虞卿!魏斉、桜緩意味、趙国孝成王、范雎昭襄王、史記平原君も解説

虞卿は、弁舌が巧みなだけでなく、友情にも篤かった人物です。

趙の孝成王は、虞卿がずば抜けた才能を持っていることに、即座に気付きました。虞卿の進言を初めからすべて聞き入れていれば、孝成王は覇者になれたかもしれません。

そして、友人の魏斉を優先し、虞卿は非常に苦しんだのです。魏斉は、結局范雎から自害に追い込まれたわけですが、虞卿は友情を天下に明示しました。

また、王齕の邯鄲包囲を防ぐ策を、虞卿は提示していたのです。長平の戦いの大敗北後も、趙国には虞卿のような賢人がいて、尽力していたのでしょう。

他にも、虞卿と論戦した桜緩の策略も説明していきます。自分の立場を把握してこそ、上手く主張が通るのではないでしょうか。

虞卿を詳しく解説していきます!

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煌びやかな褒美と卿の地位を趙の孝成王から虞卿はすぐに賜りました

虞卿は、初めの面談で趙の孝成王から貴重な宝物を与えられ、次の面会で卿という重大な立場をもらったのです。

孝成王は、家臣に廉頗や完璧な藺相如もいたため、虞卿がどれくらい優れた人物だったかも分かるでしょう。

ただ、長平の戦いで孝成王は、判断を誤り、趙括を大将軍としてしまい、昭襄王の部下の白起に大負けしたのです。

趙括の軍師に虞卿がいたら、白起の偽装退却を看破し、趙の大敗北を避けられたのではないでしょうか。

ちなみに白起も、虞卿の友人魏斉に報復した范雎から、優秀過ぎることを危惧され、疎んじられていったのです。

虞卿は、孝成王趙丹(こうせいおうちょうたん)から非常に厚遇され、高価な財宝だけでなく卿という重要な地位も、下賜されました。

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戦国四君の春申君に楚の中央から離れておくと王族を刺激し難いと虞卿は進言したのです

虞卿は、考烈王を命懸けで援護したほどの人材が春申君なので、王族と距離を置いておいた方が、妬まれ難いと述べました。

元々考烈王は、昭襄王に人質として仕えていたのですが、楚王に即位するために、春申君が秦王の許可無く戻らせたのです。

ですので、春申君は考烈王から絶大な支持を受け、呂不韋に函谷関の戦いで敗北するまで、厚遇は続いていました。

ちなみに、考烈王の息子の昌平君は、始皇帝嬴政に仕えていましたが、楚がピンチになると楚王となり、項燕と一緒に秦と戦ったのです。

虞卿は、昭襄王の人質から考烈王(こうれつおう)にまで出世させた春申君黄歇(しゅんしんくんこうけつ)が、楚の首都から遠い拠点にいることで、王族から責められ難くなると献策しました。

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秦の宰相范雎から憎まれていた魏斉との友情を虞卿は選び困窮したのです

虞卿は、魏斉が范雎から恨まれ過酷な追及を受けていたため、友愛から、地位を投げ出して助けようとしました。

そして范雎は、昭襄王から礼遇されていたので、昭襄王は趙の孝成王をも圧迫し、魏斉を追い詰めたのです。

魏斉は、戦国四君の平原君や信陵君ですらも、救えないほどに追い込まれ、失望し自刃しました。

しかし、元々魏斉が范雎を斉に内通しているとして、残虐な刑罰を与えているので、道理の面でも助けるのは難しい案件だったのです。

虞卿は、昭襄王嬴稷(しょうじょうおうえいしょく)と范雎(はんしょ)から、過去の大問題で糾弾されていた魏斉(ぎせい)を、友諠により援助したため、苦難が訪れました。

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司馬遷は史記で虞卿が魏斉との友好を保持して范雎に盾突いたことは無謀であるが評価すべきと記載しています

虞卿は、魏斉が范雎から報復されているのを理解していながら、友情を守るために、高い地位に固執せず庇ったのです。

そして、心理的に追い詰められた虞卿は、大作を執筆し、才覚を時代を超えて示しました。

また司馬遷は、范雎のことも、かなり苦労したからこそ秦で宰相となり、活躍出来たと称しているのです。

ちなみに、范雎を宰相から退かせ、昭襄王の新宰相に就任した剛成君蔡沢も司馬遷から、過去の苦い経験が後に活かされた、と称賛されています。

虞卿は史記の中で、魏斉との友諠を大事にし困難を受け入れ、名著を残したと司馬遷(しばせん)から評価され、范雎も、苦労人であることが良い結果に繋がったと書かれているのです。

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孝成王と平陽君は昭襄王に安易にすがり王齕の邯鄲包囲を招きましたが虞卿は良策を提示していました

虞卿は、長平の戦いの後に、魏や楚を味方としてこそ、昭襄王と良い和睦が行えると主張していたのです。

しかし、趙の孝成王と戦国四君の平原君の兄弟平陽君は、昭襄王と范雎に誠意を示せば、長平の戦いの後の戦を回避可能だと考えていました。

そして、趙が講和の使者を派遣すると、昭襄王と范雎は歓待し、孝成王が他国と合従出来ない流れを創り出したのです。

秦は強大な国なので、他国がいかに同盟しないかに気を付けることで、覇業を成せる状況にありました。

虞卿は、楚や魏を抱き込んでこそ、損害が少ない和解になると力説していましたが、平陽君趙豹(へいようくんちょうひょう)と孝成王は昭襄王を信じてしまい、王齕(おうこつ)の邯鄲攻めを引き起こしてしまったのです。

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白馬非馬論の公孫龍は虞卿が信陵君の援軍は平原君の尽力があったからこそと語ったことを批判したのです

虞卿は、王齕の邯鄲攻撃が信陵君により撃退されたのは、平原君のおかげなので、孝成王から報奨をもらえそうになったのですが、公孫龍は忠告しました。

そもそも平原君は、趙王の身内であるため、それまで厚遇されてきたのです。

ですので、信陵君の件で平原君が褒美を受け取ると、趙王の一族としての地位に、悪影響が出てしまう危険性が、あるのではないでしょうか。

虞卿は、信陵君魏無忌(しんりょうくんぎむき)が王齕に勝った件で、平原君趙勝(へいげんくんちょうしょう)に孝成王から報酬が得られるように働きかけましたが、公孫龍(こうそんりゅう)は王族一門としての立場への弊害を論説しました。

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桜緩は孝成王が領地を昭襄王に渡すべきと語りましたが虞卿は領土を秦以外の国に提供すべきと述べたのです

虞卿は、限りある領地を昭襄王にあげて和睦していくと、いつの間にか趙の領土は消え失せてしまう、と主張しました。

ですが、孝成王は切迫しており、昭襄王におもねってでも、秦軍を退かせなければならない状況だったのです。

そして桜緩は、武将のために女性が自刃した際に、妻の立場で非難すれば嫉妬と受け取られるように、孝成王に秦との和平の件を語らないと言いました。

しかし孝成王が強いて尋ねたため、桜緩は昭襄王に領土を差し出し、講和するのが望ましいと答えたのです。

虞卿は、昭襄王に領土を献上して亡国に近付くよりも、秦以外の国を抱き込むべきと力説しましたが、桜緩(ろうかん)は例え話で孝成王を揺さぶりました。

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まとめ:虞卿(ぐけい)と魏斉意味と桜緩昭襄王と趙国孝成王

虞卿が孝成王の元で、どのように趙国に貢献したかを解説してきました。孝成王は長平の戦いで大敗した趙王ですが、虞卿のような名臣も、まだまだ控えていたのです。

そして、楚王族の戦国四君春申君への介入を減少させる、虞卿の献策も説明してきました。虞卿なら、趙以外の国でも、無難に活躍出来たのではないでしょうか。

また、平原君が信陵君の援軍の件で、孝成王から恩賞を得るべきという虞卿の意見を、公孫龍が警告したことも述べてきました。

虞卿の話の問題点を見抜いた白馬非馬論の公孫龍も、只者ではないと言えます。

虞卿は、孝成王からすぐに厚遇されるほどの大賢者であるだけでなく、魏斉との友義をも重んじる偉人だったのです。

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