美周郎!意味、周瑜イケメン、諸葛亮てのひら、曹仁最強、死因も解説

三国志の赤壁の戦いの英雄周瑜は、美周郎としても有名なのです。

美周郎とは、名前の通り周瑜はイケメンという意味と言われています。周瑜は軍師としても有能だったため、言うことなしな偉人と述べられるでしょう。

そして美周郎が、心もイケメンだったエピソードも説明していきます。外見がイケメンなだけだと、妬まれる危険性もありますが、心も美しいなら味方が増加する一方でしょう。

また美周郎は、天下二分の計という大計を語っていました。周瑜は、諸葛亮と異なる中国世界のあり方で、主君孫権を皇帝に即位させたのです。

他にも、美周郎周瑜が、関羽と張飛に好印象だったことも述べていきます。関羽は諸葛亮でも扱いが難しかった武人ですが、周瑜なら統御出来るのでしょうか・・・

三國志の美周郎を詳しく解説していきます!

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赤壁の戦いの功労者周瑜はイケメンだったので美周郎と呼ばれていました

三国志の周瑜は、かなりのイケメンだったため、美周郎と呼ぶ人もいるのです。

周瑜は、諸葛亮に翻弄されたイメージの人も多いと思いますが、イケメンレベルでは諸葛亮に勝利していると言えるでしょう。

そして、諸葛亮の君主劉備の陣営の中では、五虎大将軍の趙雲がイケメンと述べられることが多いです。

また曹操の部下の中では、張良子房と称されていた荀彧が、イケメンと評価されています。

他にも、潼関の戦いの勇将馬超は、錦馬超と称されることもあるので、イケメンと述べられるでしょう。

周瑜は赤壁の戦いの際、巧みな作戦で乱世の奸雄曹操孟徳(そうそうもうとく)に勝利するほどの奇才だっただけでなく、美周郎と称されるほどのイケメンでした。

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美周郎周瑜はトレードマークの羽扇と綸巾を死後に諸葛亮に取られる関係だったのです


三国志の周瑜美周郎は、最近では諸葛亮のイメージに考えられることが多い綸巾と羽扇が、トレードマークでした。

周瑜は、呉の軍師を務めるだけあって、ファッションもイケメンだったのでしょう。

諸葛亮が北伐で頑張り敵の魏を攻略しようと励み、周瑜よりも高評価な人が多いため、トレードマークも移動したのでしょうか。

三国志の当時は、諸葛亮と周瑜の知力は同じくらいで、大志の質の違いにより、諸葛亮の良いイメージが水増しされていったのでしょう。

諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)は劉備が最後を迎えた後も北伐を強行し、人々の心を掴んだので、美周郎周瑜のトレードマークを獲得出来たと言えます。

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呉の孫権の部下の程普は周瑜を見下していましたが美周郎は心もイケメンだったのです

三国志の美周郎周瑜は、古株の名将程普から侮られていたのですが、対抗せずに謙遜し心服させました。

周瑜が赤壁の戦いで、呉の代表として曹操と戦えたのは、内面もイケメンだったからではないでしょうか。

そして程普は、江東の虎孫堅が伝国の玉璽を見つけた際に、玉璽が主君に幸福をもたらすと考えたのです。

しかし孫堅が玉璽を所有したことで、他の武将から狙われるようになり、荊州の八俊の劉表軍からあえない最期を与えられました。

周瑜は心もイケメンな美周郎なため、江東の虎孫堅文台(そんけんぶんだい)に玉璽をおすすめした古参の勇将程普徳謀(ていふとくぼう)に謙虚に対応し、敬服させたのです。

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美周郎周瑜と魯粛は天下二分の計を掲げ主君孫権を皇帝に就任させました

三国志の周瑜美周郎は、諸葛亮の天下三分の計に対抗して、天下二分の計を主張していたのです。

後漢の中央は、超世の傑曹操が掌握していたため、残りの地域を呉の孫権が獲得するというのが、天下二分の計と言われています。

そして劉備の軍師諸葛亮は、天下三分の計を考えており、後に荊州と益州を掌握したのです。

周瑜が語っていた天下二分の計は、すべては上手くいきませんでしたが、主君孫権の皇帝即位で三国志の一角を占める偉業は達成されました。

魯粛子敬(ろしゅくしけい)と美周郎周瑜は、孫権を皇帝に即位させることで、軍師諸葛亮の天下三分の計に勝利し得る、天下二分の計の主張の一部を実現させたのです。

⇒天下三分の計!意味わかりやすく、失敗愚策、三国志故事成語も解説

諸葛亮と美周郎周瑜は赤壁の戦いの際手のひらに火攻めを隠していました


三国志の周瑜美周郎は、曹操の大軍に勝つには、火計を上手く使うしかないと考えていたのです。

ただ、大々的に火攻めの準備をすると、曹操に対策を講じられるため、手のひらに潜ませていました。

そして軍師諸葛亮は、火攻めの効果をアップさせるために、東南の風を発生させたと伝わっているのです。

周瑜は、人に留まっている賢者に過ぎず、諸葛亮は神に近い軍師なのでしょうか。

ちなみに、諸葛亮に比肩する軍師に鳳雛龐統がおり、周瑜の死後周瑜の亡骸を運んだと伝わっています。

赤壁の戦いで美周郎周瑜は、神クラスの軍師諸葛亮の東南の風を利用し、手のひらに秘めていた火攻めで曹操の野望に勝利しました。

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赤壁の戦いで弱体化した曹操勢力の荊州を攻撃し死因が生じそうになりながらも最強な曹仁に勝利した美周郎周瑜

三国志の周瑜美周郎は、荊州を獲得するために、曹操の部下の名将曹仁に決死の攻撃を行ったのです。

曹仁は、八門金鎖の陣を展開するほどに軍略に精通しており、樊城の戦いで見せたように守りの達人でもありました。

そして周瑜は、身体に矢が当たっても曹仁への攻撃を止めなかったため、背水の陣な攻めで、曹仁を撃破したのです。

また樊城の戦いでは、曹仁が劉備の義兄弟関羽から、攻められ続けながらも防御したおかげで、周瑜の主君孫権が関羽を討てました。

美周郎周瑜は、赤壁の戦いでの乱世の奸雄曹操への勝利を活かし、樊城の戦いの名将曹仁子孝(そうじんしこう)を果敢に攻め立て、打ち負かしたのです。

⇒関羽と呂蒙!樊城の戦い、最後呂布、能力、曹操遷都、劉封孟達も解説

劉備の義兄弟の武神関羽と長坂橋仁王立ちの張飛を獲得しようとした美周郎周瑜


三国志の周瑜美周郎は、劉備の義兄弟の張飛と関羽を味方とすることで、劉備を弱体化させようとしました。

そもそも関羽と張飛は、曹操の軍師程昱からも、1万人の軍隊に匹敵すると評価されているほどの猛将だったのです。

そして呉の孫権は、流浪の劉備に今は力を与える方が良いと考え、周瑜が関羽と張飛を部下にすることを禁じました。

しかし呉の孫権は、樊城の戦いの後に関羽に最後を与えるため、周瑜に関羽を部下にすることを許可しておくべきだったのかもしれません。

美周郎は、関羽と張飛を高評価していましたが、呉の孫権は劉備との関係を重視し、周瑜が関羽と張飛を無理に部下にすることを許可しなかったのです。

⇒三国志長坂の戦い!張飛、橋仁王立ち、趙雲、劉備、孔明、阿斗も解説

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まとめ:三国志の美周郎(びしゅうろう)周瑜公瑾(しゅうゆこうきん)は諸葛亮と共に赤壁の戦いで勝利したイケメン

三國志の周瑜が、どれくらいイケメンで美周郎な活躍を魅せたかを、解説してきました。

非の打ちどころがない人材とは、周瑜のことを指すのではないでしょうか。

そして周瑜が、諸葛亮と共に手のひらに秘めた火計で、曹操に勝ったことも説明してきました。

周瑜が程普に謙遜したように、諸葛亮にも謙虚になっていれば、簡単に中国統一が達成されたかもしれません。

また周瑜が、赤壁の戦いでの勝利に驕らずに、荊州の曹仁を攻めたことも述べてきました。

周瑜が美周郎と称賛されていたのは、前線で死を恐れずに敵を攻撃し続けたことも、理由のひとつではないでしょうか。

周瑜は、心と外見と頭のどれもがイケメンだった、美周郎なのです。

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