三国志の超世の傑曹操は、優れた用兵により呉起に匹敵する、と言われていました。
呉起は、斉の司馬穰苴という有能な将軍と同じくらいの能力がある、と評判だったのです。有名な兵法家に孫子がいますが、司馬穰苴とは、どう関係があるのでしょうか。
そして呉起は、魏の武侯が山河の守りを大事にしていたので、徳を諭したのです。いにしえの良書の書経にも、徳を頼む者は栄えるとあります。
また、将軍として有能な呉起が手に入れていなかったものを、田文は持っていたのです。ちなみに田文は、様々な面で呉起に及ばない人材でした。
他にも、呉起の楚での法治主義が、一定の成果を上げたことも説明していきます。法治主義のどこが問題、でもあったのでしょうか。
呉起と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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斉の偉大な将軍司馬穰苴に比肩すると高評価されていた呉起
呉起は、強欲と女好きな性格を批判されていましたが、用兵力では、司馬穰苴クラスと称されていました。
そして司馬穰苴は出陣の際に、権威が足りないので、荘賈の権勢を味方としたいと、斉の景公に申し出たのです。
荘賈は、権勢を持つ人物らしく、出撃前に宴会を行い、軍令を破ってしまいました。
すると、司馬穰苴は荘賈に最後を与えようとし、荘賈は景公に助けを求めたのです。
しかし司馬穰苴は、偉大な兵法家孫子と同じように、君命に受けざるところありとして荘賈に最期を与えました。
呉起は、権勢を誇っていた荘賈(そうか)に、孫子と同様の考えで最後を送るほどの将軍である、司馬穰苴(しばじょうしょ)に劣らないと述べられていたのです。
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部下の兵士たちと同じ待遇に甘んじ傷の膿を吸ってあげることで呉起将軍は強兵を得ました
呉起は、他の貴族な将軍では行わないような厚遇を、兵士たちに与えることで、魏を大国化させたのです。
ですが兵士の母親の中には、呉起将軍から手厚い対応を受けたら、必死に戦わなければならないため、悲しむ者もいました。
そして呉起は若い頃に、論語の聖人孔子の弟子の曾子に学びましたが、母親を軽んじたので、追放されたのです。
呉起は、人徳ではなく出世や用兵を重視する人材だったため、曾子の考えと合わなかったのでしょう。
また曾子では、呉起のように、魏や楚を強国に変貌させられなかったのではないでしょうか。
呉起は、一般の兵士を厚遇することで、精兵を養成し、人徳を軽んじてでも将軍としての名声を優先しました。
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魏の武侯が魏には美しい山河の守りがあると述べましたが呉子こと呉起は徳な名言を語ったのです
呉起は船中で、武侯がきれいな山川の守りに囚われ、人の重大性を見失っていることを指摘しました。
しかし後年呉起は、楚を法治で過酷に統治し、貴族の恨みを買ってしまったのです。
言うは易く行うは難しとありますが、呉起は自分自身で実演してしまったのでしょう。
そして、春秋の五覇の秦の穆公は、人徳な名君として知られていますが、死後に秦の衰退と賢者の死を招きました。
法治と徳どちらかだけでは、国を統治することが難しいのではないでしょうか。
呉起はかつて、魏の武侯(ぶこう)に徳の良さを主張しましたが、楚で徳に欠けた法治を敢行し悲惨な末路が訪れ、春秋の五覇の秦の穆公(ぼくこう)は徳を重視しましたが、秦の弱体化を発生させたのです。
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法家の商鞅が秦の孝公が死去した途端に最後を迎えたように呉起も楚の悼王に最期が来ると死が訪れたのです
呉起は悼王の強権で、楚を法治しましたが、貴族たちの恨みも買っていました。
ですので、楚の悼王に最後が来ると、呉起に反感を抱いていた者たちから討たれたのです。
しかし呉起は、孫子と並ぶほどの兵法家だったため、悼王の遺体の近くで反対派に最後を与えさせました。
このことにより、呉起を討った者たちは、楚の王族に逆らったと見なされ、悼王の息子の粛王に粛清されたのです。
恨みがあっても、むやみやたらと仕返しするのは、危険ということでもあるでしょう。
呉起は、楚を法治主義により強国化させましたが、貴族たちには理解されず、秦の商鞅と同様の末路となりましたが、孫子な兵法で呉起反対派を道連れにしました。
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田文は呉起に軍事統率知略で劣っていたにも関わらず呉起より優れていました
田文が、宰相に就任した際に、呉起はなぜ能力に優れた自分が宰相になれなかったのか、分からなかったのです。
しかし田文は、呉起と議論し、魏の武侯の年齢が若く人民が不安を感じているので、自分が宰相なのだと語りました。
呉起は優秀な将軍でしたが、田文のような権勢が不足していたのです。
そして田文が最後を迎えても、呉起は宰相になれず、公叔が宰相に就任しました。
ちなみに、後に魏は、呉起以外の能力の高い人材も採用出来ず、魏の出身者が他国で出世し、攻めて来る事態を招いてしまったのです。
呉起は将軍として有能でしたが、田文(でんぶん)が持っているような権威が欠けており、魏で出世出来ませんでした。
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楚の悼王から高評価され念願の宰相に就任した呉起将軍の商鞅な法治主義
呉起は、楚の悼王から好印象だったため、宰相の令伊になり、秦の商鞅のような法治を行いました。
楚は伝統的に貴族分権な国家であり、国のパワーが分散していたのです。
呉起は、貴族たちの批判を無視し、悼王の後ろ盾で、厳酷に法治を決行しました。
そして呉起の変法改革により、楚は強国化し、周辺諸国を勢力下に収めたのです。
また、楚の悼王が長生きし、呉起の法治が完成していたら、秦が天下統一するのは不可能だったかもしれません。
西楚の覇王項羽は、楚の屈辱を晴らすために秦を滅亡させましたが、呉起の法治があれば、項羽も出て来なかったのではないでしょうか。
呉起将軍は楚の悼王(とうおう)から信任され、秦の商鞅(しょうおう)な法治主義を断行し、楚が他国を圧倒するほどの強国にしました。
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楚は呉起将軍が最後を迎えると貴族分権に戻りましたが秦は商鞅こと公孫鞅の死後も法治主義を行ったのです
呉起将軍は、楚を貴族分権から解放しようとしましたが、呉起に最期が訪れると楚は逆行してしまいました。
そして、商に封じられ商鞅と呼ばれるようになった公孫鞅は、秦で変法を行う際に、秦の孝公に覇道でおもねったのです。
後に商鞅は、恵文王から恨みにより法の裁きを被りますが、秦の孝公におもねって採用されたからではないでしょうか。
また法家の商鞅は、謀反の嫌疑をかけられた際に、宿に泊まろうとすると、商鞅の法律により通行証が無く宿を利用出来なかったのです。
呉起将軍は、楚を強国化させた法治主義を楚に根付かせることが出来ず、商鞅は、秦を法治国家に変更させることに成功しましたが、秦王と法律で最後を与えられました。
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まとめ:呉起(ごき)将軍の兵法能力と三国志と呉子名言
呉起が、後の時代のたくさんの将軍から見習われるほどの人物、であったことを解説してきました。
三国志の時代に呉起がいた場合、曹操の軍師になっていた可能性が高いでしょう。
そして呉起が、強兵を得るために、周りの兵士を上手くもてなしていたことも説明してきました。
組織の中で上の立場の人は、呉起を参考にすると、強い組織力を確保出来るでしょう。
また、法治を重視し過ぎた呉起が、秦の商鞅と似たような最後だったことも述べました。法律を活用する者は、呉起がなぜ残念な最期だったかを、深く考察すべきではないでしょうか。
将軍としても法家としても優れていたために、呉起は悲惨な末路を招いたので、徳の大事さが分かるでしょう。