鮑叔牙!管鮑の交わり意味、人柄、管仲塩、公子糾楽毅、三国志も解説

鮑叔は、三国志の諸葛亮と比肩する、と言われることも多い管仲と、管鮑の交わり関係でした。

鮑叔は管仲と厚い友情で結ばれ、仕事や商売の失敗を、補填してあげていたのです。ですので、斉の桓公が管仲に助けてもらえたのは、鮑叔がいたからこそでしょう。

そして管仲は、斉の桓公と後継者争いをしていた公子糾に、元々は付いていました。しかし鮑叔は、管仲が大賢者だと知っていたので、斉の桓公に掛け合い、登用させたのです。

また三国志の諸葛亮も、鮑叔と同様に管仲を高く評価していた、と言われています。諸葛亮が三国志で天才軍師、と述べられているのは、管仲を見習ったからなのかもしれません。

ちなみに鮑叔は、鮑叔牙と呼ばれることも多いです。

鮑叔を詳しく解説していきます!

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春秋の五覇の桓公の名宰相管仲は鮑叔から商いや仕事で多大な援助を受け管鮑の交わりを行っていたのです

鮑叔は、管仲と深い友情で結ばれ、才能も評価していたので、ビジネスや業務で大きく保護してあげていました。

管仲が商売で上手くいかなくても、非難しなかったり鮑叔の儲けを渡したりしていたのです。

また、後には名宰相として名を馳せる管仲も、かつては何度も解任されたのですが、その際も鮑叔は見下しませんでした。

他にも、管仲が大事な戦で逃亡しても、鮑叔は、老いた親のために命を大事にしていることを理解していたのです。

そして鮑叔も、友情を大事にしたくなる管仲と出会えたことを、誇りに思っていたのではないでしょうか。

鮑叔は、管仲と管鮑の交わりと称され、商売や仕事や戦の件で、常に管仲を擁護し感謝されていました。

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三国志の諸葛亮と劉備も水魚の交わりと称され鮑叔と管仲の管鮑の交わりに似ていたのです


鮑叔は、管仲への多大な貢献と、桓公を管仲と共に春秋の五覇とさせた実績から、管鮑の交わりとして有名でしたが、劉備と諸葛亮の関係も忘れてはならないでしょう。

そもそも諸葛亮は、若い頃に自らを管仲に近い、と語っていました。

そして劉備は、長い流浪の日々から蜀漢の昭烈皇帝に就任しましたが、諸葛亮を三顧の礼で招いたからこその成果、ではないでしょうか。

ちなみに徐庶も、諸葛亮のことを管仲クラスの人物である、と考えていたのです。

鮑叔と管仲の管鮑の交わりのように、三国志の劉備玄徳(りゅうびげんとく)と諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)も、お互いに欠かせない水魚の交わりで、蜀漢を建国し後漢を再興しようとしました。

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公子糾の部下で斉の桓公に最後を与えかけた管仲を鮑叔は宰相におすすめしたのです

鮑叔は、管仲が奇才であることを知っていたので、斉の桓公を春秋の五覇とするために、管仲を大出世させました。

そもそも斉での後継者争いの際に、管仲は桓公の敵である公子糾に、加担していたのです。

しかも、管仲は公子糾のために、桓公の腹に矢を当てることに成功、したほどの武将でした。

ですので、桓公から処罰を受ける立場だったのですが、管鮑の交わりな鮑叔から弁護してもらい、斉の桓公の宰相となれたのです。

斉の桓公が覇者になれたのは、敵であっても有能な人物は採用する、度量の大きさがあったことも、要因でしょう。

鮑叔は、斉の桓公を春秋の五覇へと飛躍させるために、公子糾(こうしきゅう)に味方していた桓公の仇敵の管仲を宰相とすべき、と熱弁しました。

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管鮑の交わりは鮑叔が管仲の才覚を見通し補佐し続けた人柄と能力を意味しているのです

鮑叔は、斉の桓公が公子糾に勝利した際に、公子糾に付いていた管仲に、最期を与えることも可能でした。

しかし鮑叔は、かつて商売や仕事で管仲を助けたように、公子糾の件でも、管仲を救ったのです。

そして管仲は、斉の桓公を春秋の五覇とさせた名宰相ですが、鮑叔がいてこそ、管仲足り得たのではないでしょうか。

管仲自身、鮑叔の対応にかなり恩を感じており、父母に匹敵する恩人である、とまで語っているのです。

やはり、管仲が斉で名宰相となり得たのは、鮑叔と昔馴染みだったことが大きいでしょう。

鮑叔は、管鮑の交わりと評価されるほどに、管仲の才能を高く買っていただけでなく、管仲が何度失敗しても保護する人柄の良さも、持ち合わせていました。

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三国志の諸葛亮は鮑叔と管鮑の交わりだった管仲だけでなく楽毅にも匹敵していたのです


鮑叔は、昔から管仲の過失や問題を解消してあげていましたが、楽毅は燕の昭王に呼ばれ、斉に大勝利しました。

楽毅は、燕の昭王が郭隗の先ず隗より始めよで、招いた大将軍であり、昭王の仇敵斉を滅亡間際にまで追い込んだのです。

そして三国志の諸葛亮は、衰退しつつあった後漢を助けていた劉備を補佐し、後漢を乗っ取った魏と激しく争い北伐したため、燕の大将軍楽毅に似ていると言えるでしょう。

鮑叔が、管鮑の交わりと称賛されるほど、管仲を優遇し、斉の桓公を覇者としたように、燕の昭王も先ず隗より始めよで、郭隗(かくかい)を厚遇することで、斉に圧勝する大将軍の楽毅(がくき)を獲得しました。

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衣食足りて礼節を知るを実現するために鮑叔と管仲は塩で斉を興隆させたのです

鮑叔は、管鮑の交わりの管仲と共に、斉の塩を活かし、民衆に自然と礼を重んじさせました。

管仲は、倉に食べ物がたくさんあると、礼儀も考えられ、服装がきっちり整えられ食欲が満たされてこそ、栄光と恥を考える余裕が出て来る、と主張したのです。

そして管仲自身が鮑叔に、商売や仕事で助けてもらわなければならないほど困窮したからこそ、普段の生活の大事さを実感していたのでしょう。

ちなみに、管仲は大きい礼儀を知るためか、莫大な財力を有し豪華だったため、論語の聖人孔子が批判してはいます。

鮑叔は、管仲と一緒に、斉の塩のビジネスを活性化させることで、人々に衣食足りて礼節を知るを、浸透させていきました。

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春秋の五覇の桓公は鮑叔が推薦した管仲に最後が来ると悪臣をのさばらせてしまい斉を混乱させたのです


鮑叔は、桓公の敵の公子糾に付いた、管仲を斉の宰相に就任させることに成功しましたが、管仲が最期を迎えると斉は衰退しました。

管仲は生前、斉の桓公の周辺の奸臣に気付いており、易牙と豎刁と公子開方を非難していたのです。

しかし斉の桓公は、三人の悪臣を統制することに失敗し、斉は内乱に突入し、桓公の死体がしっかり埋葬もされないまま放置される事態に、なってしまいました。

そして、斉の三人の奸臣のせいで、桓公の後に晋の文公重耳が、春秋の五覇と称される流れが発生したのです。

鮑叔と管仲が管鮑の交わりで、斉を統治したことで、桓公は春秋の五覇になれましたが、豎刁(じゅちょう)と易牙(えきが)と公子開方への対処を誤り、斉を大混乱に陥りました。

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まとめ:鮑叔牙(ほうしゅくが)と管仲(かんちゅう)の管鮑の交わり(かんぽうのまじわり)の意味と三国志

鮑叔は、他の人よりも管仲を把握していたからこそ、斉を大勢力に導けたことを解説してきました。人の本質を見抜いた鮑叔なら、他の国でも活躍出来たのではないでしょうか。

そして、三国志の諸葛亮と劉備が、鮑叔の管鮑の交わりに比肩するほどの関係、だったことも説明してきました。

劉備が夷陵の戦いを行わなければ、劉備と諸葛亮で、関羽の失敗を帳消しに出来るほどの戦果を、後に得られたのではないでしょうか。

また、鮑叔と管仲が、衣食足りて礼節を知るを実現させるために、塩の商売を奨励したことも述べてきました。

斉が商業国として名を馳せていたのは、鮑叔と管仲の善政の賜、ではないでしょうか。

鮑叔は、管仲と管鮑の交わりを行っていたからこそ、斉の桓公を春秋の五覇にまで、押し上げられたのでしょう。

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