奇貨居くべし!呂不韋由来、現代語訳意味あらすじ、使い方背景も解説

故事成語の奇貨居くべしは、文信侯呂不韋が、秦の王族の荘襄王に大投資したことが、由来です。

そして呂不韋は、荘襄王への大提供を成功させるために、愛人の趙姫をも差し出しました。後に呂不韋は、趙姫との関係により失脚するので、因果を感じさせるでしょう。

また呂不韋は、戦国七雄の四国の戦国四君との食客集めの勝負にも、勝とうとしたのです。一字千金の呂氏春秋を作り上げた呂不韋は、まさに戦国五君の一人と言えるでしょう。

ちなみに、ことわざの奇貨居くべしの読み方は、きかおくべしです。

奇貨居くべしを書き下し文や原文ではなく、現代語訳で背景やあらすじと共に、詳しく解説していきます!

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後の荘襄王である嬴異人を発見し文信侯呂不韋は大利をもたらすという意味の奇貨居くべしと述べました

ことわざの奇貨居くべしは、呂不韋が嬴異人を秦王に即位させれば、大きな利益が訪れると見抜いたことが由来です。

呂不韋は商人として成功し、大金を得ていたため、王族を見て、今は落ちぶれているが後々に財宝に変化する、と直感したのでしょう。

また、呂不韋は嬴異人に大投資する前に、父親と話しており、田畑の耕作は10倍の利益で、宝石の利は100倍で、王族の後見なら100倍以上の利益になる、と確信していたのです。

故事成語の奇貨居くべしは、呂不韋(りょふい)は父親と相談の末に、嬴異人(えいいじん)を荘襄王(そうじょうおう)とすると、自分の大出世にも繋がると見通したことを意味しています。

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孝文王の嫁の華陽夫人に奇貨居くべしで獲得した嬴異人を上手く紹介した文信侯呂不韋


呂不韋は、奇貨居くべしで後の荘襄王を確保して油断せず、華陽夫人に嬴異人の良さを宣伝することで、嬴異人が荘襄王になる下地を作っていきました。

そもそも華陽夫人は、孝文王に寵愛されていましたが、息子がおらず、後々には礼遇されなくなっていくことを、恐れていたのです。

ですので、呂不韋は華陽夫人に、嬴異人を義理の息子として迎えさせ、嬴異人は華陽夫人が楚出身だったため、嬴子楚に変名までしました。

故事成語の奇貨居くべしで、嬴異人を礼遇した文信侯呂不韋は、確実に大利を得るために、孝文王の妻の華陽夫人(かようふじん)の境遇を利用し、嬴子楚(えいしそ)を売り込むことにも成功したのです。

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荘襄王が妻とした趙姫は文信侯呂不韋の子供を懐妊していたため奇貨居くべしで呂不韋は始皇帝嬴政の実父の地位をも獲得したとされているのです

奇貨居くべしで、荘襄王を秦王に就任させることに成功した呂不韋は、始皇帝嬴政の父親にもなれたと言われています。

荘襄王は、あまりにも呂不韋の力を使い過ぎたので、呂不韋に息子すら奪われていたのでしょうか。

そして始皇帝嬴政の弟には、長安君成蟜がおり、成蟜は呂不韋と趙姫との間の子供ではないのです。

また成蟜は、始皇帝嬴政に反乱を起こし、趙の悼襄王と結びましたが、秦軍に平定されて最後が来ました。

故事成語の奇貨居くべしで、嬴異人に大援助を行った文信侯呂不韋は、自分の息子を妊娠した趙姫(ちょうき)まで荘襄王に提供したため、始皇帝嬴政の実父の立場をも確保した、と伝わっているのです。

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奇貨居くべしで秦の王族に取り入った文信侯呂不韋は後に始皇帝嬴政から権勢を恐れられ蜀に流刑され最後を迎えました


呂不韋は奇貨居くべしの大恩で、荘襄王からは仲父として厚遇されていましたが、始皇帝嬴政からは権力を畏怖されていたのです。

そして呂不韋は、荘襄王の妻の趙姫との密通を行い続け、ろうあいを利用した裏工作もバレてしまい、始皇帝嬴政から処罰を受けたのですが、まだまだ大きな権勢を誇っていました。

始皇帝嬴政は、呂不韋をそのままにしておくと、反乱を行う危険性があったため、結局呂不韋を蜀に追放したのです。

故事成語の奇貨居くべしで、仲父となった文信侯呂不韋は、荘襄王の妻の趙姫と密かによりを戻し、ろうあいを活用した対策も露見したことで、始皇帝嬴政(しこうていえいせい)から罰を被り、権勢を畏怖されたことで蜀への流刑の末、自害しました。

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戦国四君に競合して奇貨居くべしの文信侯呂不韋は一字千金な呂氏春秋を完成させました

呂不韋は、戦国四君の信陵君魏無忌と平原君趙勝と春申君黄歇と孟嘗君田文に対抗し、大国秦の威信を懸けて食客を登用し、呂氏春秋を作成したのです。

呂氏春秋は、呂不韋の自信作だったため、呂不韋は呂氏春秋に一文字でも増減出来れば、千金を与えると言い放ちました。

また、呂不韋の礼遇した食客には、後の秦の丞相李斯もいたのです。

李斯も呂不韋と同様に、秦で大出世し、始皇帝嬴政の後継者を決定出来るほどの権勢を極めましたが、二世皇帝胡亥と趙高の悪政を止められず、腰斬な最後を加えられました。

故事成語の奇貨居くべしにより、秦で大出世した文信侯呂不韋は、戦国四君の食客集めと競い合い、一字千金な呂氏春秋を誕生させたのです。

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秦以外の戦国七雄の合従軍を奇貨居くべしで立身出世した文信侯呂不韋が破りました


呂不韋は、奇貨居くべしで大利を獲得しただけでなく、函谷関の戦いで勝利することで、名声も博したのです。

戦国時代は、戦国七雄が興隆し、各国の勢力争いが繰り広げられていましたが、大国秦には合従軍でも勝てなくなっていました。

ただ、戦国四君の信陵君は、何度も秦軍に勝利したことがあったため、荘襄王は信陵君と安釐王の不和を増大させる策で対処したのです。

もしも安釐王が信陵君を重用し続けていた場合、魏が中華を掌握する道も、あり得たのでしょうか・・・

ちなみに信陵君は、呂不韋の末裔と言われている、呂雉の夫の劉邦からも敬意を抱かれていたため、墓を大事にしてもらえたのです。

故事成語の奇貨居くべしで、文信侯となった呂不韋は、秦以外の戦国七雄の合従軍にも勝利し、秦の繁栄により一層貢献しました。

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前漢の初代皇帝高祖劉邦の妻の呂雉皇后は奇貨居くべしで有名な文信侯呂不韋の子孫とも言われています

呂不韋は、奇貨居くべしが上手くいき過ぎて、秦の始皇帝嬴政から流刑な最後を加えられましたが、呂雉が末裔として再度復活したと伝わっているのです。

呂雉皇后は、皇帝劉邦の息子の恵帝劉盈の母親なので、呂不韋はいつの間にか前漢皇帝の祖先、にもなっていたということでしょう。

また呂雉は、夫の劉邦と息子の地位を奪おうとした、戚夫人に人豚の刑を与え、戚夫人の子供の劉如意も謀殺したのです。

呂不韋も呂雉のような非情さがあれば、始皇帝嬴政から追放されずに済んだかもしれません。

故事成語の奇貨居くべしで、文信侯呂不韋は呂雉(りょち)皇后の先祖となり、前漢の皇帝の祖先の立場も獲得した、と伝承されています。

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まとめ:奇貨居くべし(きかおくべし)と現代語訳意味使い方と由来呂不韋と背景あらすじ解説

ことわざの奇貨居くべしの意味が、どのように呂不韋に由来しているかを、現代語訳であらすじや背景と共に解説してきました。

呂不韋が嬴異人を厚遇せず大商人を続けていたら、奇貨居くべしが後世に残ることも、無かったのではないでしょうか。

そして呂不韋が、自分の息子を身籠っている趙姫を荘襄王に渡したことで、秦の始皇帝嬴政の父親になれたと言われていることも、説明してきました。

ただ、王族に愛人まで援助したことで、天下統一する始皇帝嬴政の父という地位まで獲得するのは、さすがの呂不韋でも予測していなかったのではないでしょうか。

奇貨居くべしは、文信侯呂不韋が優れた商人だからこそ、困窮した王族に商機を見出し創り出せた、故事成語でしょう。

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