狡兎死して走狗煮らる!由来范蠡話、続き韓信故事、意味現代語訳解説

故事成語の狡兎死して走狗煮らるは、臥薪嘗胆の越王勾践の軍師范蠡の言葉が、由来です。

范蠡は越王勾践の性格を見抜いていたため、偉大な功績があるにも関わらず、越から去りました。秦の宰相范雎も、剛成君蔡沢の進言で引退し安泰を得たので、去り際も大事なのでしょう。

そして蒯通は、国士無双韓信が天下三分の計を採用しなかったため、狡兎死して走狗煮らるを予見し、脱出しました。

韓信は謀反で最期を加えられましたが、蒯通は釈放されたので、蒯通は先見の明を有していたと言えるでしょう。

ちなみに、ことわざの狡兎死して走狗煮らるの読み方は、こうとししてそうくにらるです。

狡兎死して走狗煮らるの由来と意味を、原文ではなく現代語訳で、詳しく解説していきます!

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故事成語の狡兎死して走狗煮らるの続きは飛鳥尽きて良弓蔵れ敵国破れて謀臣亡ぶです

国士無双韓信も語った、狡兎死して走狗煮らるには続きがあり、良い弓と策士の末路が述べられています。

そして、臥薪嘗胆の越王勾践の参謀の范蠡は、自らの役目が終わっていることを見抜いたため、生き永らえました。

しかし前漢の三傑の韓信は、蒯通から警告されていたにも関わらず、見通しの甘さで災難を招いたのです。

ちなみに韓信は、背水の陣を誕生させた大将軍、とも言われています。

飛鳥尽きて良弓蔵れ敵国破れて謀臣亡ぶは、故事成語の狡兎死して走狗煮らるの続きであり、范蠡(はんれい)は上手くことわざを活かし生き残りましたが、国士無双韓信(かんしん)は状況の変化に適応出来ず、無念な最期が訪れました。

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范蠡は臥薪嘗胆した越王勾践を呉王夫差に勝たせましたが狡兎死して走狗煮らるに気付き越から亡命したのです

越王勾践が臥薪嘗胆し、宿敵の呉王夫差に勝利出来たのは、范蠡の功績でしたが、范蠡は勾践の危うさを見抜いていました。

そして范蠡と共に文種も、越王勾践を支えていたのですが、文種は勾践の元に留まったため、自害させられたのです。

越王勾践は、呉王夫差に会稽の恥を味わわされ、臥薪嘗胆して復讐に成功したので、気持ちが緩み文種への非難を信じ自殺させてしまいました。

故事成語の狡兎死して走狗煮らるを理解していた范蠡は、臥薪嘗胆した越王勾践(こうせん)を助け呉王夫差(ふさ)を倒したにも関わらず、越に長居せず、生き残りましたが、文種(ぶんしゅ)は油断していたため勾践から最後を与えられたのです。

⇒臥薪嘗胆とは?由来使い方、ロシア日本史故事、意味わかりやすく解説

中国古代四大美女の沈魚美人西施は狡兎死して走狗煮らるに気付いた范蠡と共に越から逃れたとも伝わっています

越王勾践が臥薪嘗胆し、呉王夫差への報復に成功したのは、沈魚美人の西施が夫差を巧みに誘惑したことも要因なのです。

そして西施は、呉王夫差を堕落させるほどの美女だったため、逆に皆から畏怖され、長江で最期を加えられました。

しかし西施が、狡兎死して走狗煮らるを悟った范蠡と一緒に、上手く逃げ延びたとも言われているのです。

また中国古代四大美女には、三国志の貂蝉もおり、西施と同じように兵法三十六計の美人の計を披露した、と言われています。

故事成語の狡兎死して走狗煮らるで、身の安全を図った范蠡は、中国古代四大美女で沈魚美人の西施(せいし)をも危機から救った、とも伝承されているのです。

⇒西施!どんな人?眉をひそめることわざ意味、故事范蠡、中国美人解説

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前漢の三傑の韓信に天下三分の計を進言しても聞き入れられなかった蒯通は狡兎死して走狗煮らるにならないために韓信の元を離れたのです

蒯通は、韓信が第三勢力になり身を守れる、天下三分の計を提示しましたが、韓信は得心しませんでした。

ですので、身の危険を感じ、蒯通は韓信から離れ生き残ろうとしたのです。

そして前漢の三傑の韓信が、劉邦からの冷遇に耐えられず、謀反を起こし処罰された際、蒯通の天下三分の計の話をしてしまいました。

なので蒯通は、劉邦に捕えられたわけですが、当時の主君に奉仕しただけで今は劉邦に刃向かっていないと語り、事無きを得たのです。

故事成語の狡兎死して走狗煮らるを悟った蒯通(かいとう)は、国士無双韓信のような最期を迎えずに済み、前漢の初代皇帝高祖劉邦(りゅうほう)からも才能を理解されました。

⇒天下三分の計!意味わかりやすく、失敗愚策、三国志故事成語も解説

蒯通は国士無双韓信に刎頸の交わりだった張耳と陳余ですら仇敵同士となったので劉邦を信じ過ぎると狡兎死して走狗煮らるで終わると語りました

前漢の三傑の韓信は、軍師蒯通から、劉邦との信頼関係は陳余と張耳の刎頸の交わりに及ばないので危険である、と警告されていたのです。

そして、宿敵同士となった陳余と張耳は、韓信が背水の陣を展開したことにより、張耳の勝利で終決しました。

そもそも張耳と陳余が仇敵同士に陥ったのは、陳余が鉅鹿の戦いで章邯軍を恐れ、軍勢を出さなかったからです。

ですので状況が変化すれば、劉邦と韓信の間柄にも亀裂が入る、と蒯通は忠告しました。

故事成語の狡兎死して走狗煮らると、刎頸の交わりだった張耳(ちょうじ)と陳余(ちんよ)の話で、蒯通は国士無双韓信を警告し続けましたが、結局前漢の三傑の韓信は劉邦との信頼関係を選び、破滅していったのです。

⇒刎頸の交わり!由来あらすじエピソード、類語、意味わかりやすく解説

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三国志の鍾会は狡兎死して走狗煮らるされた韓信になるべきではないと姜維に説得され反乱を起こしたのです

国士無双韓信は、蒯通の天下三分の計を採用せずに、謀反で最期を迎えたので、姜維は鍾会に司馬昭を裏切るべきと語りました。

しかし、鍾会が蜀漢で反乱を行うことを、司馬昭は予見しており、事前に大軍を準備して鍾会に備えたのです。

また、姜維はまだまだ魏と戦える気持ちでしたが、蜀漢の軍勢は敗北して意気消沈していました。

結局姜維と鍾会の乱は、衛瓘に鎮圧され、韓信と同様に謀反人として最後を迎えたのです。

故事成語の狡兎死して走狗煮らるされた、国士無双韓信の話を聞き、鍾会士季(しょうかいしき)は三国志の姜維伯約(きょういはくやく)と共に反乱を行いましたが、鍾会は司馬昭子上(しばしょうしじょう)と衛瓘に追い詰められ、韓信と同じ末路で終わりました。

⇒しょうかい三国志の野心家!鍾会の乱、鄧艾能力、姜維、司馬昭も解説

長平の戦いで大勝した白起と蜀漢の阿斗劉禅を降伏させた三国志の鄧艾も狡兎死して走狗煮らるな最後を迎えたのです

三国志の鄧艾と趙括に大勝利した白起は、大戦果を獲得し終えたことで、権力者から最期を加えられました。

白起は秦の昭襄王に重用され、戦国七雄の各国に連勝し続け、王齕も苦戦した趙を、長平の戦いで大敗させたのです。

ですが、秦の宰相范雎に影響力を危惧され、白起が秦王にも刃向かったことで、口惜しい最期が訪れました。

そして鄧艾も、蜀漢の攻略に成功し、皇帝の阿斗劉禅を投降させましたが、司馬昭の許可を得ずに呉に侵攻する準備を行い過ぎたことで、悲惨な末路となったのです。

故事成語の狡兎死して走狗煮らるで、三国志の蜀漢制圧を達成した鄧艾士載(とうがいしさい)と、長平の戦いで趙括(ちょうかつ)を大敗させた白起(はくき)にも、無念な最後が来ました。

⇒三国志とうがい蜀攻略!鄧艾妻、司馬懿、しょうかい、きょういも解説

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まとめ:狡兎死して走狗煮らる(こうとししてそうくにらる)と続き韓信話意味と范蠡由来と解説現代語訳

ことわざの狡兎死して走狗煮らるが、どのような由来と意味なのかを、現代語訳で解説してきました。凄い偉人でも、最後まで上手くいき続けることは、難しいのでしょう。

そして中国古代四大美人の西施が、范蠡と一緒に、狡兎死して走狗煮らるを回避出来た伝承も、説明してきました。

越王勾践が范蠡を厚遇し続けていれば、勾践が中国を統一した可能性もあるでしょう。

また三国志の鍾会と鄧艾も、狡兎死して走狗煮らるで、最期を迎えたことも述べてきました。才能をあまりにも発揮し過ぎると、危ない最後が近付いてしまうのではないでしょうか。

狡兎死して走狗煮らるは、前漢の三傑の国士無双韓信すら防げなかったため、把握しておくこと必須な故事成語でしょう。

⇒越王勾践!剣、臥薪嘗胆、呉王夫差、范蠡、文種、春秋の五覇も解説

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