成蟜!始皇帝嬴政兄弟、史実の乱死亡、母親妻、実在いいやつ?も解説

成蟜は秦の始皇帝嬴政の弟で、反乱を起こして最後を迎えました。

長安君成蟜は、突如として悼襄王に味方しましたが、秦に制圧されたのです。悼襄王には龐煖将軍がいたため、もっと龐煖と連携していれば、勝機はあったでしょう。

そして成蟜の父親の荘襄王は、文信侯呂不韋の多大な貢献で、秦王になりました。呂不韋を上手く利用すれば、成蟜も秦王に就任出来たかもしれません。

また、最後の秦王として趙高を成敗した子嬰が、成蟜の息子だった可能性があるのです。子嬰が秦王になるまで成蟜が生きていれば、劉邦や項羽に対抗出来たのではないでしょうか。

ちなみに、成蟜の読み方はせいきょうです。

成蟜を詳しく解説していきます!

⇒悼襄王!有能趙王死亡、史実死因、春平君評価、李牧最後、息子も解説

⇒扶蘇!始皇帝正室、昌平君逸話、胡亥蒙恬、娘子供時代、苗字も解説

スポンサーリンク
おすすめ中国史商品検索窓口

趙の悼襄王を攻撃していた成蟜は急に始皇帝嬴政を裏切りましたが結局秦軍に死亡させられたのです

成蟜は、兄弟の始皇帝嬴政から、趙の悼襄王に突如鞍替えしました。しかし、すぐに秦軍に倒されたので、成蟜の野望は阻止されたのです。

そして趙の悼襄王は、将軍の龐煖が活躍して劇辛を撃破したり燕に侵攻したりしましたが、桓齮と王翦と楊端和に隙を突かれ、領土を大きく奪われました。

また桓齮は趙に連勝していましたが、悼襄王の子供の幽繆王が李牧を厚遇したため、肥下の戦いで最期を加えられたのです。

ちなみに武安君李牧は、郭開の讒言で幽繆王から死亡させられ、趙は一気に弱体化しました。

始皇帝嬴政の兄弟の成蟜は、有能な龐煖(ほうけん)将軍のいる悼襄王趙偃(とうじょうおうちょうえん)に付きましたが、秦にすぐに撃滅され最後も与えられたのです。

⇒龐煖!武神ほうけん実在、劇辛死亡最後、李信強さ、廉頗大将軍も解説

成蟜は反乱で死亡しましたが壁で最後を迎えたのか壁将軍がいたのかで解釈が分かれています

成蟜が趙の悼襄王に味方し、反乱の末最期が来ましたが、壁将軍がいたとも伝わっているのです。

司馬遷の史記の秦始皇本紀には、将軍壁死、と書かれています。

将軍壁死は、これだけだと、将軍の壁が死亡したという意味に取れるでしょう。

しかし将軍壁死は、成蟜が反乱し死亡した流れで書かれているので、成蟜に壁の辺りで最期が訪れたとも読めるのです。

また壁将軍は、史記の他の箇所で言及してはおらず、壁がいたとしてなぜ成蟜の反乱でいきなり出現したのか、という疑問も生じるでしょう。

成蟜は悼襄王に付き、反乱して最後が訪れたことを、司馬遷(しばせん)は史記で将軍壁死と記載したため、様々な解釈が出現しました。

⇒桓齮!史実将軍死亡、かっこよすぎ桓騎最後、かんき楊端和実在も解説

スポンサーリンク

秦の始皇帝嬴政の弟の成蟜の父親荘襄王は呂不韋の助けで即位しました

成蟜の父の荘襄王は、呂不韋に奇貨居くべしで礼遇されたことで、秦王に就任出来たのです。

呂不韋は、後継者の決定権がある華陽夫人に息子がいなかったので、嬴異人を上手く売り込みました。

そして嬴異人は、華陽夫人が楚の出自だったため、嬴子楚と名前まで変更して、華陽夫人に取り入ったのです。

また呂不韋は、荘襄王から礼遇されていましたが、趙姫と嫪あいの密会で失脚し、流刑の上自害しました。

ちなみに、嫪あいは楚王の一族である昌平君と昌文君が制圧し、楚の存在感を示したのです。

成蟜の父親の荘襄王(そうじょうおう)は、名前を子楚(しそ)に変え華陽夫人に気に入られ、呂不韋(りょふい)から大きな援助を受けることで、即位しました。

⇒呂不韋と三国志!呂布違い、始皇帝死亡関係、妻子孫、最後書物も解説

秦の始皇帝嬴政の母親は趙姫でしたが弟の成蟜は違う母親から生まれています

成蟜は、秦の始皇帝嬴政と同じ父親ですが、母親は趙姫ではないと言われているのです。

そして、荘襄王が王齕の趙攻撃を避け秦に脱出した際に、妻の趙姫と子供の嬴政は置いていかれました。

もしもこの時に嬴政が最後を迎えていれば、成蟜が始皇帝になっていたのではないでしょうか。

また王齕は、戦国四君の春申君と信陵君に撃退され、趙の邯鄲は解放されました。

王齕は、白起と共に長平の戦いでは趙括に大勝しているので、白起も邯鄲包囲に参加出来ていれば、結果が変わったかもしれません。

成蟜は、嬴政と同じく荘襄王が父親ですが、秦の始皇帝の母親趙姫(ちょうき)とは異なる母だった、と伝わっているのです。

⇒趙姫!始皇帝母親、荘襄王妻名前、ろうあい子供、呂不韋最後も解説

スポンサーリンク

最後の秦王の子嬰は扶蘇の息子ではなく始皇帝嬴政の弟の成蟜の子供とも伝わっているのです

成蟜は、反乱で死亡しましたが、息子に子嬰がいたと言われています。

そして子嬰は、二世皇帝胡亥を追い詰めた趙高に最期を与え、秦を正そうとした秦王です。

成蟜が生きていれば、胡亥や趙高が悪政を行えなかった可能性も、あるでしょう。

また子嬰は、前漢の初代皇帝高祖劉邦に降伏し、一旦は生き永らえましたが、秦に恨みのある西楚の覇王項羽に最期をもたらされました。

後に項羽は楚漢戦争で劉邦に敗北するため、子嬰を生かし、秦の助けを受けるべきだったかもしれません。

成蟜は、趙の悼襄王に味方し死亡しましたが、子嬰(しえい)が子供だったとされており、子嬰は趙高(ちょうこう)を討ちましたが最後の秦王として終わったのです。

⇒子嬰!秦国最後、胡亥趙高、能力、始皇帝扶蘇、項羽劉邦、誰?も解説

始皇帝嬴政の弟の長安君成蟜の妻が誰かはハッキリは分からないのです

成蟜は、嬴政の兄弟で長安君ですが、妻がどのような人物かは明確ではありません。

息子が有能な子嬰とも言われているので、成蟜の妻も能力の高い女性だったのではないでしょうか。

また成蟜は、最後に悼襄王付き死亡したため、その際に妻も死亡したのかもしれません。

そして、成蟜の兄弟の始皇帝嬴政の妻も、どのような存在かハッキリしていないのです。

ただ、秦の重要な立場に、楚の王族である昌文君や昌平君がいるので、嬴政の嫁は楚関連なのではないでしょうか。

ちなみに昌平君は後に、最後の楚王に即位し項燕大将軍と共に、秦に反抗しました。

長安君成蟜は、始皇帝の弟として有名ですが、妻は不明確で、反乱の際に一緒に死亡した可能性はあるでしょう。

⇒昌平君!かっこいい最後、強い、イケメン楚王死亡、昌文君関係も解説

スポンサーリンク

秦の始皇帝嬴政の弟の成蟜は韓王から巧みに領地を獲得し長安君に就任しました

成蟜は、韓王から上手く領土を奪い、秦から長安君の地位を与えられたのです。

そして韓王の一族の韓非子は、法家思想で、始皇帝嬴政から評価されました。

ですので、韓が興隆する可能性があったのですが、秦の丞相李斯が韓非子の栄達を警戒し、最後に追い込んだのです。

また、始皇帝嬴政が天下統一しても秦が長続きしなかったため、韓非子が長生きしていれば、秦を存続させる法家思想を思い付いていたのではないでしょうか。

成蟜は、韓から大きく領地を得、長安君となり、韓非子(かんぴし)は法家思想で始皇帝嬴政から厚遇されましたが、李斯(りし)から妨害され、韓を復活させることは出来ませんでした。

⇒韓非子の死因!死亡エピソード、最後姚賈、秦逐客令、吃音生涯も解説

スポンサーリンク

まとめ:秦の始皇帝嬴政の兄弟成蟜(せいきょう)の反乱と史実の母親と長安君の妻と実在いいやつ?死亡

成蟜が、秦の始皇帝嬴政の弟でありながら、反乱したことを解説してきました。王族として特別な立場があると、一般の兄弟関係と異なる動きをするのでしょう。

そして、長安君成蟜の反乱を記載した史記の将軍壁死が、意味深であることも説明してきました。あなたは将軍の壁がいたと思いますか?

また、始皇帝嬴政の兄弟として著名な成蟜の妻が、どのような嫁なのか不明、であることも記載してきました。もしかすると、明らかになると、誰かにとって不都合な人物なのかもしれません。

長安君成蟜は嬴政に反乱して死亡しましたが、生きていれば、法律で混乱した秦を支えてくれる可能性も、有していたのではないでしょうか。

⇒嬴政!秦始皇帝子供、弟成蟜、母親趙姫、父親荘襄王妻、呂不韋も解説

重要なお知らせ

スポンサーリンク

おすすめ中国史商品検索窓口

 

 

↓中国史大人気関連記事↓

中国史史記と三国志のカテゴリー

-いにしえ武将