始皇帝と劉備!水銀陵墓死因、妻寵姫、子孫日本、本名えいせいも解説

秦の始皇帝の行列を見て、劉備の祖先の劉邦は、あのようになりたいと語りました。

始皇帝は、水銀を長寿に役立つと誤解していたのです。天下を統一した厳酷な始皇帝にも、分からないことがあったのでしょう。

そして、始皇帝の陵墓には、兵馬俑と水銀の防壁が存在しています。用心深い始皇帝らしい防御策は、現代人の侵入すら防いでいるのです。

また秦の寵姫と妻は、不思議な縁で始皇帝の母親、となったことも説明していきます。秦の始皇帝が、他国や他の王を圧倒していたのは、出生に秘密があるのかもしれません。

ちなみに、始皇帝の本名は嬴政で読み方は、えいせいです。

始皇帝と三國志を詳しく解説していきます!

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秦の始皇帝は天下統一後は不老不死を目指し水銀を飲んでいましたが死因も増やしたのです

始皇帝は、古代中国の世界を意のままに操っていただけでなく、生死も統御しようとしていました。

水銀は今でこそ毒であることが知られていますが、始皇帝の時代には薬になると信じられていたのです。

そもそも始皇帝の前の時代の王たちは、戦や富国強兵に明け暮れていたため、不老不死まで考えていなかったのではないでしょうか。

ですので、不老不死を思考出来るくらい始皇帝の統治は、上手くいっていたと言えるでしょう。

ちなみに、始皇帝を継いだ二世皇帝胡亥は、贅沢三昧で悪政を行い、20代で若死にしたと伝わっています。

秦の始皇帝は、現実的な法治で天下を掌握したわけですが、結局水銀で不老不死という夢物語で、最後を近付けてしまいました。

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前漢の三傑の張良は韓が滅亡させられた恨みを晴らすために始皇帝に死因をもたらそうとしました


始皇帝は、天下統一した権威を誇示するために、中華全土を行軍していたのですが、張良に狙われたのです。

張良は、祖国滅亡の報復に剛力の勇者を利用し、始皇帝目掛けて鉄球を投げさせました。

結局失敗し、張良は追われる身となりましたが、始皇帝も間もなく最後を迎えたのです。

そして張良は、太公望の兵法書を活用し劉備の祖先の劉邦に認められ、劉邦は西楚の覇王項羽に勝利し、前漢の初代皇帝に就任しました。

また、韓にいた韓非子は、一度始皇帝から重用されましたが、李斯に才覚を警戒され残念な末路となったのです。

秦の始皇帝は、天下統一のために韓を滅ぼしたため、遺臣の張良子房(ちょうりょうしぼう)に死因を与えられそうになりましたが、鉄球が外れたので生き永らえました。

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大量の水銀の川と天空の美しい絵柄と兵馬俑で守られた始皇帝の陵墓

秦の始皇帝は、死後も強大な力を誇示し、陵墓に誰も近付けない工夫を施しました。

水銀は、始皇帝が生前愛用していた不老長寿の薬ですが、毒性が高いことが判明し、陵墓の守り神へと変化しているのです。

そして始皇帝陵墓には、兵馬俑の大軍もおり、死後も始皇帝を守護し続けています。

また二世皇帝胡亥は、趙高の甘言に騙され、始皇帝陵墓の建造を無理に継続し、陳勝呉広の乱を招いたのです。

ちなみに、陳勝呉広の乱を制圧し、楚漢戦争で覇王項羽に勝利したのが、三国志の劉備の祖先の劉邦と言われています。

秦の始皇帝の陵墓には、美しい天空の模様と水銀の海川があり、兵馬俑の大軍も防御しているため、発掘が難航しているのです。

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荘襄王の妻は元は呂不韋の寵姫だったので始皇帝の本当の父は呂不韋とされています

始皇帝は、荘襄王の息子ですが、妻が呂不韋の寵姫だった際に、妊娠していた疑いがあるのです。

呂不韋は商売で成功し、荘襄王になる前の嬴異人と出会い、奇貨居くべしと感じました。

そして、当時の秦王に寵愛されていながら息子がいなかった、華陽夫人を上手く説得し、呂不韋は嬴異人を養子にすることに成功したのです。

また呂不韋は、始皇帝の父とも噂されるほどの権力を有していたので、始皇帝は呂不韋を危険視し蜀に流刑し、最期に追い詰めました。

秦の始皇帝は、荘襄王と妻の趙姫の息子として生まれましたが、呂不韋(りょふい)の寵姫でもあったため、始皇帝の父親は荘襄王でない可能性があります。

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高漸離は始皇帝を暗殺しようとした刺客荊軻と傍若無人な関係だったので巻き添えに遭いました


始皇帝は天下統一前に、戦国七雄の燕を滅ぼす寸前だったため、燕の太子丹は荊軻の秘策に賭けたのです。

荊軻は、始皇帝が探している樊於期と燕の豊かな領地を提供することを条件に、始皇帝に接近しました。

そして必勝のために荊軻は、有能な同行者の到来を待ち続けたのですが、太子丹が焦り出したため、秦舞陽をお供に出発したのです。

また、秦舞陽は荊軻からは信用されておらず、予測通り始皇帝を前に恐怖し、何も出来ないままに終わりました。

秦の始皇帝は、荊軻(けいか)の暗殺未遂を怒っており、友人の高漸離(こうぜんり)の目を無くさせ音楽の才能だけで仕えさせていましたが、結局高漸離も始皇帝に最後を送ろうとしたのです。

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日本の戦国時代に四国を統一した長宗我部元親は始皇帝の子孫と言われています

秦の始皇帝の末裔は、日本に訪れ秦氏や弓月君、と呼ばれていたのです。

そして、始皇帝の子孫とも伝わっている長宗我部元親は、織田信長から圧迫されていましたが、明智光秀の本能寺の変に助けられ、四国統一を成し遂げました。

しかし、豊臣秀吉の四国征討軍には対抗出来ず、軍門に下ったのです。

また、始皇帝の末裔の長宗我部元親は、戸次川の戦いで、息子で後継者の信親が戦死していまい、覇気を失っていきました。

ちなみに織田信長は、長宗我部元親を鳥無き島の蝙蝠、と低評価していたと伝わっています。

秦の始皇帝の子孫とされている長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、織田信長と対抗し四国統一を達成した偉人ですが、豊臣秀吉に負け没落していったのです。

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三国志の劉備は仁義と後漢朝廷復興を目指し軍師諸葛亮は始皇帝と同様に法治を重視したのです


始皇帝は、秦の商鞅の法治主義を踏襲し、戦国七雄を法律でまとめ上げました。

そして劉備は、仁義を大事にしていたため、若い軍師諸葛亮に三顧の礼を行い味方としたのです。

諸葛亮は、異民族の生贄の残酷さを、饅頭に代えさせるほどの仁義がありましたが、泣いて馬謖を斬るほどの法治主義者でもありました。

また諸葛亮は、始皇帝のように中華全土を統治出来なかったため、三国志の時代の統治には仁義が不可欠だった、と言えるかもしれません。

秦の始皇帝と諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)は、法治を重要視していましたが、三国志の劉備玄徳(りゅうびげんとく)は仁義を大切にし、諸葛亮や龐統や関羽や張飛らの異才を集めたのです。

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まとめ:秦の始皇帝(しこうてい)は水銀死因な陵墓と妻寵姫と日本子孫と三国志

始皇帝が、水銀が薬だと勘違いし、結局最期を迎えたことを解説してきました。まともに意見出来る部下が少なかったことも、水銀が死因の大きい理由ではないでしょうか。

そして前漢の三傑の張良が、始皇帝を憎んでいたことも説明してきました。力ずくで他国を制圧した始皇帝には、たくさんの刺客に狙われる要因があったのです。

また、暗殺者荊軻の傍若無人な友の高漸離が、始皇帝から粛清されたことも述べてきました。

高漸離は、音楽力が高かったので、荊軻と知り合わなければ、始皇帝から重用されて生涯を終えられたのではないでしょうか。

秦の始皇帝は、法治で天下統一し水銀で死因を創り出した人物なので、不思議な偉大性を醸し出しているのです。

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