楊修!鶏肋、能力性格、死因曹操、でいこう、こうゆう、三国志も解説

三国志の楊修は、賢者でありながら処刑された人物です。

楊修は、曹丕ではなく曹植に付きました。曹植は一見すると、曹丕よりも才能あふれる人物だったのです。

そして楊修は、曹植を後継者にさせるために、曹丕派を追い落とそうとしました。やはり曹丕が曹操の後継者になれたのは、楊修の考えを封じるような策士が、いたからでしょう。

また楊修は、曹植が後継者争い勝ち残れるように、過度の助言までしていました。普通の主君なら見抜けないかもしれませんが、楊修が仕えているのは、乱世の奸雄曹操なのです・・・

他にも、楊修の有名なエピソード鶏肋も、説明していきます。曹操は突然鶏肋と述べたのですが、どういう思惑があったのでしょうか。

三國志の楊修を詳しく解説していきます!

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曹操の後継者候補の一人曹植に仕えた楊修

三国志の楊修は、ずば抜けた文才を誇っていた曹植に、付いていました。

しかし曹植は、皇帝しか通行出来ない場所を利用するような傲慢さも、持っていたのです。

後に楊修が、曹操の本心を見抜き過ぎて処分されますが、ある意味曹植と似ていると言えるでしょう。

そして曹操の後継者は、もう一人の息子曹丕となりました。

楊修は曹植派だったため、楊修の魏王朝での立場も危うくなったのです。

ちなみに曹操には、軍師で仇敵な賈詡がおり、賈詡は袁紹と劉表の後継者争いの話を持ち出すことで、曹操に曹丕後継者を決定させました。

楊修は、文才に優れていた曹植子建(そうしょくしけん)に味方したことで、後に曹操から疎んじられたのです。

⇒漢王朝最後の皇帝!劉協、献帝、末裔、曹操司馬懿、滅亡、皇后も解説

楊修は曹植を曹操の跡継ぎにするために曹丕の問題を告発したのです

三国志の楊修は、曹丕が呉質と密談していたので、曹操に事の次第を報告しました。

曹丕は、曹操の印象が悪化する事を恐れ、呉質に相談したところ、今度は訪れた籠の中に特産品を入れたのです。

曹操は楊修が再び告発したので、調べたところ、ただの特産品に過ぎなかったため、逆に楊修を疑いました。

楊修は正しい事をしているのですが、策士とは言えないので、逆に自らを窮地に陥らせてしまったのです。

自分の賢さを示すことよりも、余計なことをしないことの方が、結果的には良いのでしょう。

楊修は、曹丕子桓(そうひしかん)と呉質の策に気付き曹操に報告しましたが、相手の方が一枚上手で、逆に曹操に疑心を持たれてしまいました。

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楊修は曹操が好む答えを曹植に入れ知恵し死因を招いたのです

三国志の楊修は、曹植が後継者争いに勝利出来るようにするために、模範解答を教えていました。

曹操は楊修が、息子の曹植をかなり操っている事実に気付いたので、どうにかして楊修を排除したくなったのです。

そして楊修は、かつての仲王朝皇帝袁術の親戚にあたる人物、でもありました。

曹操は袁術と敵対していたため、楊修もこの機会に残党狩りしておこう、と考えたのかもしれません。

最終的に曹操は、曹丕の方が曹植よりも政治向きの人材である、と決定したため、曹植派を一掃しました。

楊修は、曹植に加担し過ぎたことと、袁術公路(えんじゅつこうろ)の親戚だったことで、曹操から粛清されたのです。

⇒三国志袁術!蜂蜜最期、軍師配下、四天王、袁紹孫堅、玉璽孫策も解説

楊修はハッキリしない性格で曹植派が危険に晒されても付き合いを続けていたのです

三国志の楊修は、曹植との関わり合いを重視し、身の危険を顧みませんでした。

楊修にとって曹植は、それくらい重要な人物、だったのでしょう。

ただ楊修は、曹植をある意味指導する役割だったので、すぐに身を引いて、自分だけでなく曹植の安全も、考えるべきだったかもしれません。

そして、日本の天下人豊臣秀吉も、初めは豊臣秀次を重用していましたが、秀頼が生れたことで心境が変化しました。

あの独眼竜伊達政宗も、豊臣秀次に連座させられそうになったのです。

誰かに仕える人は、次に誰が後継者に本当になるか、見極める眼も求められるのでしょう。

楊修は、曹植が後継者争いに敗れた後も関わり続けたことが、死因となってしまいました。

⇒賈詡と曹操!逸話、評価、どんな人?能力、典韋張繡、息子曹丕も解説

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漢中の戦いで曹操が鶏肋と発言した真意を把握した楊修

三国志の楊修は、曹操が劉備との漢中の戦いで膠着状態に陥った際に、鶏肋を上手く解釈しました。

  • 批判的な禰衡(でいこう)から孔融(こうゆう)と共に高評価された楊修
  • 益州の劉璋の使者張松が孟徳新書をすぐに暗記したため楊修も認めていました

鶏肋は、旨味は少ないが捨ててしまうともったいないので、楊修は曹操が、漢中から退却したがっていると思ったのです。

ですが曹操は、急に劉備軍を攻撃し、楊修が真意を言い当てていないことを装いました。

曹操自身が本当は、撤退が望ましいと考えていたため、魏延から弓で前歯を折られる大損害を受けたのです。

曹操が普段から、有能な人材を集めていたことが、仇となってしまったのでしょう。

楊修は、曹操が鶏肋と表現した本心を見通したのですが、曹操は見透かされることを嫌い、無理に劉備玄徳(りゅうびげんとく)を攻めました。

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批判的な禰衡(でいこう)から孔融(こうゆう)と共に高評価された楊修

三国志の楊修は、曹操にも過激な批判を行った禰衡から、好印象な人物だったのです。

禰衡は、かなり強く皆を批評したので、非常に憎まれていました。

ただ、一理ある言い方も多いので、皆もなかなか仕返し出来なかったのです。

そして孔融は、聖人孔子の末裔で、故事を持ち出して曹操を批判していました。

いい加減曹操も忍耐出来なくなり、禰衡を劉表の元に送り付け、孔融は敵に曹操の悪口をかなり述べたとして、最後を与えたのです。

権力者を批判する際は、どんな人物でも、限度を考える事が重要なのでしょう。

楊修は、最終的に曹操が死因となる、禰衡正平(でいこうせいへい)と孔融文挙(こうゆうぶんきょ)とも近しい存在だったのです。

⇒禰衡!能力性格、孔融評価、太鼓技能、最後死因、楊修司馬懿、も解説

益州の劉璋の使者張松が孟徳新書をすぐに暗記したため楊修も認めていました

三国志の楊修は、劉璋配下の賢者張松の才能を高く買っていましたが、曹操はぞんざいに扱ったのです。

曹操はすでに、天下に敵がいない状況であり、劉璋を軽く見ていたので、張松に適当な対応をしました。

張松は曹操の対応に激怒し、劉璋に劉備に付くべき、と働きかけたのです。

後に劉備は定軍山の戦いで、曹操に勝利するため、曹操は張松への対応に失敗したと言えるでしょう。

ちなみに張松は、益州を劉璋ではなく劉備に渡そうとしていることが発覚し、劉璋から最期を送られました。

楊修は、張松永年(ちょうしょうえいねん)の暗記能力を高評価しましたが、曹操は先が見えず、侮った対応をしてしまったのです。

⇒張松!孟徳新書、劉璋配下法正、顔、暗記能力、張表、曹操劉備も解説

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まとめ:三国志の楊修徳祖(ようしゅうとくそ)の能力と鶏肋と死因

三國志の楊修が、能力を誇り過ぎて、死因を招いたことを解説してきました。あまりにも才能があり過ぎるのも、問題のひとつなのでしょう。

そして楊修は、曹植に肩入れしていながら、敗れ去ってしまったことも説明してきました。楊修は、普通の事務の才能しか無かったのでしょうか。

また楊修は、最後まで曹植派だったことも記載してきました。楊修は曹植のことを、非常に高く評価していたのでしょう。

他にも楊修が、曹操の鶏肋な考えを見通していたことも、書きました。偉い人の本心に気付いても、ペラペラしゃべらないことが、大事なのではないでしょうか。

楊修は、高い能力を持っていたからこそ、災いを招いてしまった賢者なので、身を慎むことの重要性が分かるでしょう。

⇒孔融と曹操!梨、楊徳祖、兄、逸話、孔子儒家、禰衡、三国志も解説

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