王齕!秦国将軍、史実王騎王齮、白起長平の戦い、昭襄王廉頗も解説

王齕は、白起と共に秦国の力を天下に見せ付けた、将軍だったのです。

長平の戦いで王齕は、大将軍白起と一緒に、趙括に大勝しました。趙括は兵法を弄ぶだけで、父親の馬服君趙奢には遠く及ばなかったのでしょう。

そして王齕は、長平の戦いで当初は、闘将廉頗に連勝していたのです。秦は白起だけでなく王齕も有能だったので、趙の大軍に圧勝出来たのでしょう。

また、秦が狙っていた上党郡を、趙の平原君が獲得したことで、王齕が急襲したのです。もしも趙が、上党郡を遠慮していれば、白起と王齕に大敗しなかったかもしれません。

他にも、王齕と王齮王騎が同じ人物であるという話も、していきます。王齕はかなり昔の武将なので、いろいろな噂が広まっているのです。

王齕を詳しく解説していきます!

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昭襄王の将軍だった白起と王齕は長平の戦いで趙括に勝利し趙軍を生き埋めにしました

王齕は、白起と共に趙括と戦い、趙の大軍に勝ちましたが、捕虜を生き埋めにすることに決定したのです。

長平の戦いは、趙だけでなく秦の国力をも、疲弊させるほどの激戦だったため、趙の捕虜の大軍を上手く管理するほどの余力が無くなっていました。

そして、白起と王齕の趙軍生き埋めは決行され、趙の恨みを買いましたが、強大な趙の国力を大きく削ることにも貢献したのです。

趙は武霊王が胡服騎射を導入し、強国化し秦に対抗出来ていましたが、王齕と白起に大敗北したことで、秦の天下統一が確実になっていきました。

王齕は、長平の戦いで白起(はくき)と一緒に、趙括(ちょうかつ)に大勝利し、趙の国力を大きく減退させる生き埋めも敢行したのです。

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王齕が邯鄲攻略に失敗し戦国四君の春申君と信陵君に負けたため白起は批判したのです

王齕は、邯鄲占領が上手くいかず、信陵君と春申君に敗れましたが、昭襄王に逆らっていませんでした。

対する白起は、長平の戦いだけでなく、他の大戦でも大戦果を獲得した自負心から、昭襄王の命令にも従わなかったのです。

そして白起は宰相范雎から、大評判な大将軍であることを畏怖されており、長平の戦いで趙攻撃を継続出来なかった要因にもなりました。

白起が、相性の良い宰相に巡り合えていれば、この時に趙を征服していたかもしれません。

王齕は、信陵君と春申君黄歇(しゅんしんくんこうけつ)に敗北し、邯鄲攻略を成功させられず、白起ほどの大将軍ではありませんでしたが、昭襄王に表立って盾突いていなかったので、自害に追い込まれなかったのです。

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長平の戦いは初めは王齕が廉頗と勝負し廉頗は屈強な秦軍との戦闘を回避したのです

王齕は長平の戦いで、廉頗に連戦連勝したため、廉頗は総崩れを警戒し長期戦の構えを取りました。

名将廉頗が、持久戦を計画し守りを強固にしたので、王齕は攻撃の機会を得られず虚しく時が過ぎたのです。

そして宰相范雎は、王齕軍の方が先に音を上げることを恐れ、趙の孝成王に、廉頗は御し易いが趙括は難敵と感じていると誤解させました。

孝成王も、廉頗の用兵に疑念を感じていたため、完璧な藺相如の反対も押し切り、趙括を無理に将軍とし、結果大敗北を招いたのです。

王齕は、勇将廉頗(れんぱ)に長平の戦いで何度も勝ちましたが、廉頗が短期決戦を拒絶したため攻めあぐね、宰相范雎(はんしょ)の策謀に助けられました。

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韓の上党郡が秦に支配させないために戦国四君の平原君の保護を受けたので昭襄王は王齕に上党郡を攻撃させました

王齕は、趙の平原君と孝成王が、秦の上党郡管理を妨害したので、攻めることになったのです。

そもそも趙の平陽君は、上党郡をもらえば秦と激突するため、帰属を拒否すべきと述べていました。

しかし戦国四君の平原君は、領土拡大が難しい今に、無料で領地が得られるのであるから、当然確保すべきと主張したのです。

平原君は戦国四君に数えられていますが、失策も多く、結局上党郡を得たことで、長平の戦いの大敗を招きました。

ですが、上党郡を獲得しなかったとしても、趙と秦は激突した可能性が高いため、戦のやり方が失敗だったのでしょう。

王齕は、韓の上党郡の征服を、趙の孝成王と平原君趙勝(へいげんくんちょうしょう)が邪魔したため、上党郡に攻め込み、そのまま長平の戦いに突入したのです。

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王齮と王騎は王齕と同じ武将であるという説が存在しているのです

王齕は、蒙恬と蒙毅の祖父蒙驁と共に活躍した、王齮王騎と同一武将と言われています。

なぜなら、王齕は史記の秦本紀には出て来ても、秦始皇本紀には記載が無く、王齮は秦始皇本紀には書かれていますが、秦本紀にはいないためです。

そして、王齮王騎と一緒に名声を博した、蒙驁の孫の蒙恬と蒙毅も、優秀でしたが趙高の歪んだ法解釈に敗れ、最後が訪れました。

法律と優れた将軍が作り出した大国秦は、趙高によって破壊されてしまったのです。

ちなみに、趙高に担がれていた二世皇帝胡亥も、後に趙高から最期をもたらされました。

王齕は、史記で王齮(おうき)と揃って不思議な扱いを受けているため、王齮王騎は王齕と同じ人物だと伝わっています。

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戦国四君の信陵君と春申君は趙の邯鄲を囲んでいた王齕に勝ちました

王齕は、長平の戦いで衰退したはずの趙の邯鄲を攻撃していましたが、結局春申君と信陵君に敗北したのです。

信陵君の魏軍は、元は晋鄙が率いており、晋鄙は秦から、趙攻めに介入しないように警告されていました。

ですので、信陵君は巧みに兵権を獲得し、軍を渡さない晋鄙に命令違反により最期を与えた上で、王齕を攻めたのです。

秦が、適切な法治と優秀な大将軍を抱えていながら、なかなか天下統一出来なかったのは、戦国四君などの鬼才が他国にいたからでしょう。

王齕は、趙の邯鄲を包囲しましたが、長平の戦いのようには上手くいかず、戦国四君の信陵君魏無忌(しんりょうくんぎむき)と春申君に負けました。

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蒙驁と王齕は戦国四君の信陵君と合従軍が来たので迎撃しましたが敗れたのです

王齕は、かつてと同じように、戦国四君の信陵君には勝利出来ませんでした。

昔、秦が覇権を握る前は、魏を中心に天下が動いていた時代もあり、信陵君の王齕への勝利は、魏の復活に繋がるかに見えたのです。

しかし、信陵君の大名声を危惧していたのは、秦の昭襄王や王齕だけではありませんでした。

魏の安釐王は、晋鄙の元部下たちが、信陵君の謀反の噂を広げていることを耳にし、信陵君への疑心を深めたのです。

信陵君も白起と同様に、高い能力を有していたために、災難が訪れました。

王齕は、戦国四君の信陵君に敗北しましたが、信陵君は威勢が強大になり過ぎ、安釐王に恐れられ疎外されてしまったのです。

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まとめ:史実の王齕(おうこつ)と王騎王齮と秦国将軍

王齕が、秦でどのような将軍だったかを解説してきました。秦では白起や王翦が有名な将軍ですが、王齕がいたことで、勝利を大きくしていけたのではないでしょうか。

そして白起が、王齕の邯鄲攻めが上手くいかなかったことを、責めたことも説明してきました。白起は、王齕以上の将軍だったことで、災いを呼び込んでしまったのでしょう。

また、戦国四君の信陵君に、王齕が敗北したことも述べてきました。王齕は勇将ですが、信陵君はそれ以上に優れた人物だったのでしょうか。

ちなみに信陵君は、前漢の初代皇帝高祖劉邦からも、敬服されていたほどの武将です。

王齕は、白起と共に秦の覇業に貢献し、秦の力強さを他の戦国七雄に見せた大将軍でしょう。

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