李斯と三国志!最期腰斬、韓非子法家、始皇帝丞相、趙高ネズミも解説

三国志の曹操の我が子房な荀彧は、荀子の子孫で、荀子には、始皇帝の丞相李斯が門下にいたのです。

李斯は、始皇帝の丞相を務められるほどの逸材でしたが、晩年は悪事に傾いていきました。名丞相李斯は、どのような魔が差したのでしょうか。

そして李斯は、法家にふさわしくネズミで、枠の重要性を理解していました。枠を掌握するだけで、李斯は生き残れたのでしょうか。

また李斯は、呂不韋の部下になる前に、三国志の荀彧の先祖としても有名な荀子から学びました。荀子門下には、法家の天才的な理論で知られる韓非子もいたのです。

他にも、李斯が秦の異国人を保護し、更に秦国を興隆させたことも説明していきます。李斯がいなければ、始皇帝が生きている内に、秦が滅亡した可能性もあるでしょう。

李斯と三國志を詳しく解説していきます!

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二世皇帝胡亥を諫言した李斯は趙高から罪を捏造され腰斬の刑で最期が来たのです

李斯は、陳勝呉広の乱に対処するために、胡亥に献策したのですが、裏目に出てしまい趙高から最期を送られました。

胡亥は、皇帝という立場を乱用し、贅沢三昧し、民衆に過酷な労働と税を課したのです。

結局李斯は、蒙恬に権力を奪われることを恐れるあまり、秦という器全体を失いました。

そして趙高は、権勢欲に憑りつかれていたので、李斯の息子の李由が敵と通じていた罪を作り出し、李斯を残酷に処刑したのです。

ちなみに、李斯の子供の李由は、反乱と必死に戦い戦死した、と伝わってもいます。

李斯は、二世皇帝胡亥(こがい)が無能過ぎることを見抜けず、趙高(ちょうこう)の権勢欲にも敗れ、腰斬の刑で最後を与えられたのです。

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始皇帝が最後を迎えると李斯は趙高と共に丞相の権限を乱用し遺言状を偽造したのです

李斯は、丞相以上の大権を獲得するために、胡亥と趙高と連携し、始皇帝の遺言状を偽造する暴挙を犯しました。

始皇帝は、息子の扶蘇を後継者に、と考えていたのですが、李斯の策謀で蒙恬と共に最後を与えられたのです。

そして李斯は、絶大な権力を得ましたが、陳勝呉広の乱を招いてしまいました。

始皇帝の子供の扶蘇は、生きているという噂も存在していたので、陳勝は扶蘇を名乗り決起したのです。

また、陳勝呉広の乱に呼応したのが、劉邦と覇王項羽で、最終的には劉邦が勝利し、前漢の初代皇帝に就任しました。

李斯は、丞相の権限を悪用することで、始皇帝の後継者を胡亥とすることに成功しましたが、真の後継者扶蘇は反乱軍のトップに祭り上げられたのです。

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始皇帝の宰相の李斯はネズミの姿で環境の重要性に気付きました

李斯は若い頃に、ネズミの居るべき場所で、ネズミの待遇が決まると見抜いたのです。

ですので、李斯は当時最強国で勢いのあった秦国に、入国したのでしょう。

ただ、人はネズミほど単純ではなく、人材が有能かどうかも、大きい要因ではないでしょうか。

また李斯は、韓非子という自分以上の法家の人材がいたため、環境で自らが飛躍出来る、と思いたかったのかもしれません。

そして、始皇帝が最後を迎えた後に、李斯は、秦国での環境が逆に悪化してしまったことを、見落としていたのです・・・

ネズミが居場所で、どのような人生か決まるように、人も環境で待遇が決定すると信じた李斯は、最強国秦に参加しました。

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韓非子は始皇帝から絶賛される法家思想を持っていましたが李斯から最後を与えられたのです

李斯は、同じく荀子門下だった韓非子に、取って代わられることを恐れ、韓非子を最期に追い込みました。

韓非子は、祖国韓のために思想を書物に表しましたが、敵国秦の始皇帝から高評価されたのです。

しかし韓非子が、韓の公子なので結局は韓の利益を図ると李斯は、主張しました。

始皇帝は、一旦は李斯の意見を聞き、韓非子に最後を送りましたが、後でかなり後悔したと伝わっているのです。

もしも韓非子が生きていたら、韓国が生き残り、始皇帝が天下統一出来なかった可能性もあるでしょう。

李斯は、韓非子(かんぴし)が始皇帝から、卓越した思想で厚遇され出したため、巧みに讒言して韓非子に最後をもたらしました。

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三国志の荀彧の先祖の荀子門下で韓非子と共に学んだ李斯は呂不韋の部下となったのです

李斯は、性悪説で有名な荀子に師事し、戦国四君に比肩する文信侯呂不韋からも高評価でした。

呂不韋は元は大商人で、奇貨居くべしで始皇帝の父親の荘襄王を厚遇し、秦で大出世した偉人です。

そして呂不韋は、荘襄王の秘めた可能性を見抜いたように、李斯の能力も見通したと言えます。

また荀子の門下には、始皇帝のお気に入りの韓非子もおり、李斯は韓非子に及ばないと考えていたのです。

ちなみに、性悪説荀子は、李斯や韓非子の法家思想ではなく、礼治を主張していました。

李斯は、奇貨居くべしな呂不韋(りょふい)から厚遇され、李斯が学んだ荀子の子孫には、三国志の荀彧文若(じゅんいくぶんじゃく)もいます。

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韓が秦を弱体化させるために鄭国を派遣して来たので他国への警戒が高まり李斯も追放されそうになったのです

李斯は、始皇帝が鄭国によって他国の人材への警戒感を強めたため、秦国でどれくらい他国人が有益かを論じました。

鄭国は、秦を窮乏させる目的で、非常に大きな灌漑水路を建設させようとしたのです。

しかし鄭国は後に、最後を与えられないようにするために、巨大な灌漑水路が始皇帝に利をもたらすと述べました。

そして李斯は、秦が他国よりも秀でているのは、張儀や范雎などの異国人の登用力にある、と語ったのです。

ちなみに、春秋戦国時代の魏国は、一族経営に拘り有能な人材を放逐し、衰退していきました。

李斯は、追放を免れるために、鄭国(ていこく)の巨大灌漑水路の有益さと、他国人の范雎(はんしょ)と張儀(ちょうぎ)の秦国への貢献を主張したのです。

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法家の李斯は始皇帝の覇業に貢献し召公奭や周公旦に匹敵すると言われていました

李斯は、周建国の功労者たちと同じくらいの実力がある、と史記の作者司馬遷からは評価されていたのです。

しかし李斯は、後世から悪行と名高い、焚書坑儒を献策しました。

始皇帝と秦への批判を減らそうとしたのですが、李斯は逆に、民衆の怒りを増幅させてしまったのです。

また李斯は、秦の明君主扶蘇と大将軍蒙恬の罪をでっち上げて、秦国の滅亡を促進してしまいました。

法家の李斯丞相のように、位人臣を極めたとしても、引き際を見極めることが大事なのではないでしょうか。

李斯は法家の代表者と言え、周建国の偉人クラスの人物でしたが、焚書坑儒と秦の有能な扶蘇(ふそ)蒙恬(もうてん)に最期を与えたため、悪名を免れないでしょう。

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まとめ:始皇帝の丞相李斯(りし)の腰斬最期と法家韓非子と三国志

李斯がなぜ、始皇帝の丞相を務められるほど有能でありながら、腰斬に遭ったかを解説してきました。もしも李斯が長生きしていたら、劉邦の天下は無かったかもしれません。

そして、始皇帝の最後に付け込んで、李斯と趙高が、遺言状を改竄したことも説明してきました。丞相李斯の悪心を抑えていた始皇帝の能力も、評価すべきでしょう。

また李斯が、自らの権力を守るために、同門の韓非子を最後に追い込んだことも、述べてきました。手段を選ばない非情さが、始皇帝の丞相を行えた要因、ではないでしょうか。

李斯は、始皇帝の名丞相になれた偉人ですが、最期は腰斬だったため、盛者必衰も感じられるでしょう。

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