三国志で名門名家で、残念な終わり方をしたのが袁術でしょう。
袁術は名族であることを活用して、若い頃は遊びに囚われていました。スタートが良いと、そこで堕落してしまう典型だったのかもしれません。
そして、袁術と蜂蜜は、非常に深い関係があるのです。はちみつ好きな人や少しでも気になっている人も、見ておいてください。
また袁術は、孫策から玉璽を確保し、仲王朝を作り出し皇帝になりました。袁術は、有能な武将である孫策か玉璽を選べたのですが、どちらが本当は良いのでしょうか。
他にも、袁術配下の賢者や将軍も説明していきます。名門な袁術の部下は、家柄が良いだけの配下なのでしょうか。
三國志の袁術を詳しく解説していきます!
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目次
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名門に生まれたので好きに遊び惚けていた袁術と兄袁紹の関係
三国志の袁術は、若い頃は勉学や修養をせずに、遊びに夢中だったのです。
他の三国志の英雄だと、若い時から将来の事を考えているため、袁術は英雄になる要素がほぼないということでしょう。
そして袁術は、兄の袁紹に嫉妬しており、自分の方が血筋が良いと信じていました。
袁術は、四世三公の名家に生まれたことで、逆に不幸になってしまった典型かもしれません。
また袁術の兄の袁紹は、強大な勢力を保有し超世の傑曹操を押しつぶすほどでした。
袁術は曹操に簡単に敗れているので、兄袁紹の方が、やはり上と言えるでしょう。
もしも袁術と袁紹が、最初からしっかり同盟していたらとしたら・・・
袁術は、名門の自負心が強く兄の袁紹のことも妬んでおり、若い時は遊びに囚われていました。
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皇帝としての野望が失敗した袁術は夏を凌ぐ蜂蜜(はちみつ)すら無い最期でした
三国志の袁術は、熱さに苦しみ蜂蜜を食べようとしましたが、困窮し過ぎて蜂蜜も来なかったのです。
蜂蜜からは、袁術らしい贅沢な印象もあるでしょう。
そして袁術は、すでに蜂蜜すら得られない状況に絶望し怒り、大量の血を吐いて最後を迎えました。
また袁術は、最後が訪れる前に、兄の袁紹に味方することを決定したのです。
袁紹は曹操と戦っており、勢力の大きさとしては袁紹が優っていました。
ですが、袁紹は官渡の戦いで曹操に大敗北したのです。袁術は、人を見る目も無かったのでしょう。
袁術は、熱さ対策として蜂蜜を欲しがりましたが、追い詰められていたため、蜂蜜も得られなかったのです。
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小覇王孫策から玉璽を獲得した袁術
三国志の袁術は、孫策から玉璽をもらう代わりに、孫策を旅立たせました。
孫策は後に江東を瞬く間に掌握していくので、果たして袁術は、玉璽をゲットして得したと言えるのでしょうか。
ただ、孫策も江東を制圧しましたが、無理に武力で打ち負かしたため、かなり恨まれていました。
孫策は曹操の許都を攻撃しようか考えている最中、江東制圧の際の恨みが噴き出し、最後が訪れたのです。
袁術では孫策を使いこなせるとは言い難いので、袁術にとっては、玉璽という実利を得たことに意味があったのでしょう。
ちなみに、孫策の父孫堅が玉璽によって敵が増えたように、袁術も玉璽で諸侯からの攻撃が増加しました。
袁術は、小覇王孫策伯符の玉璽と交換に、孫策を江東に解き放ったのです。
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江東の虎孫堅と同盟関係にあった袁術
三国志の袁術は、小覇王孫策の父孫堅と連携していました。
袁術は兄の袁紹に対抗するために、白馬将軍公孫瓚や江東の虎孫堅と組んだのです。
やはり袁術は、四世三公の子孫で名門なため、皆が袁術と提携したがっていました。
そして袁紹は、荊州の八俊劉表と結んだため、袁術は孫堅を派遣して劉表を倒そうとしたのです。
孫堅は、劉表の部下の黄祖を撃破したのですが、劉表軍の策略の石で、落命してしまいました。
孫堅も、袁術の味方としてではなく、独立した勢力で動くか他の諸侯と連携していれば、あえない最後ではなかったかもしれません。
袁術は、兄袁紹との勢力争いに勝利するために、孫堅文台を味方としましたが、荊州の劉表軍の作戦で妨害されたのです。
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袁術の皇帝就任を諫めた軍師閻象と喜んだ曹操
三国志の袁術は、皇帝になろうとしましたが、軍師の閻象に批判されました。
- 劉備の弟武神関羽と互角の一騎打ちを展開した紀霊(きれい)は袁術の配下
- 袁術の息子と四天王と徳な配下
袁術は名門を鼻にかけて自分勝手ですが、配下には閻象のようなまともな人物もいたのです。
袁術が残念な能力と性格でありながら生存していたのは、閻象のような軍師がいたからでしょう。
しばらくは皇帝に即位することを控えていた袁術でしたが、結局仲王朝を建国しました。
このことで、後漢皇帝を保有していた曹操との敵対が深まり、討伐されたのです。
袁術は四世三公の名門の末裔ですが、後漢皇帝の正統な権威の方が、上だったのでしょう。
袁術は、配下軍師の閻象(えんしょう)から非難されたにも関わらず、仲王朝を建国し皇帝となりました。
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劉備の弟武神関羽と互角の一騎打ちを展開した紀霊(きれい)は袁術の配下
三国志の袁術の配下には、劉備の義兄弟で勇猛な関羽と一騎打ちが出来る紀霊もいました。
袁術は、呂布と劉備がいざこざを起こし揉めているので、付け込んで領土を奪おうとしたのです。
そして呂布は、劉備がやられてしまうと不利になると考え、紀霊に対し、自分があの遠くの戟に弓矢を当てたら退却するように主張しました。
紀霊は、まさか当てられるわけがないと思い、合意したのですが、なんと呂布は当てたのです。
袁術配下の将軍紀霊は、仕方なく撤退し、袁術は領土拡大の機会を失いました。
運も実力のうちと言いますが、袁術には実力が無かったのでしょうか。
袁術の配下には、関羽と同等くらいの強さの紀霊もいたのです。
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袁術の息子と四天王と徳な配下
三国志の袁術には、子供の袁燿、四天王の李豊と楽就、徳な部下の袁渙がいたのです。
袁燿は、袁術が亡くなったことで衰退したのですが、姉妹が孫権から認められたので、再び復活しました。
そして、袁術にも四天王と呼べる武将たちが存在していましたが、曹操に敗れたのです。
曹操は三國志の世界でも強い部類に入るため、袁術四天王が弱いとは言い切れないかもしれません。
また、袁術の配下には、呂布に徳の重要性を示した袁渙もいたのです。
ある時呂布が袁渙に、仁義な劉備を貶める文を書かせようとしたところ、有徳の人物を貶めれば呂布自信を下げてしまうと述べました。
袁術には、配下の袁渙(えんかん)、息子の袁燿(えんよう)、四天王の楽就と李豊もいたわけです。
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まとめ:三国志の袁術公路(えんじゅつこうろ)の能力と配下と勢力
三國志の袁術は、四世三公の名門ですが、能力はあまり高くありませんでした。袁術がそのへんの家で誕生していたら、名前がまったく残っていない可能性もあるでしょう。
袁術が、はちみつすら味わえない状況にまで没落したことも、説明しました。後世では蜂蜜が袁術の代名詞になっているのは、因果なものでしょう。
そして袁術は、孫策や孫堅とも深いつながりがあったことも解説しました。孫策が江東の小覇王と呼ばれるまでになったのは、袁術がいたからこそでは?
また袁術には、軍師閻象もいたことも述べました。袁術が名門だったから、閻象もいたのでしょうか。
袁術は、名門ゆえに勢力を誇り、名家ゆえに滅亡しました、理由を考えながら知ると良いでしょう。