背水の陣を敷く!意味由来、使い方エピソード、ことわざわかりやすく

前漢の三傑の国士無双韓信は、故事成語の背水の陣で、張耳と刎頸の交わりだった陳余の大軍に勝利しました。

西楚の覇王項羽は強敵章邯に勝利するために、背水の陣と破釜沈船を行ったのです。元々勇猛な項羽に背水の陣が加われば、向かう所敵無しなのでしょう。

そして日本史の上杉謙信は逆に、柴田勝家に背水の陣を敷かせることで、手取川の戦いで勝ちました。柴田勝家が自分から背水の陣を敷いていれば、上杉謙信に勝利出来たのではないでしょうか。

また、国士無双韓信が陳余を敗北させたのは、背水の陣を敷いたからだけではありません。背水の陣は、他の兵法と組み合わせてこそ、真価を発揮するのでしょう。

ちなみに、故事成語の背水の陣の読み方は、はいすいのじんです。

ことわざの背水の陣を、書き下し文ではなく現代語訳で、わかりやすく解説していきます!

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張耳と刎頸の交わりだった陳余は国士無双韓信の背水の陣に大敗し最後を迎えたのです

国士無双韓信は、趙の成安君陳余の大軍を背水の陣で迎え撃ち、上手く勝利しました。

そもそも陳余には、軍師の広武君李左車がおり、難所の井陘口で奇襲を行うべき、と進言していたのです。

しかし陳余は、前漢の韓信と張耳の小軍勢に、大軍勢である趙が策略を使えば、不名誉な勝負になると主張しました。

また項羽の部下の猛将龍且も、韓信がかつて股くぐりをさせられた件で軽んじていたので、韓信の水攻めで大敗したのです。

敵を調子付かせることが、兵法の第一歩、と言えるのではないでしょうか。

前漢の三傑の国士無双韓信は、陳余(ちんよ)が大軍で傲慢になっていたため、背水の陣で士気を高揚させ、張耳(ちょうじ)と共に打ち負かしました。

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死地に身を置くことで戦力を増大させる兵法がことわざ故事成語の背水の陣の意味です

背水の陣は、窮地に陥ることで逆に勝利する兵法なので、可能性を感じさせる考え方ではないでしょうか。

そして孫子こと孫武も、死の中でこそ活力が出て来ると記載しているため、韓信の背水の陣は孫子の兵法にも通じる手法なのです。

また孫子は、敵を包囲しても逃げ道を残しておくべきと語っており、敵軍が背水の陣を敷いてしまう大問題も述べています。

そもそも孫子は、連戦連勝よりも、戦わずして勝つことを重視する兵法思想を、持っているのです。

ちなみに孫武は、呉王闔閭が春秋の五覇になることに貢献した、とも伝わっています。

故事成語の背水の陣は、死中に活を見出す兵法を意味し、孫子(そんし)こと孫武(そんぶ)は、敵を完全包囲する危険性を語ってもいるのです。

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西楚の覇王項羽は破釜沈船と背水の陣により鉅鹿の戦いで章邯に勝利し張耳を助けました

鉅鹿の戦いで、勇猛な英布も苦闘していた秦の章邯に勝つために、背水の陣と破釜沈船の兵法を活用したのです。

背水の陣だけでも、追い詰められた気分で必死になるわけですが、食糧を減らし船も無くなれば、項羽軍は章邯軍に猛攻するしか無いのではないでしょうか。

そして項羽は、祖父項燕に最期をもたらした、王翦の孫の王離をも、捕虜とすることに成功しました。

ちなみに項燕は、最後の楚王昌平君と共に最期を加えられた際に、わずかな人数になっても楚は秦を滅亡させる、と宣言していたのです。

背水の陣と破釜沈船で西楚の覇王項羽(こうう)は、命知らずの軍勢を創り出し、鉅鹿の戦いで章邯(しょうかん)に大勝利し、宿敵王離(おうり)も確保しました。

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背水の陣で陳余に勝利した国士無双韓信は武安君李牧の孫の李左車に斉と燕を得る策を問いました

国士無双韓信は、背水の陣で陳余と李左車に勝ちましたが、驕らずに李左車を賢者として厚遇したのです。

李左車は名将李牧の孫であり、賢人だったため、韓信に策を求められても、敗軍の将は兵を語らずと述べました。

しかし、韓信から強いて良策を求められたので、愚者も千慮に一得ありと前置きした上で、燕と斉を征服する作戦を提示したのです。

かつて李牧が武安君として大活躍したことで、郭開と幽繆王から最後をもたらされたので、子孫の李左車は非常に謙遜し、身の安全を重視したのでしょうか。

背水の陣で李左車と陳余に勝った国士無双韓信(かんしん)は、李左車(りさしゃ)を礼遇し、前漢軍の強さを誇示することで、燕を戦わずに降伏させました。

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手取川の戦いで関東管領の上杉謙信は柴田勝家を背水の陣に追い込み討ち破りしました

武士の正義を掲げる上杉謙信は、猛将柴田勝家に背水の陣を敷かせることに成功し、手取川の戦いで勝利したのです。

織田信長は七尾城の救援のために、柴田勝家を派兵したのですが、上杉謙信の侵攻が想像以上に速く、想定外の事態に陥りました。

柴田勝家はなんと、手取川を越えた後に、上杉謙信の七尾城攻略を聞き、無理に退却しようとしたのです。

そして手取川が雨で増水し、織田軍自慢の鉄砲も使えなくなり、柴田勝家は上杉謙信に大敗しました。

織田信長の宿将の柴田勝家(しばたかついえ)は、関東管領上杉謙信(うえすぎけんしん)の素早い行軍で、背水の陣を敷かされてしまい、手取川の戦いで大敗北を喫したのです。

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漢中の戦いで魏の五大将軍徐晃は王平の警告を聞かずに背水の陣を敷き蜀漢に敗北しました

魏の五大将軍の徐晃は、国士無双韓信のように背水の陣を敷きましたが、蜀漢の方が上手で敗れたのです。

韓信が陳余に圧勝したのは、陳余が正面突破を考えており、あまり策を重視していなかったから、なのではないでしょうか。

そして徐晃は、背水の陣での敗戦の責任を王平にも追及したため、王平は蜀漢に鞍替えしました。

また王平は、諸葛亮の北伐の街亭の戦いで、馬謖に登山の大問題を忠告しましたが、再び聞き入れられませんでしたが、諸葛亮から高評価され昇進したのです。

蜀漢の作戦の前に、魏の五大将軍の徐晃公明(じょこうこうめい)の背水の陣は失敗し、諫言したはずの王平子均(おうへいしきん)にも責任が波及し、王平は蜀漢に投降しました。

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国士無双韓信は背水の陣で陳余の大軍を食い止めている間に別部隊で趙の拠点を奪取しました

背水の陣だけで陳余に勝利することは難しい、と考えていた韓信は、別動隊に趙の拠点を確保させたのです。

井陘の戦いで陳余は大軍勢であれば、韓信の小軍勢を踏み潰せると計算し、城にあまり兵を残さずに出撃しました。

韓信は、陳余が前漢軍を軽んじていることを見通していたため、別の軍勢で趙城を奪い、陳余軍を狼狽させ挟撃したのです。

戦は人数だけでなく士気も重要であることを、韓信は見通していたのでしょう。

ちなみに韓信は大将軍として有能でしたが、軍師蒯通の天下三分の計を採用出来ず、天下が劉邦に帰服してから謀反し、最期を加えられたのです。

前漢の三傑の国士無双韓信は、陳余の大軍勢による侮りを逆手に取り、密かに趙の拠点を占領し、背水の陣で井陘の戦いの勝利を獲得しました。

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まとめ:背水の陣(はいすいのじん)を敷く意味と故事成語由来わかりやすくとことわざ使い方エピソード

故事成語の背水の陣を書き下し文ではなく、現代語訳で使い方と共に、わかりやすく解説してきました。あなたも危機に陥ったら、背水の陣を利用してみてください。

そして国士無双韓信が、背水の陣の勝利で傲慢にならずに、敗軍の将李左車を礼遇したことも説明してきました。韓信が国士無双と称される理由は、人材活用術にもあるのでしょう。

また魏の五大将軍徐晃が、背水の陣の失敗に、王平を巻き込んだことも述べてきました。王平は街亭の戦いの際と同様に、良い献策はしていたのです。

ことわざの背水の陣は、窮地を好機に変化させる兵法なので、起死回生や一発逆転したい際に、繰り出してみると良いでしょう。

⇒張耳と三国志!陳余能力、韓信背水の陣、章邯信陵君、項羽劉邦も解説

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