劉備と曹操は、三国志を代表する英雄でしょう。
劉備と曹操は、横暴な董卓を倒す集まりで知り合ったのです。劉備の部下には武神関羽がいたので、曹操は関羽にも興味津々でした。
そして劉備は、曹操から英雄と見なされたので、上手くはぐらかしたのです。普通は英雄と高評価だと嬉しいのですが、劉備はなぜなのでしょう。
また劉備は、曹操よりも長い間弱小でしたが、定軍山の戦いで勝ちました。この勝利は、いにしえの皇帝の再来と言えるのです。
他にも、劉備と曹操と似ている英雄として、孫権も説明していきます。孫権は劉備と曹操が亡くなった後も生きているので、もしかすると、孫権が一番天下に近かったのかもしれません。
三國志の劉備と曹操を詳しく解説していきます!
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目次
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反董卓連合軍で劉備と曹操は出会いました
三国志の劉備と曹操は、専横な董卓を討伐するために集まっていたのです。
董卓の部下の華雄が武勇に優れており、反董卓連合軍の勇猛な武将を倒し続けました。
そこで劉備は、義兄弟の武神関羽を出撃させ華雄を瞬殺したのです。
そして曹操は、劉備が有能な関羽を義兄弟としていることを羨ましがりました。
曹操は、関羽だけでなく他の有能な部下をたくさん確保しているので、実はそこまで関羽に執着していなかったのかもしれません。
また、劉備はある意味関羽がいてこそな存在であるため、当然関羽への寵愛も大きくなるでしょう。
関羽からすると、曹操よりも劉備の方が、自分を大事にしてくれると思ったのではないでしょうか。
劉備と曹操は、後漢朝廷を守るために、悪な董卓を倒そうとしたのです。
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劉備は曹操から英雄と高評価されたため真意を雷で隠しました
三国志の劉備は曹操に、天下で英雄と呼べるのは、君と余だと言われ、箸を落とし雷で誤魔化したのです。
曹操はその時点で大勢力で、劉備は大志を持っていても小さい存在でした。
そんな中で、曹操から重要視されているとなると、曹操が劉備の漢帝室再興の大志を積極的に妨害する可能性があったのです。
劉備が雷でビビるような武将だと、曹操が少しでも思ってくれると、将来安泰ということでしょう。
曹操は策謀に長けているので、劉備が雷で驚くと、逆にますます劉備が賢く強い人物と考えるかもしれません。
ちなみに、雷でセーフになったのか、結局その後劉備は、曹操の元から無事に飛び立つことが出来たのです。
劉備は曹操から英雄と思われると警戒されるので、雷のせいにしてかわしました。
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劉備と曹操はお酒を煮ながら天下の英雄を論じました
劉備は、曹操と共に三国志の世界の偉人を評価したのです。
劉備は、袁術を名門で勢いがあると述べました。ですが曹操は袁術をすでに墓の中にある骨であると言ったのです。
袁術の栄光は、過去のものということなのでしょうか。
そして劉備は、袁術の兄の袁紹こそ四世三公の名家で、英雄と発言しました。しかし曹操は袁紹の本質を見抜いており、決断力に乏しいと評したのです。
また劉備は、劉表は荊州を上手く統治していると言いましたが、またもや曹操は、劉表は有名無実と評価しました。
他にも劉璋や孫策や馬超たちも出て来ますが、曹操はことごとく酷評したのです。
劉備は、三國志の時代の英雄と呼べるものたちを紹介しましたが、曹操からすべて論破されてしまいました。
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とうとう劉備は飛躍し曹操軍を定軍山の戦いで破りました
三国志の劉備は、曹操に負け続け逃げ続けましたが、定軍山の戦いで大勝利したのです。
定軍山の戦いで、劉備軍の黄忠と軍師法正が、曹操軍の勇将夏侯淵を打ち取りました。
かつて400年ほど前、覇王項羽に負け続けた劉邦が、劉備と同じ地域を領有し勝利を得て、最終的に項羽に最後を与えたのです。
劉備は漢帝室の子孫を名乗っていたため、漢王劉邦を真似て、劉備は漢中王に就任しました。
そして荊州の関羽軍が魏で大勝し、魏もこれまでかと思ったら、劉備の同盟者であるはずの孫権が、荊州に攻め入ったのです。
孫権さえ抑えられていれば、劉備が曹操に最期をもたらしていたのではないでしょうか。
劉備は、定軍山の戦いで曹操の腹心夏侯淵に勝ったので、勢いに乗って漢中王に即位したのです。
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劉備と曹操と孫権は皆部下への人心掌握に長けていました
三国志の劉備と曹操と孫権は、偉人な君主だけあって、人材登用に優れていたのです。
- 飛将呂布を利用して乱世を平定したい曹操と裏切りを警戒した劉備
- 曹操は劉備の義兄弟の武神関羽を欲しがっていました
劉備には、臥龍の諸葛亮孔明と鳳雛の龐統がいましたし、曹操には荀彧と郭嘉が、孫権には張昭と周瑜がいました。
そして特に曹操は、敵の有能な武将を味方にする能力が高かったのです。元々張遼と賈詡は、曹操と敵対していた武将でした。
曹操の器の大きさは、皆が見習うべきところでしょう。
また劉備は、仁義を標榜していたので、部下に対する真心に優れており、諸葛亮を三顧の礼で招いたと言われています。
他にも孫権は、軍師周瑜から鬼才を評価し採用している、と述べられているのです。
劉備と曹操と孫権は、歴史に名を残す君主にふさわしいレベルの人材活用術を持っていました。
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飛将呂布を利用して乱世を平定したい曹操と裏切りを警戒した劉備
三国志の劉備は、曹操がいつもの人材収集家の癖で、敵の飛将呂布を登用しようとしたので、批判しました。
呂布は義父を二人も裏切った危険な人物で、劉備も裏切られたことがあったのです。
曹操がもしも呂布を許した場合、義父董卓たちのような悲惨な末路になりますよ、と劉備は警告しました。
呂布も負けじと、劉備こそが曹操の最大の敵になると主張したのです。
結局呂布の危険性の方が勝り、曹操から処刑されました。
そして劉備も後に曹操と戦うのですが、呂布のように直接武器で刺してくるような危険ではなかったのです。
曹操からすると、高名な劉備を処刑してしまうと、自らの天下も揺らぐからでしょう。
劉備は呂布の裏切りの危なさを示し、曹操に呂布に最後を与えさせたのです。
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曹操は劉備の義兄弟の武神関羽を欲しがっていました
三国志劉備の義理の弟関羽は、仁義を重んじ武力が高かったため、曹操も部下にしたかったのです。
乱世で劉備が行方不明になった際に、関羽はやむなく曹操に降伏しました。
曹操は関羽を獲得するために、いろいろな褒美を与え、呂布が所有していた天下の名馬赤兎馬もあげたのです。
しかし、関羽の心は劉備と共にあり、赤兎馬があればすぐに義理の兄劉備のところに行ける、と言いました。
ただ、曹操と袁紹の一大決戦の官渡の戦いで、関羽が袁紹配下の猛将顔良と文醜を撃破することで、曹操への恩には報いたのです。
恩義に厚い関羽だからこそ、曹操に魅力的に映った面もあるのでしょう。
曹操が関羽をどれほど厚遇しても、関羽は劉備に付き従う武将でした。
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まとめ:三国志の劉備(りゅうび)と曹操(そうそう)の関係!仲が良いようでいて悪い
三國志の劉備と曹操が、不思議な関係だったことを解説してきました。乱世では、味方のようでいて敵のような関係は、多いのでしょう。
劉備と曹操が、お酒を楽しみながら英雄を論評したことも、記載しました。劉備や曹操っぽくなりたい人は、真似してみると良いでしょう。
そして、曹操から劉備に流れが変化した定軍山の戦いも、説明しました。劉備がもっと上手い事やれていたら、中国再統一は劉備だったかもしれません。
また、劉備の部下の武神関羽と曹操の関係も述べました。関羽が劉備に付いただけでも、劉備の魅力が曹操に勝っているとも言えます。
劉備と曹操は、志が異なる英雄だったので、結局は戦う運命にあったのでしょう。