四面楚歌とは!由来意味、項羽故事使い方、作者現代語訳わかりやすく

西楚の覇王項羽は垓下の戦いで、前漢の初代皇帝高祖劉邦から、四面楚歌に追い込まれたのです。

四面楚歌に陥った項羽は、愛人の虞美人に、垓下の歌を与えました。虞美人が中国四大美女に匹敵する美人だったからこそ、垓下の歌も、後世に伝わったのではないでしょうか。

そして西楚の覇王項羽は、四面楚歌で大敗した後、江東での王の地位を放棄しました。項羽の生きる目的は、祖父項燕の仇である秦を倒した時点で、成し遂げられていたのでしょう。

ちなみに、ことわざの四面楚歌の読み方は、しめんそかです。

故事成語の四面楚歌のエピソードを、書き下し文や漢文ではなく、現代語訳や口語訳でわかりやすく解説していきます!

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前漢の初代皇帝高祖劉邦は垓下の戦いで四面楚歌を行い西楚の覇王項羽の士気を挫きました

西楚の覇王項羽は勇猛でしたが、四面楚歌が聞こえて来たため、祖国まで劉邦に付いたと気付き、憔悴したのです。

そもそも項羽は、秦を攻略した際に、咸陽を本拠地にすべきという提案を拒絶してまで、故郷楚で錦を飾ることに拘りました。

ですので、四面楚歌が行われた時の項羽の衝撃は、計り知れないのではないでしょうか。

そしてもしも項羽が咸陽にいたら、劉邦が巴と蜀と漢中から脱出すること自体が、不可能だったかもしれません。

故事成語の四面楚歌は、前漢の初代皇帝高祖劉邦(りゅうほう)が垓下の戦いで、西楚の覇王項羽(こうう)の周囲を楚の歌で取り囲み、士気を激減させたことに由来しています。

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国士無双韓信は西楚の覇王項羽を垓下の戦いで四面楚歌する前夜劉邦に付くべきか迷っていたのです


前漢の初代皇帝高祖劉邦は、四面楚歌により垓下の戦いの勝利を獲得しましたが、国士無双韓信は実は乗り気ではありませんでした。

前漢の三傑の韓信は、垓下の戦いで劉邦が勝つと、自らの大将軍としての役割も減少し、軽んじられると考えていたのです。

ただ、国士無双韓信は軍師蒯通の天下三分の計を採用せず、劉邦への忠節を選んでもいました。

また、韓信が謀反で最期を加えられた際に、蒯通の天下三分の計の話を語ったため、蒯通も劉邦から咎められましたが主君に尽くしただけだと述べ、許されたのです。

故事成語の四面楚歌が行われる前夜、国士無双韓信(かんしん)は蒯通(かいとう)の天下三分の計を使わなかったにも関わらず、垓下の戦い勝利後の劉邦からの冷遇を畏怖していました。

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垓下の戦いで四面楚歌された西楚の覇王項羽は愛人関係の虞美人に垓下の歌を捧げたのです

西楚の覇王項羽は、四面楚歌で最後が近付いていることを自覚し、最愛の虞美人に垓下の歌を提供しました。

垓下の歌で項羽は、勇猛でありながらも時代が味方せず追い詰められ、虞美人に何も与えられない、と嘆いているのです。

そして虞美人は、中国古代四大美女の西施や貂蝉や楊貴妃や王昭君クラスの美人、と伝わっています。

西施や貂蝉は美人の計をさせられているので、虞美人は本命の項羽といられて、幸せだったのではないでしょうか。

ちなみに、三国志の貂蝉は董卓と呂布に、西施は呉王夫差に、兵法三十六計の美人の計を行いました。

故事成語の四面楚歌で追い詰められた西楚の覇王項羽は、寵愛していた虞美人(ぐびじん)に垓下の歌を贈呈し、別離を惜しんだのです。

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垓下の戦いに突入する以前の項羽の亜父范増冷遇はすでに四面楚歌に陥ることを意味していたのではないでしょうか


西楚の覇王項羽が陳勝呉広の乱以後飛躍し、秦を滅亡させた際、常に軍師として亜父范増がいました。

後世でも、項羽が范増を重用出来ていれば、劉邦に対抗し得たと言われてもいるのです。

しかし項羽は、劉邦の軍師の陳平の謀略で、亜父范増を疑い疎んじてしまいました。

また鴻門之会でも項羽は、亜父范増の指示ではなく劉邦との関係を重視し、剣の舞で劉邦を討つチャンスを無くしてしまったのです。

故事成語の四面楚歌は、垓下の戦いで西楚の覇王項羽が、周りが敵だらけで囲まれていた状況を意味していますが、亜父范増(はんぞう)を信頼出来なくなった時点で、すでに四面楚歌状態だったのではないでしょうか。

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四面楚歌で敗北した項羽は西楚の覇王としての自負心から江東で王に即位しませんでした

西楚の覇王項羽は、垓下の戦いで敗れましたが、慕う者も多く江東で王就任を求める武将もいたのです。

しかし項羽は四面楚歌で意気消沈し、臥薪嘗胆する気持ちは無く、潔く前漢軍に突入し自害しました。

そして400年ほどの時代が流れ、三国志の世界に、江東の小覇王と称賛された孫策が出現したのです。

孫策は乱世の奸雄曹操も恐れるほどの猛将でしたが、天才軍師郭嘉が予見した通り、江東制圧の際の残党から急襲され最後が訪れました。

故事成語の四面楚歌は、項羽の西楚の覇王としての気概も奪ってしまい、項羽は江東で王となりませんでしたが、三国志の時代には江東の小覇王孫策伯符(そんさくはくふ)が現れたのです。

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垓下の戦いで四面楚歌が行われる直前彭越は劉邦が項羽に勝った場合厚遇されなくなると考えていました

彭越は、楚漢戦争で劉邦が項羽と対峙していればこそ、礼遇してもらえていることが分かっていたのです。

ですので、彭越は当初垓下の戦いで実力の出し惜しみを行い、自分の値がつり上がってから出陣しました。

そして、楚漢戦争終結後に彭越は梁王に即位出来ましたが、同時に、劉邦の妻呂雉の警戒心を煽ってしまってもいたのです。

上手く戦後を乗り切ったかに見えた彭越は、結局謀反の疑いで最期を与えられ、塩漬けとなりました。

故事成語の四面楚歌の直前、彭越(ほうえつ)は垓下の戦い参戦を躊躇することで、劉邦からの厚遇を引き出しましたが、妻の呂雉(りょち)皇后の疑心を高めてしまい、塩漬けな最後を加えられたのです。

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故事成語の四面楚歌のエピソードは司馬遷が作者の史記の項羽本紀に記載されているのです

春秋戦国時代や楚漢戦争の偉人の活躍が描かれた、史記の司馬遷が作者の項羽本紀には、ことわざの四面楚歌も登場しています。

そして史記の司馬遷は、西楚の覇王項羽がわずかな期間で、領地も無いのに大出世したことを絶賛しているのです。

しかし項羽が四面楚歌で敗北し、天に責任転嫁したことは、厳しく断罪しています。

また劉邦は、楚漢戦争後に匈奴の冒頓単于と戦い敗れていますが、項羽が楚と前漢軍を率いていれば、冒頓単于に勝ち匈奴を滅ぼせた可能性もあったのではないでしょうか。

史記の作者司馬遷(しばせん)は、項羽本紀で故事成語の四面楚歌のエピソードを語っているだけでなく、西楚の覇王項羽の功績を称賛すると共に問題点も糾弾しているのです。

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まとめ:四面楚歌(しめんそか)の使い方由来作者と現代語訳意味わかりやすくと項羽故事成語エピソード

ことわざの四面楚歌が、どのような意味と由来なのかを、わかりやすく現代語訳で解説してきました。劉邦クラスの皇帝になると、歌も味方するのでしょう。

そして前漢の三傑の国士無双韓信は、垓下の戦いの四面楚歌に、初めはあまり熱心でなかったことも説明してきました。

韓信があまり有能でない大将軍であれば、楚漢戦争が長引き、韓信が粛清されることもなかったかもしれません。

また四面楚歌のエピソードは、史記の作者の司馬遷の項羽本紀に書かれていることも、述べてきました。司馬遷が古代中国の偉人たちを史記に記載したからこそ、四面楚歌などのことわざの意味が分かるのでしょう。

故事成語の四面楚歌は、西楚の覇王項羽が敵に包囲され絶体絶命となったことに由来するので、自らの拠り所をしっかり確保しておく重要性も学べるのではないでしょうか。

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