万里の長城と始皇帝!作った人物蒙恬、目的地図長さ、特徴歴史も解説

秦の始皇帝嬴政と蒙恬は、世界遺産の万里の長城を作った人物としても、知られています。

万里の長城は、匈奴対策として秦の始皇帝と扶蘇と蒙恬が、作ったのです。ですが、秦にとっての本当の敵は、匈奴で間違いなかったのでしょうか。

そして秦の始皇帝嬴政たちは、万里の長城を10年ほどで建造したのです。約10年もかけて建築しても、趙高の法律の悪用があっては、国を守るのが難しいのでしょう。

また秦の始皇帝の息子の扶蘇は、焚書坑儒に激しく抵抗したため、万里の長城に向かわされました。万里の長城は秦を守ることよりも、破滅させる方に機能してしまったのかもしれません。

ちなみに、万里の長城の読み方は、ばんりのちょうじょうです。

万里の長城と始皇帝を詳しく解説していきます!

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秦の始皇帝嬴政と蒙恬と扶蘇に万里の長城が作られた理由目的は匈奴の侵攻を防御するためです

秦の始皇帝は、匈奴の勢力を警戒し、蒙恬将軍に万里の長城の管理を命じました。

また蒙恬は、大軍で匈奴を討伐し、オルドス地域も秦の領土に組み込んだのです。

そして、始皇帝から信頼されていた蒙恬は、有能だと皆から思われていたため、丞相李斯と趙高から畏怖されていました。

ですので、二世皇帝に胡亥が無理に就任する際に、始皇帝の命令と偽られ、強引に最後を与えられたのです。

ちなみに、蒙恬の兄弟の蒙毅も、趙高から冤罪をもたらされ、無念な末路となりました。

万里の長城は、匈奴の攻撃を排除する目的で、秦の始皇帝と扶蘇と蒙恬によって作られ、蒙恬は優秀だったため、丞相李斯(りし)と趙高(ちょうこう)からの災いを避けられなかったのです。

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万里の長城の完成に秦の始皇帝嬴政と扶蘇と蒙恬が何年かかったかというと10年ほどと伝わっています

始皇帝は、秦を匈奴から守るために、息子の扶蘇と蒙恬将軍に何十万もの人数と約10年の歳月で、万里の長城を建造させたのです。

ただ、北方を防御するための長城は、始皇帝が万里の長城を管理する以前の春秋戦国時代から、存在していました。

始皇帝と蒙恬と扶蘇が、一から万里の長城を構築したのではなく、元からあった長城を改修したり増築したりすることで、万里の長城を誕生させたのです。

秦の始皇帝嬴政(しこうていえいせい)と扶蘇(ふそ)と蒙恬(もうてん)将軍は、10年ほどの月日で万里の長城を完成させましたが、北方に備える長城自体は春秋戦国時代の戦国の七雄の各国に点在していました。

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蒙恬と扶蘇と秦の始皇帝嬴政が作った万里の長城の長さは世界地図の約半分と言われています


秦の始皇帝と蒙恬と扶蘇が建築した、万里の長城の長さは、約2万キロメートルとされているので、世界地図の半分くらいなのです。

そして、万里の長城を始皇帝以後に大きく拡張したのが、前漢の武帝でした。

そもそも前漢の初代皇帝高祖劉邦が、白登山の戦いで冒頓単于に敗北して以来、前漢は匈奴に押されていたのです。

ですが武帝には、霍去病と衛青がおり、匈奴を何度も成敗したため、前漢に万里の長城を増築する機会が訪れました。

世界地図の約半分の長さの万里の長城は、秦の始皇帝と扶蘇と蒙恬だけでなく、衛青(えいせい)と霍去病(かくきょへい)に匈奴を討伐させた前漢の武帝からも、建造されたのです。

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盧生から秦を滅亡させるのが胡だと聞いたため始皇帝嬴政は蒙恬に匈奴攻撃を指示し万里の長城を監督させました

始皇帝は、盧生の秦滅亡の要因は胡であるという主張から、蒙恬の匈奴侵攻を計画し、万里の長城建築にも着手したのです。

しかし蒙恬が、匈奴を撃破したにも関わらず、秦は始皇帝の死後わずか数年で、子嬰の代に滅びました。

なぜなら実は、胡とは匈奴のことではなく、二世皇帝胡亥のことを意味していたからなのです。

そして胡亥は、秦国内の有力者の多くを処刑し、一時的に栄華を極めますが、腹心の趙高から裏切られ望夷宮の変で自害させられました。

万里の長城建造と蒙恬の匈奴討伐で、秦の始皇帝は胡への万全の備えを期しましたが、結局胡とは二世皇帝胡亥(こがい)のことだったため、子嬰(しえい)が最後の秦王となったのです。

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匈奴の冒頓単于は万里の長城を越えて前漢を攻撃し白登山の戦いで劉邦に勝利したのです


蒙恬と扶蘇と秦の始皇帝が建築した万里の長城は、冒頓単于に破られ、前漢の初代皇帝高祖劉邦は匈奴に敗北しました。

そして劉邦は、白登山の戦いで匈奴に囲まれた際、軍師陳平が冒頓単于の妻に、前漢の美女が来る危険性を説いたことで、本拠地に脱出出来たのです。

また冒頓単于は劉邦の死後、妻の呂雉皇后を侮る文書を前漢に渡したため、樊噲から侵攻されそうになりましたが、季布が前漢の将来を深慮し事無きを得、冒頓単于も結局呂雉に謝罪しました。

秦の始皇帝と扶蘇と蒙恬が整備した万里の長城は、匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)に突破され、劉邦は白登山の戦いで負けるだけでなく妻の呂雉皇后も軽んじられましたが、季布の進言と冒頓単于の詫びにより、再戦にならずに済んだのです。

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秦の始皇帝嬴政の息子の扶蘇は儒家の孔子の思想で法治主義や焚書坑儒を非難したので万里の長城の蒙恬の元に送られたのです

始皇帝は、法家思想の李斯を重用して天下を統治していたので、焚書坑儒で孔子の儒家思想を弾圧しました。

そして、始皇帝には子供の扶蘇がおり、秦が民衆から反感を抱かれることを恐れ、焚書坑儒を批判したのです。

扶蘇は始皇帝を強く非難し過ぎたため、万里の長城の蒙恬の元に行く羽目になりました。

また、始皇帝は扶蘇を次の皇帝に指名していましたが、胡亥は二世皇帝に即位するために、趙高と李斯と謀議し、始皇帝の命と欺いて扶蘇を自害に追い込んだのです。

秦の始皇帝の息子の扶蘇は、過酷な法治主義と孔子の思想を迫害する焚書坑儒を強諫したので、蒙恬と万里の長城の管理を命じられ、次の皇帝になるチャンスも失ってしまいました。

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扶蘇と秦の始皇帝嬴政と蒙恬が万里の長城で匈奴への防御を行う以前に李牧は匈奴を撃破していたのです


万里の長城で秦の始皇帝が、匈奴に備えたことは有名ですが、李牧も実は匈奴に大損害を与えていました。

李牧は趙で北方を守備しており、匈奴と趙国内から軽く見られないために、複雑な陣容で匈奴に圧勝したのです。

そして李牧は、幽繆王から重用され、秦軍に連勝するだけでなく、肥下の戦いで桓齮にも最期をもたらしました。

しかし大名声は、味方をも敵としてしまい、李牧は、秦に惑わされた郭開と幽繆王から死亡させられたのです。

秦の始皇帝嬴政と蒙恬と扶蘇が、万里の長城で匈奴を防ぎ止める以前にも、趙の李牧(りぼく)が匈奴に大打撃を加えており、李牧は名将であるが故に、幽繆王趙遷(ゆうぼくおうちょうせん)と郭開(かくかい)から最後を送られました。

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まとめ:万里の長城(ばんりのちょうじょう)を作った人物の名前目的理由と秦の始皇帝蒙恬と何年かかった?と地図長さ歴史特徴

万里の長城が作られた目的と、建造した人物を解説してきました。始皇帝を超えるには、万里の長城以上の建築物を完成させる必要があるでしょう。

そして、秦の始皇帝と蒙恬たちが作った万里の長城が、世界地図の半分くらいもの長さを有していたことも、説明してきました。

万里の長城を見るだけで、中華文明の凄さが伝わって来るでしょう。

また匈奴の冒頓単于が、始皇帝たちが作った万里の長城を突き破り、劉邦に勝ったことも述べてきました。匈奴の中でも冒頓単于は、際立ったカリスマ性を持っていたのでしょう。

万里の長城は、始皇帝嬴政の偉業を体現した存在であり、監督していた真の後継者扶蘇が無念な最後を迎えたので、秦の没落も象徴しているのではないでしょうか。

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