泣いて馬謖を斬る!意味由来、故事成語誤用、後日談エピソードも解説

故事成語の泣いて馬謖を斬るは、三国志の諸葛亮孔明が重用していた弟子の馬謖の大失敗に、厳罰を加えたことに由来します。

蜀漢の李邈は、諸葛亮の泣いて馬謖を斬るが誤用だ、と主張したのです。かつて楚の成王は、有能な武将に厳酷な対応をしたことで、権威を失墜させてしまいました。

そして、諸葛亮の泣いて馬謖を斬るの本当の意味は、主君劉備の助言にある、とも言われています。劉備がもっと長生きしていれば、諸葛亮も馬謖を失わずに済んだのではないでしょうか。

また、諸葛亮の後継者蒋琬も、泣いて馬謖を斬るが誤用だと述べたのです。馬謖は大失敗しましたが優秀だったので、人材があまりいない蜀漢を支えられる、貴重な存在でもありました。

ちなみに、泣いて馬謖を斬るの読み方は、ないてばしょくをきるです。

泣いて馬謖を斬るを詳しく解説していきます!

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李邈は諸葛亮孔明の泣いて馬謖を斬るが子玉に最後を与えた成王の楚の衰退に似ており誤用であると非難しました

諸葛亮は泣いて馬謖を斬ることで、蜀漢に法治の厳しさを示したと考えましたが、李邈は子玉の事例で孔明を批判したのです。

そして子玉は、春秋の五覇の文公重耳と城濮の戦いで無理に戦い敗戦したため、主君の楚の成王に問い詰められ最期を迎えました。

馬謖も子玉のように、主君に逆らい登山し、街亭の戦いの大敗を招き、最後を加えられたのです。

しかし、楚も蜀漢も有能な武将を処罰したために、没落してしまいました。

三国志の諸葛亮が泣いて馬謖を斬ることは、一時的に正義を示しただけの誤用であり、成王が勇猛な子玉(しぎょく)に敗戦の罪を問い楚を凋落させたことと同じ結果に繋がると、李邈は警告したのです。

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秦の穆公が春秋の五覇となれたのは孟明に寛容だったからなので諸葛亮孔明の泣いて馬謖を斬るは誤用であると李邈は諫言しました

諸葛亮は、適正な法治の泣いて馬謖を斬るを実行すると、蜀漢が強国になると考えましたが、李邈は穆公の事例で非難したのです。

そして穆公は、孟明の失敗を許すことで、異民族の西戎も勢力下に組み込むことに、成功しました。

また魯の曹沫は、春秋の五覇の斉の桓公に連敗しながらも、領地割譲の際に起死回生の脅迫で、斉に奪われた魯の領土をすべて取り戻したのです。

三国志の李邈漢南(りばくかんなん)は、穆公嬴任好(ぼくこうえいじんこう)が孟明を処罰しなかったことで春秋の五覇となったので、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の泣いて馬謖を斬るの誤用は、蜀漢の没落に繋がると語りました。

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諸葛亮孔明が泣いて馬謖を斬るを行った本当の意味は劉備を裏切ってしまった罪悪感にあるとも伝わっています

諸葛亮は、死にゆく愛弟子馬謖のために泣いたのではなく、劉備の忠告を聞かなかったことを恥じて泣いた、と言われているのです。

劉備は死に際に、諸葛亮が馬謖を重用し過ぎていたため、馬謖が話術に長けているから注意すべきと述べていました。

しかし諸葛亮は、北伐の街亭の戦いという重大な局面で、呉懿や魏延ではなく馬謖を起用したのです。

もしも、魏延を街亭の戦いの大将軍としていれば、名将張郃に勝つことも、あり得たのではないでしょうか。

三国志の諸葛亮が、劉備玄徳(りゅうびげんとく)の諫言を聞かず馬謖幼常(ばしょくようじょう)に大任を与え、大失態を演じたことが、馬謖を斬る際に泣いていた本当の意味ともされています。

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歴戦の勇将王平は街亭の戦いで馬謖に諫言しましたが聞き入れられず諸葛亮孔明が泣いて馬謖を斬る羽目に陥ったのです

街亭の戦いで王平は、馬謖の強引な登山を強く非難していたため、戦後称賛された後日談もあります。

また王平が、登山した馬謖とは別の軍勢で、張郃を威圧したので、蜀漢軍は破滅せずに済んだのです。

多くの蜀漢武将が、街亭の戦いの責任を取らされる中、王平は昇進しました。

そして諸葛亮が最後を迎えると、魏延が増長したため、王平は強く非難し魏延軍を崩壊させ、蜀漢の平和を守ったのです。

魏延が忍耐強く時期を待っていれば、後の北伐は、姜維ではなく魏延主導で行われていたのではないでしょうか。

三国志の馬謖が街亭の戦いで、勇将王平子均(おうへいしきん)の進言を聞いていれば、諸葛亮が泣いて馬謖を斬るをせずに済んだかもしれません。

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蒋琬は諸葛亮孔明の泣いて馬謖を斬るは人材が少ない蜀漢をより一層疲弊させる誤用であると注意しました

泣いて馬謖を斬るを執行した諸葛亮は、正しい法治を行ったつもりでしたが、蒋琬は人材難を警告したのです。

そして蒋琬の批判に諸葛亮は、孫子こと孫武が法律重視だったからこそ、闔閭が春秋の五覇と成り得たと応えました。

ですが、諸葛亮は後の北伐で、当初のような戦果を獲得出来ていないので、やはり泣いて馬謖を斬るは誤用だったのではないでしょうか。

ちなみに闔閭の息子の呉王夫差は、越王勾践と臥薪嘗胆合戦を行い、最終的には敗北し、勾践は春秋の五覇の一員となりました。

三国志の蒋琬公琰(しょうえんこうえん)は、泣いて馬謖を斬るで優秀な人材が失われたため、諸葛亮の誤用を批判しましたが、孔明は春秋の五覇闔閭(こうりょ)の孫武将軍の事例で反論したのです。

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泣いて馬謖を斬るは大事な武将でも大失敗すれば処断することが使い方の由来ですが馬謖の獄中死と逃亡の可能性もあるのです

諸葛亮が泣いて馬謖を斬るを行った経緯の中に、馬謖が逃げたケースと獄中死の話も存在しています。

蜀漢には向朗がおり、馬謖と仲が良かったため、馬謖の街亭の戦い後の逃亡を咎めなかった、とされているのです。

馬謖が逃亡していた場合、街亭の戦いの登山を無理に決行した、目先の功績に囚われた程度の人物と推測出来るでしょう。

また、馬謖は街亭の戦いの責任を問われ、監獄に入れられ、そのまま最後を迎えたとも言われています。

さすがの孔明も、愛弟子を処刑するのは、忍びなかったのでしょうか。

三国志の泣いて馬謖を斬るが諸葛亮に執行された際に、馬謖が監獄死した状況と逃亡を図ったケースも、伝わっているのです。

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孝公は商鞅の法家思想で恵文王と公子虔と公孫賈を処罰し泣いて馬謖を斬るにより秦を強国化させました

孝公は、三国志の諸葛亮と同様に、子供や身内にも容赦せずに泣いて馬謖を斬るを行ったことで、秦を大国へと変貌させたのです。

そして秦の商鞅は、戦国七雄の中でも強国の魏の公子卬に、騙し討ちで勝利しました。

しかしやはり、商鞅は孝公の後継者を処罰していたため、恨まれており、謀反人に仕立て上げられ最期を迎え、車裂きの刑まで与えられたのです。

ちなみに恵文王は、商鞅への怒りと法家思想の統治を切り分けていたため、秦の法治は存続しより一層強大になっていきました。

三国志の諸葛亮が泣いて馬謖を斬るを断行したように、孝公嬴渠梁(こうこうえいきょりょう)も息子の恵文王と身内に厳罰を加えたことで、秦を強国に導きましたが、商鞅(しょうおう)は報復を受け無残な最後を遂げたのです。

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まとめ:泣いて馬謖を斬る(ないてばしょくをきる)の由来エピソードと故事成語意味使い方と誤用後日談

泣いて馬謖を斬るが、どのような由来で誕生したことわざかを、解説してきました。諸葛亮のような偉人になると、重要な決断が、故事成語として残るのでしょう。

そして李邈が、諸葛亮は春秋の五覇穆公に倣い、馬謖に寛大な対応をすべき、と力説したことも述べてきました。

優秀な人材に寛容だと、先ず隗より始めよのように、どんどん良い武将が集まって来るからでしょう。

また、街亭の戦いで王平が、馬謖の危険な登山を、強く批判していたことも説明していきます。諸葛亮が王平の才にもっと早く気付き重要な地位を与えていれば、泣いて馬謖を斬るを行う必要がなかったかもしれません。

泣いて馬謖を斬るは諸葛亮の悲痛な英断でしたが、誤用と言われることもあるため、有能な部下の失敗への対処の難しさも表しているでしょう。

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