三顧の礼!三国志孔明由来、意味現代語訳、史実使い方わかりやすく

三顧の礼は、三国志の蜀漢の昭烈皇帝劉備が、諸葛亮を三度も訪れて軍師に招いたことが由来です。

諸葛亮は、三顧の礼で劉備に登用され、天下三分の計で後漢を復活させる策を語りました。劉備が後世に残るほどの偉人になれたのも、孔明の天下三分の計があったからこそでしょう。

そして、劉備の死後の出師の表でも、諸葛亮は三顧の礼の厚恩を明示したのです。劉備が何度も孔明を訪れたことはやはり、諸葛亮にとっても、重要な意味があったのでしょう。

また日本史の豊臣秀吉も、奇才竹中半兵衛を三顧の礼で招いたのです。竹中半兵衛は今孔明と称される武将なので、諸葛亮と似ているエピソードも、多いのでしょう。

ちなみに、ことわざの三顧の礼の読み方は、さんこのれいです。

故事成語の三顧の礼の意味や由来や史実での使い方を、わかりやすく現代語訳で解説していきます!

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諸葛亮は劉備から三顧の礼を受け天下三分の計を提示し荊州と益州を確保することを進言したのです

劉備は諸葛亮に三顧の礼を行い、益州と荊州を獲得し勢力を拡大する、天下三分の計を献策されました。

そもそも、曹操は官渡の戦いで袁紹に勝ち、北方を独占しているので、劉備が挑むには強大過ぎたのです。

しかし、東方には孫権がおり、兄の江東の小覇王孫策以来、勢力を誇っているため、劉備が益州と荊州を確保し、孫権と連携すれば曹操にも勝てる、と諸葛亮は述べました。

故事成語の三顧の礼で諸葛亮を厚遇した、三国志の劉備玄徳(りゅうびげんとく)は、荊州と益州を勢力下に収め、孫権仲謀(そんけんちゅうぼう)と同盟し曹操孟徳(そうそうもうとく)に勝利する作戦である天下三分の計を教わったのです。

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徐庶は曹仁の八門金鎖の陣に勝つだけでなく劉備に諸葛亮の有能さを示したため玄徳は孔明を三顧の礼で招きました

劉備は、軍師徐庶のおかげで曹仁を退けることに成功し、後の飛躍のきっかけとなる諸葛亮の情報も、提供してもらったのです。

ですが諸葛亮は、徐庶が連れて来られる程度の人材ではなかったため、劉備は三顧の礼を行いました。

そして徐庶は曹仁に勝利し、曹操に能力の高さを知られてしまい、程昱が徐庶の母親を利用したので、曹操陣営に付くことになったのです。

故事成語の三顧の礼で、三国志の劉備が諸葛亮を採用出来たのは、徐庶元直(じょしょげんちょく)がいたおかげですが、徐庶は曹仁子孝(そうじんしこう)の八門金鎖の陣を撃破するほどの人物だったため、程昱仲徳(ていいくちゅうとく)の策で曹操に鞍替えさせられました。

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ことわざの三顧の礼で劉備から招かれた諸葛亮は臥龍と称され鳳雛と評価された龐統と共に天下を得られる人材だと司馬徽から絶賛されていました


劉備は仁義で後漢再興を目指していたため、司馬徽が天下を掌握出来る人物と述べていた、伏竜諸葛亮を三顧の礼で得られたのです。

そして諸葛亮は、際立った才能を有していたので、自分にふさわしい君主を探しており、劉備が大志を抱いていたからこそ、孔明を登用出来ました。

また、水鏡司馬徽が称賛していた武将には龐統もおり、鳳雛と呼ばれ、臥龍と共に天下をもたらす逸材、と評価されていたのです。

故事成語の三顧の礼で、劉備は諸葛亮を採用することに成功し、司馬徽徳操(しばきとくそう)から鳳雛と称されていた龐統士元(ほうとうしげん)をも登用したため、劉備は天下獲得に一気に近付きました。

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諸葛亮は出師の表で北伐への決死の覚悟を語り三顧の礼で厚遇してくれた劉備への恩も述べました

劉備が、三顧の礼で諸葛亮を採用していたので、劉備の死後も孔明は大恩を感じていたのです。

そして出師の表は、劉備の息子阿斗劉禅に諸葛亮が渡したもので、忠誠心にあふれる泣ける名文である、と伝わっています。

しかし諸葛亮は北伐で人選に失敗し、街亭の戦いで馬謖が大敗北を喫しましたが、兵法三十六計の空城の計で司馬懿を撤退させ、事無きを得ました。

ちなみに、諸葛亮は馬謖の大失敗を見逃さず、泣いて馬謖を斬ることで厳罰を加え、北伐への固い決意を新たにしたのです。

故事成語の三顧の礼で、三国志の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)は劉備から礼遇されたため、出師の表でも玄徳への謝意を示し、北伐を繰り返しました。

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劉備に三顧の礼で登用された諸葛亮が尊敬していた楽毅は燕の昭王から先ず隗より始めよで招かれました


諸葛亮は、劉備から三顧の礼の礼遇で採用され、孔明が敬意を抱いていた楽毅は、郭隗の先ず隗より始めよで燕に仕えたのです。

そもそも燕は、政治の乱れを斉に利用され、滅ぼされてしまい、昭王は荒廃した燕で即位しました。

そして、燕の昭王は斉を断罪するために、郭隗に策を問うたところ、先ず隗より始めよと言われたのです。

まずは郭隗を厚遇した昭王の元に、劇辛や楽毅たちが集まり、楽毅は昭王の宿敵斉を滅亡寸前にまで追い詰めました。

故事成語の三顧の礼で、劉備は三国志の諸葛亮を獲得し、燕の昭王は孔明も尊敬していた楽毅(がくき)を、先ず隗より始めよで採用し、斉への雪辱に成功したのです。

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日本史の豊臣秀吉は美濃斎藤氏の家臣の中でも有能な竹中半兵衛に三国志の故事成語の三顧の礼を行ったのです

美濃攻略に成功した織田信長の部下の豊臣秀吉は、後に黒田官兵衛と共に評価される、竹中半兵衛を三顧の礼で登用しました。

そして竹中半兵衛は、三国志の諸葛亮クラスの軍師だったため、今孔明の異名でも知られているのです。

また、竹中半兵衛と並び称された黒田官兵衛は、江戸幕府第二代将軍の徳川秀忠から、前漢の三傑の張良レベルの才能を持っている、と言われていました。

ちなみに、黒田官兵衛と竹中半兵衛を合わせて、両兵衛と呼ぶこともあります。

三国志の故事成語の三顧の礼で、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は今孔明な竹中半兵衛(たけなかはんべい)を家臣とし、竹中半兵衛と並び評された黒田官兵衛(くろだかんべい)は、今張良と称賛されていたのです。

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ことわざの三顧の礼は目上の劉備が目下の諸葛亮を礼遇したことを意味するので格下の者が三顧の礼の例文を使うと誤用になるのではないでしょうか


三顧の礼は、諸葛亮よりも格上の劉備が、何度も孔明の元を訪れ厚遇したことが由来なため、目下の人は故事成語の三顧の礼を使えないでしょう。

ですが、ことわざの三顧の礼は、人を礼遇する意味で利用されていることが多いので、目下から目上に使用しても、誤用になることは少ないのではないでしょうか。

また、諸葛亮と劉備のことわざには、水魚の交わりもあり、玄徳と桃園の誓いで結ばれた張飛と関羽が非難するほどであった、劉備と諸葛亮の相性の良さを意味しているのです。

故事成語の三顧の礼は、年齢や立場が上の三国志の劉備が、目下の諸葛亮を丁重に迎えたことが由来なので、目下の者が三顧の礼を使うと、誤用の意味になる可能性はあるでしょう。

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まとめ:三顧の礼(さんこのれい)の史実使い方と由来わかりやすく現代語訳と故事成語の意味誤用と三国志孔明のことわざ

ことわざの三顧の礼が、三国志でどのように使われていたかを、わかりやすく現代語訳で解説してきました。あなたも三顧の礼を活用すると、孔明のような鬼才を呼べるかもしれません。

そして、劉備の軍師に諸葛亮が適切であることを、徐庶が献策したことも説明してきました。徐庶が劉備の参謀を続けていた場合、三顧の礼や諸葛亮の活躍が、誕生しなかった可能性もあるでしょう。

また、劉備に三顧の礼で重用された、諸葛亮も憧れた楽毅が、先ず隗より始めよで燕に味方したことも、述べてきました。

人の招聘方法を工夫することで、蜀漢や燕のように乱れている国を、復興することが出来るのでしょう。

三顧の礼は、劉備の仁義と諸葛亮の能力の高さが同時に伝わって来る、三国志にふさわしい故事成語ではないでしょうか。

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