に目していたのですが、趙高(ちょうこう)の裏切りを見抜けず、胡亥(こがい)が二世皇帝に即位してしまいました。
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嬴政は秦の国威の象徴である阿房宮を建造し始め息子の二世皇帝胡亥が無理に続けたので陳勝呉広の乱が起きました
嬴政は、天下統一した秦の権力を誇示するために阿房宮の築造を開始し、胡亥が強引に継続していたため、大反乱が発生したのです。
胡亥に父親の嬴政クラスの器量があれば、阿房宮完成と陳勝呉広の乱鎮圧に、成功したのではないでしょうか。
また二世皇帝胡亥は、即位に反対する者たちを抑え込むために、有能な武将たちにも厳罰を科したのです。
これにより、秦が急速に弱体化し、陳勝呉広の乱が大規模化することで、秦が壊滅していきました。
始皇帝嬴政は、阿房宮で秦の権威を具現化しようとしましたが、二世皇帝胡亥は能力不足で、陳勝呉広の乱を招き、趙高にも見限られ、秦は項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)に滅亡させられたのです。
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まとめ:嬴政(えいせい)と父親の荘襄王呂不韋と母親趙姫と弟成蟜と秦の始皇帝の子供
嬴政が、どのような家族関係だったかを解説してきました。有名な王族に生まれれば将来安泰、ではないということでしょう。
そして嬴政の母親の趙姫が、嫪あいや呂不韋と密通し、秦を混乱させたことも説明してきました。始皇帝が天下を統一出来たのは、やはり、嬴政が優秀な人物だったからなのでしょう。
また、始皇帝の息子の扶蘇が焚書坑儒を批判し、蒙恬の元に行かされたことも述べてきました。蒙恬の大軍で、趙高と胡亥の不正を糾弾するくらいでなければ、秦で皇帝は務まらないのでしょう。
秦の始皇帝嬴政は、複雑な父親関係がありながらも中華を統一した偉人ですが、子供の扶蘇と胡亥は、残念な末路だったのです。