三国志の乱世の奸雄曹操の息子曹彰は、霍去病と衛青に憧れていたのです。
衛青は、姉の衛子夫が優れた歌力を持っていたので、武帝の寵愛を獲得出来ました。ですが、皇帝の寵愛は誰もが欲するものなので、災難も来たのです。
そして、前漢の初代皇帝劉邦の頃から手こずっていた匈奴に、大勝利したのが衛青、と言われています。衛青はなぜ、匈奴に何度も勝つことが出来たのでしょうか。
また衛青には、有能な甥の霍去病がおり、匈奴戦でも大活躍しました。かなり謙虚な性格と伝わっている衛青ですが、甥はどのような性格で、どう思われていたのでしょうか。
ちなみに、衛青の読み方は、えいせいです。
衛青と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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姉の衛子夫が武帝に寵愛されたので匈奴戦の大将軍に就任した衛青
姉の衛子夫の歌が見事であり、武帝から評判が良かったため、衛青も一気に将軍まで大出世しました。
そもそも衛青は、匈奴の近くに住んでおり、匈奴の考え方や戦闘方法に精通していたのです。
しかし家庭環境が劣悪で、衛青は奴隷のように体罰を受けて育ちました。
また衛青は、素晴らしい人相だったので、将来大将軍になれることを予言されてもいたのです。
ちなみに、良い人相と言われた際に衛青は、奴隷のような扱いから抜け出せれば充分、と述べました。
元々性格上、欲の少ない人物だったのかもしれません。
大将軍衛青は、若い頃は奴隷のように過酷な待遇でしたが、姉の衛子夫(えいしふ)が前漢の武帝から寵愛され、衛青も栄達しました。
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公孫敖は衛青が衛子夫の武帝からの寵愛に嫉妬した陳皇后から襲われた際に助けたのです
衛青は、姉の衛子夫のおかげで、とんとん拍子に大将軍に就任出来ましたが、陳皇后の妨害もありました。
元々前漢の武帝の寵愛を受けていたのは、陳皇后だったのですが、なかなか男子に恵まれなかったのです。
陳皇后は、衛子夫に武帝の寵愛を奪われたと感じ、腹いせに衛青を軟禁しました。
そして公孫敖は、衛青と友人関係だったので、衛青を救い前漢朝廷で出世したのです。
ですが、衛青ほど優秀な武将ではなかった公孫敖は、何度も匈奴戦で失敗し、ギリギリ生き残り続けました。
大将軍衛青は、武帝の寵愛を得られた衛子夫の弟だったため、陳皇后から目の敵とされましたが、友達関係の公孫敖(こうそんごう)から助けてもらえたのです。
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前漢の高祖劉邦以来劣勢だった匈奴戦でどんどん勝利した大将軍衛青の能力
衛青は、白登山の戦いで前漢の初代皇帝劉邦が、冒頓単于に敗れて以来の快挙を成し遂げたのです。
劉邦陣営の韓王信は、冒頓単于が攻撃を仕掛けて来たため、匈奴を恐れて休戦しようとしました。
ですが、停戦交渉を劉邦から内通していると見なされたので、結局韓王信は匈奴に味方したのです。
裏切り者の韓王信を討伐するために劉邦は、冒頓単于と戦いましたが、戦力差が歴然で大敗北しました。
ちなみに劉邦は、皇帝になると保身に走り疑心が大きくなり、英布や韓信のような有能な将軍に最後を与えてしまっていたので、匈奴に大敗したと言えるでしょう。
大将軍衛青は、冒頓単于(ぼくとつぜんう)に高祖劉邦(りゅうほう)が敗戦して以来守勢だった匈奴戦で、何度も勝ち前漢の威信を取り戻したのです。
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前漢の武帝は衛青が匈奴戦に確実に勝てるように張騫を大月氏の元に派遣したのです
衛青は、匈奴を熟知した大将軍でしたが、武帝は必勝を期するために、張騫を大月氏の元に訪れさせました。
張騫は、残念ながら匈奴に捕まり、思惑がバレてしまい、かなり長い期間拘束されてしまったのです。
しかし、本来の目的を忘れていなかった張騫は、再度奮起し大月氏の元にたどり着きました。
そして大月氏は、かつて匈奴から屈辱的な対応を受けたのですが、逃亡した地で豊かな生活が出来ていたので、報復する気が失せていたのです。
それに前漢と大月氏は、そこまで親しい国ではなく距離も遠いので、大月氏側に同盟の利益が少なかったのでしょう。
大将軍衛青が匈奴戦を開始する前に、張騫(ちょうけん)が大月氏に同盟を求めましたが、大月氏の匈奴への怒りは薄れており失敗しました。
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霍去病は衛青と異なり驕慢な性格でしたが匈奴戦で大戦果を獲得していました
衛青には、甥の霍去病がおり横柄な性格で知られていたのですが、匈奴に大損害を与えるほどの偉大な大将軍でもあったのです。
霍去病は、奴隷のような扱いを受けておらず、叔父の威光もあり自然と大将軍になれた武将でした。
そして前漢の人々は、謙虚な衛青よりも、英雄な霍去病の方を称賛していたのです。
やはり、匈奴を討伐するような大将軍は、多少威張っている方が、民衆も頼もしく感じるのでしょう。
ちなみに、衛青よりも偉そうにしていたからか、霍去病は20代くらいで若死にしています。
大将軍霍去病(かくきょへい)は、衛青よりも強気な性格で傲慢でしたが、匈奴に連戦連勝し前漢に栄光をもたらしました。
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三国志の超世の傑曹操の息子曹彰は学問よりも霍去病や衛青のような大将軍を好んでいたのです
三国志の黄鬚な曹彰は、匈奴戦のエキスパートである衛青と霍去病を尊敬していました。
そして曹彰は、異民族戦で連戦連勝したため、鮮卑の軻比能が畏怖して降伏して来たのです。
霍去病は驕慢な性格と言われていましたが、曹彰は曹丕からの助言通り謙虚に戦果を報告したため、曹操から絶賛されました。
また曹彰は、曹丕との後継者争いを警戒され、文皇帝から疎んじられるようになり、失意の内に最後を迎えたのです。
乱世の奸雄曹操孟徳(そうそうもうとく)の子供の曹彰子文(そうしょうしぶん)は、匈奴戦に長けていた衛青と霍去病を敬っており、後に鮮卑の軻比能を降参させたため、文皇帝曹丕から危険視されました。
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秦の始皇帝の李信大将軍の子孫李広は衛青から不当な対応を受け最後を迎えたのです
衛青は、飛将軍李広が高齢だったので、安全性を考慮し後方に配置したのですが、裏目に出てしまいました。
李広の周りには、匈奴戦への道をしっかり知っている者が不足しており、行軍に遅れが発生してしまったのです。
そして李広は、飛将軍としてのプライドがあったため、自害して責任を取りました。
また李広の息子は、衛青に怒っており攻撃したので、霍去病が李広の子供に最期を与えたのです。
ちなみに、三国志の呂布は、李広クラスの武勇と見なされていたため、呂布も飛将軍と称されていました。
大将軍衛青は、李広(りこう)の健康面を配慮して後方支援を命じましたが、李広が道に迷い失敗し自害してしまい、息子は衛青に仕返ししましたが、霍去病に打ち取られたのです。
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まとめ:衛青仲卿(えいせいちゅうけい)の匈奴戦の能力と三国志世界史と霍去病何をした
衛青が、匈奴とどのように戦ったかを解説してきました。世界史上で一度圧倒的に勝ったとしても、前漢と匈奴のように、後々に覆ることも多いのでしょう。
そして張騫が、衛青が匈奴と優勢に戦うために、大月氏を訪ねたことも説明してきました。古代中国は未知の国が多いので、探検するのも楽しい仕事だったのでしょう。
また、乱世の奸雄曹操の子供の曹彰が、衛青になることを夢見ていたことも述べてきました。曹操の子孫の天下が長く続いたのは、曹彰のような優秀な息子が多かったからではないでしょうか。
衛青は、謙遜していたので派手ではない大将軍ですが、甥の霍去病と異なり実力派の真面目な武将、と言えるでしょう。