三国志の貂蝉の美人計で知られている王允は、王翦の子孫なのです。
王翦は、李信が大敗したので、始皇帝から訪問されていました。秦の始皇帝が直々に自宅に来るほど、王翦は大事にされていたのです。
そして、秦の始皇帝が疑心暗鬼に陥りやすい性格だったので、王翦は報酬を何度も希望しました。王翦は戦だけでなく、人心掌握にも長けていたのでしょう。
また、名将王翦でも苦戦した、趙の李牧も説明していきます。結局王翦は李牧に、どのようにして勝利したのでしょうか。
他にも、王翦の息子の王賁の活躍も記載していきます。燕で王賁は、李信と共に大戦果を獲得したのです。
王翦と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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秦の始皇帝は李信が大言壮語していながら項燕に敗北したため王翦の自宅に直々に訪れ大将軍に任命しました
王翦は、始皇帝から高齢で侮られていると考え、自宅に引退していたのですが、李信が大敗してしまったので再び大将軍に返り咲いたのです。
そもそも始皇帝は、王翦よりも李信が優れていると評価していたのではなく、王翦に60万もの大軍を預けると秦を滅ぼすことも出来るので躊躇していました。
ですが、李信が楚の項燕に負けて、楚軍が秦に近付いているので、王翦に大軍を授けるよりほかなくなったのです。
楚がなかなか滅亡しなかったのは、項燕に代表されるような、秘めたパワーがあったからでしょう。
最強な王翦は、秦の始皇帝が疑心に囚われていることに気付いていたため、自宅に訪れ心の底から王翦に大軍を預ける覚悟が出来るのを待っていました。
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李信が20万の軍勢で楚を攻略出来ると述べた際に最強な王翦は60万人欲しいと主張しました
王翦は、秦の始皇帝嬴政から楚攻略の軍勢の人数を問われた際に、李信の三倍は率いたいと述べたのです。
しかし始皇帝は、王翦よりも李信が勇者だと考え、李信を楚攻略の大将軍に抜擢しました。
そして李信は、破竹の勢いで蒙恬と共に、楚の奥地にまで進出したのです。
李信と蒙恬の秦軍が強大なため勝てたと思っていたら、実は楚の大将軍項燕の遠大な作戦だったので、楚軍の急襲に遭い秦軍は壊滅しました。
ちなみに、蒙恬は匈奴征伐と万里の長城建設、でも知られている武将です。
李信(りしん)は、秦の嬴政始皇帝に王翦の三分の一の軍勢で、楚攻略が可能と言いましたが、結局は楚の大将軍項燕の深慮遠謀の用兵に敗れました。
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始皇帝が猜疑心の強い性格であることを王翦は熟知していたのでたっぷり褒美が欲しいと何度も申し出たのです
王翦は、秦の始皇帝から大将軍に指名された後、何回もたくさんの褒美を求める文書を送りました。
あまりにも何度も褒美を欲しがっていたので、王翦の部下が注意したのです。
すると、王翦は本当は褒美を望んでいたのではなく、秦の始皇帝から疑われ粛清されることを恐れている、と語りました。
そして始皇帝は、秦国に多大な功績があり嬴政の本当の父親とも噂されていた呂不韋にも、権勢を警戒し最後をあげていたのです。
ただ嬴政は、警戒心が大きかったからこそ、他国の追随を許さず、中国をまとめ上げることに成功したのではないでしょうか。
秦の始皇帝から大任を拝命した最強な王翦は、呂不韋(りょふい)のように粛清されることを危惧し、部下が非難するほど褒美をねだり続けました。
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王翦は秦の始皇帝の猜疑心に上手く対処し最後を与えられませんでしたが子孫の王離は項羽に負けました
王翦は、始皇帝に調子を合わせ粛清を免れたのですが、末裔の王離は、楚の大将軍項燕の子孫の項羽に敗北したのです。
秦の始皇帝は偉人と言うべき人物でしたが、後継者の胡亥と腹心の趙高は、私利私欲を優先する小人者でした。
ですので、陳勝呉広の乱を誘発してしまい、西楚の覇王項羽も立ち上がったので、王翦の子孫王離が出撃したのです。
王離も王翦の孫にふさわしく有能だったのですが、何代も将軍を担ってきた因果もあり、項羽に敗れました。
王翦は最強な処世術で、秦の始皇帝から粛清されませんでしたが、子孫の王離(おうり)は、祖父と父の因果を背負わされ、西楚の覇王項羽(こうう)に大敗したのです。
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名将李牧に王翦でも勝利が難しかったため始皇帝は買収を利用し李牧に最後を与えたのです
王翦は、長平の戦い以後弱体化していた趙を攻めましたが、李牧には簡単には勝てませんでした。
ですので、秦の嬴政は趙の悪臣郭開を大金で味方とし、李牧を謀反人に仕立て上げ、最期を送ったのです。
そして王翦は、李牧がいなくなり更に衰退した、趙の国都邯鄲の攻略に成功しました。
また李牧は、趙が北方の遊牧民匈奴と接していたので、匈奴が攻めて来たら防御することを繰り返していたのです。
しかし李牧は、勇敢さが欠けていると思われ出したため、匈奴の大軍を複雑な奇陣により打ち負かしました。
最強な王翦が、匈奴討伐の英雄李牧(りぼく)に手こずったので、秦の始皇帝は郭開を賄賂で確保し、李牧を最期に追い込んだ後、王翦に趙の邯鄲を占領させたのです。
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西楚の覇王項羽の祖先項燕に勝つために王翦は軍に休息を充分に与え最強軍を練兵しました
王翦は、楚の大将軍項燕が李信に勝ったことを重く見ており、まずは60万の軍勢をリラックスさせたのです。
秦軍が遊び始めたので、王翦は戦う体制が整った、と判断しました。
そして楚の大将軍項燕は、王翦軍がなかなか動かないので、まだ休息中と考え退却を始めたのですが、これこそ王翦が狙っていた行軍だったため、楚軍は攻められ壊滅したのです。
また項燕は、王翦に大敗し最後を迎える際に、楚は少ない人数になっても必ず秦を滅亡させる、と宣言しました。
最強な王翦は、李信のようにすぐには楚を攻めず、軍勢の気力を養い、楚の大将軍項燕(こうえん)の油断を引き出し、楚を勢力下に収めたのです。
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王翦の息子の王賁は秦の始皇帝から高評価な李信と一緒に燕を占領したのです
王翦の子供は王賁で、始皇帝からの信任の厚い李信と連携し、燕王喜を捕縛しました。
更には白起に趙括が長平の戦いで敗北して以来、衰退していた趙の亡命政府の代も、王賁は滅ぼしたのです。
そして王翦の息子の王賁の子孫が、三国志の王允とされています。
王允は、後漢皇帝献帝劉協を牛耳る悪政な董卓を倒すために、娘で美人な貂蝉を使い、呂布と董卓を不仲に追い込んだのです。
ちなみに王允は、先例や自分の価値観に拘ることで、董卓死後の後漢を統率出来ず、董卓の部下の李傕と郭汜に攻められ、最期が来ました。
王賁は、王翦の息子にふさわしい能力を有しており、李信と共に燕を滅ぼし、代も滅亡させ、子孫の王允子師(おういんしし)は董卓仲穎(とうたくちゅうえい)から後漢を守ったのです。
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まとめ:史実のかっこいい王翦(おうせん)の最強軍と三国志と息子王賁と李信評価
王翦が楚を滅亡させる際に、どのような最強軍を見せたかを解説してきました。王翦は、李信よりもワンランク上の大将軍、と言えるでしょう。
そして李信は、王翦よりも少ない軍勢を始皇帝嬴政に所望していながら、敗れたことも説明してきました。
もしも王翦がいなければ、楚の大将軍項燕に、秦が併合されてしまった可能性もあるでしょう。
また王翦は、秦の始皇帝の猜疑心への対策に、心を配ったことも述べてきました。李信では思い付かないような、老練な武将だからこそ成せる技ではないでしょうか。
王翦が秦にいたからこそ、始皇帝が楚を滅ぼし、中国を統一出来たと言えるほどのかっこいい最強将軍でしょう。