悪来と三国志!典韋立ち往生、意味、秦嬴氏、牙門旗、弁慶最期も解説

三国志の乱世の奸雄曹操を賈詡から助けるために、立ち往生した典韋は、悪来と呼ばれていました。

悪来は高い武力だったので、酒池肉林な殷の紂王からも、評価されていたのです。殷の紂王は悪行で有名なので、悪来も良臣とは言えない存在でしょう。

そして悪来は、元は嬴来とされており、悪を行い過ぎて名前も改悪したのです。ただ悪来は、パワーがずば抜けていたので、簡単には成敗されませんでした。

また、三国志の悪来と称されていた典韋は、立ち往生な最期で知られています。日本の武蔵坊弁慶も立ち往生で有名なため、武人は立ち往生したくなるのかもしれません。

悪来と三國志を詳しく解説していきます!

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悪来は武力に優れており殷の紂王から高評価だったのです

悪来は、酒池肉林の故事成語で有名な殷の紂王から、好印象でした。

殷の紂王は、愛人の妲己と贅沢三昧をしていたので、悪い意味の故事成語の酒池肉林が誕生したのです。

ただ、当然酒池肉林していれば、紂王への不満が増加するため、悪来の秀でたパワーを利用して恫喝していました。

そして三国志の世界でも、悪政な董卓が、武勇に長けていた呂布を義理の息子に迎えることで、酒池肉林していたのです。

悪いことを長続きさせようとする者は、過ぎた力を求めるのでしょうか。

殷の紂王は、三国志の董卓仲穎(とうたくちゅうえい)と同様に酒池肉林への批判を抑えるために、武力で秀でた悪来を腹心としていました。

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典韋が牙門旗を軽々と持てる武将だったので曹操は典韋を悪来に似ていると述べたのです

悪来は、パワーあふれる武将だったので、曹操は三国志の典韋の力を悪来の再誕である、と語りました。

典韋は曹操の親衛隊として活躍していましたが、曹操が賈詡の策で大損害を受けた際に、立ち往生したのです。

典韋は三国志の作者陳寿からは、劉邦の腹心樊噲に似ていると評価されていました。

樊噲は鴻門の会で、主君劉邦が覇王項羽から、秦滅亡の功績横取りの件で詰問された際に、迫力ある壮士ぶりを見せることで、劉邦を助けたのです。

三国志の乱世の奸雄曹操孟徳(そうそうもうとく)の部下典韋は、悪来クラスのパワーを持っていただけでなく、鴻門の会の壮士樊噲(はんかい)に近い武将でもありました。

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殷の紂王の部下たちは嬴来の行いが大悪だったので悪来とあだ名したのです

悪来は、元々は嬴来という名前でしたが、殷の紂王の配下の武将たちから悪評を受け、悪来と呼ばれるようになりました。

始皇帝は本名を嬴政と言うため、悪来の子孫の可能性もあるのです。

そして始皇帝の先祖の穆公は、人柄の良さで天下の信頼を獲得しました。

悪来の末裔から善人が出たことで、悪来の罪が軽減され、後の始皇帝の天下統一に繋がっているのでしょうか。

また、穆公が名君だったために、穆公が亡くなった後は、一旦秦が弱体化しました。

始皇帝の法の支配は過酷でしたが、穆公のような名君な過ちは少なかったのかもしれません。

本名の嬴来ではなく、悪来と称されるほどの悪だった者の子孫から、穆公という善人が出現し、始皇帝という偉人も誕生したと伝わっています。

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殷の紂王の部下には悪来以外にも悪女な妲己もいたのです

悪来の悪は有名ですが、殷の紂王には愛人の妲己もおり、悪来と共に悪事を行いました。

妲己は、いわゆる傾国の美と言うべき存在であり、殷の紂王は妲己のせいで滅んだとも言われています。

そして殷の紂王には、親戚に賢者な比干がおり、妲己は聖人の心臓の七つの穴を見たいと述べたのです。

すると紂王は、比干を斬り心臓を確認したとされています。

また、三国志の悪な董卓にも美女貂蝉がいましたが、妲己ほどの悪は行っていません。

むしろ美人な貂蝉は、悪な董卓と飛将軍な呂布を争わせる美人計で、董卓を滅亡に導いたのです。

殷の紂王の愛人妲己は、悪来と並ぶほどの悪人であり、聖人な比干も妲己により最後を迎えました。

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三国志の曹操も敬っていた周の文王の息子武王は悪来にも最後を与えました

悪来は、周の武王から討たれたとされており、超世の傑曹操は武王の父文王を尊敬していたのです。

周の武王は、殷の紂王の臣下なので、紂王の悪行があっても見逃していました。

しかし、何年経っても紂王は悪を行い続けたので、周の武王は殷周革命を起こしたのです。

そして三国志の曹操は、後漢皇帝献帝劉協を凌ぐ実力者でありながら、周の文王の徳を慕い終生皇帝に即位しませんでした。

ただ曹操はかなりの策士なので、周の文王を見習うフリをすることで、人望を獲得しようとしただけなのかもしれません。

殷の紂王と共に悪来も、周の武王から最期を送られ、三国志の曹操は戦略的に、周の武王の父親文王の生き方を真似ていました。

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悪来の兄弟の子孫が春秋戦国時代の趙を統治していたと言われているのです

悪来が周の武王に斬られたため、悪来の兄弟の末裔は、趙を統括しました。

春秋戦国時代の趙は、軍事的に飛躍するために、武霊王が胡服騎射を採用したのです。

しかし趙では、北方の異民族のを侮る傾向があり、なかなか胡服騎射が受け入れられなかったのですが、武霊王は無理やり取り入れました。

そして、悪来の兄弟の子孫が統治していた趙の近くには、中山国が存在していたのですが、武霊王の胡服騎射軍の前に滅亡したのです。

ちなみに、劉備の軍師諸葛亮が尊敬していた楽毅は、中山国に仕えていたと言われています。

周の武王は悪来に最後を与えましたが、兄弟の子孫は生き残れたので趙を統治し、趙の武霊王は胡服騎射で中山を制圧しました。

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悪来な三国志典韋の凄まじい立ち往生は武蔵坊弁慶の最後とも似ているでしょう

三国志の典韋は、宛城の戦いで曹操が逃げる時間を稼ぐために、死を恐れず敵と死闘を繰り広げたのです。

結局典韋は、曹操の息子の曹昂と共に、戦死しました。

そして武蔵坊弁慶は、源義経の部下でしたが、義経が兄弟で鎌倉幕府初代将軍の源頼朝と、対立してしまったのです。

弁慶は最後まで義経の味方を行い、追手が迫り猛攻の中、立ち往生で最後を迎えました。

ちなみに義経は、武蔵坊弁慶が時間を稼いだおかげで、北海道に逃亡出来、海を超えチンギスハーンと名乗った、という伝承もあります。

乱世の奸雄曹操は、悪来な武勇を誇っていた典韋が、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)のように立ち往生したからこそ、生き残れたのです。

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まとめ:秦嬴氏な悪来(あくらい)と三国志典韋(てんい)の武蔵坊弁慶立ち往生な最期

悪来が、どれくらい悪で危ないかを解説してきました。典韋と悪来が一騎打ちしたとしたら、悪が多い方が敗れるのでしょうか。

そして典韋が、悪来の名にふさわしく、牙門旗を容易に上げられるパワーを有していたことも、説明してきました。

曹操が典韋に、暗殺をもっとたくさん指示していたら、三國志の英雄が消え失せていたかもしれません。

また、悪来と評された典韋の主君曹操が、悪来の主君紂王に勝利した周の武王の父の文王に、憧れていたことも述べてきました。

悪来と紂王の悪に勝ったのは、武王ですが、周の文王の方が全体的な功績は大きいのかもしれません。

典韋に悪を増加させた存在と言える悪来は、子孫が繁栄し、始皇帝の偉業に繋がったと言われています。

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