勉強家から身を立てて名を残した三国志の人物と言えば、李典でしょう。
李典は、何が死因になってしまったかも解説します。読書で克服する道もあったのでしょうか。
そして、曹操の人物眼の凄さも説明していきます。曹操は自らの能力が高いだけでなく、見抜くパワーもあったのです。
また、楽進や于禁などの魏の将軍も同時に記載します。魏には名将揃いですが、于禁の末路は・・・
楽進は最終的には将軍ですが、最初は別の仕事に就いていたのです。あの仕事だったとは!
他にも、あの伝説的にかっこいい将軍な張遼も書きます。李典と張遼には、深いわだかまりが・・・
三國志の読書家李典曼成を詳しく解説していきます!
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読書好きで曹操に評価された李典!
李典は、あの有名な春秋左氏伝などを愛読していたことで、曹操から認められ出世していきました。
春秋左氏伝とは、春秋と言う歴史的な名著を左氏が解釈して、伝えてきたという意味です。
春秋は、あの伝説的な聖人孔子の作品とされています。
孔子を論語でしか知らない人も、春秋左氏伝は要チェックでしょう。
また、武神な関羽雲長も、春秋左氏伝を暗記していたと言われているのです。
暗記するくらい読み込んでこそ、歴史上の人物のような結果が残せるのでしょうか。
歴史上の偉人に憧れている人は、春秋左氏伝を一度は読むべきでしょう。
曹操は、李典が読書を頑張っていたので、評価して重要な業務を任せたのです。
⇒曹操別れ見逃す関羽!称号、贈り物、赤兎馬、孫権、張遼、劉備も解説
三国志の李典の死因は明確ではありません
李典は、残念ながら35歳くらいで亡くなってしまいました。
三国志の世界でも、50歳以上くらいまで生きている人もたくさんいるので、もっと生きていれば・・・というのはあるでしょう。
そして、曹操の部下には、曹操の理解者として知られる郭嘉奉孝(かくかほうこう)がいました。
郭嘉も、35歳くらいで死去しているのです。郭嘉が生きていれば、曹操の赤壁の大敗北は無かったとまで言われています。
また、劉備玄徳の部下の鳳雛と呼ばれ諸葛亮と比肩する知略があると言われた龐統士元(ほうとうしげん)も、35歳くらいで亡くなりました。
もしかしたら、35歳くらいというのが、人間の何かの節目なのかもしれません。
三國志の李典は、ハッキリしない死因で死去しました。
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険悪な李典と張遼のタッグが合肥で奇跡を起こす!
かつては敵同士であった李典と張遼が、同僚として呉の孫権の大軍を追い返しました。
- 魏軍の実力者楽進文謙(がくしんぶんけん)
- 最後の行いで全てが終わってしまった于禁
昔、李典の親族が張遼が呂布軍にいた際に、呂布軍に打ち取られているのです。
禍根のある李典と張遼ですが、呉の軍勢の前に団結を余儀なくされました。
曹操は人物眼に長けているので、李典と張遼の仲が良くないことを知らないわけがないと思います。
にも関わらず、あえて同じ場所に配置したというのは・・・
昔の恨みを乗り越えさせて実力を発揮させる、曹操の策略だったのではないでしょうか。
どのような人材の要素も、曹操の前では駒の一つに過ぎないのでしょう。
三国志の李典は、孫権という強敵の前に、仲が良くない張遼と組まざるを得なくなり、見事呉軍を追い払ったのです。
⇒三国志張遼かっこいい!最強、合肥の戦い孫権、名言逸話、関羽も解説
魏軍の実力者楽進文謙(がくしんぶんけん)
三国志の楽進は、魏の5人の大将軍の一人で、大将軍とされているにも関わらず、どういう業績で活躍したかがハッキリしません。
そもそも、楽進は将軍になれる流れではなく、単なる雑務をさせられていました。
ですが、楽進が兵を集めると、かなり人数が多かったのです。これは将軍な器と判断した曹操は、武将の役割に変更しました。
その後も順調に戦果を上げていき、楽進は魏を代表する将軍へと成長したのです。
また、今自分の望む業務に就けていない人も、いつか訪れるチャンスのために実力を磨いておくと、良い仕事がめぐって来るかもしれません。
楽進は、元は記録の仕事をしていましたが、才能を見せたことで、曹操から評価され武将として出世していったのです。
⇒三国志かくか!郭嘉名言、死因、諸葛亮、司馬懿、荀彧、曹操も解説
最後の行いで全てが終わってしまった于禁
三国志の于禁は、将軍として厳格で功績も著しい武将でしたが、命惜しさに関羽に降伏し、蔑まれました。
于禁は、天下の曹操からも、高評価で非の打ち所がないほどの将軍でした。
関羽が魏国に攻め寄せた際、于禁は防御の軍を命じられたのですが、関羽が水を巧みに利用することで、于禁軍に大勝利してしまったのです。
于禁軍の龐徳(ほうとく)は、関羽軍に最後まで抵抗し打ち取られたのですが、于禁はなんと降伏していまいました。
曹操もあまりにも驚き、于禁がこのような人物だったとは・・・と嘆いたのです。
ちなみに、于禁の降伏を曹操の周りの側近たちは、やむを得ないものだったとフォローしてはいます。
于禁は、法律で人々を統率し厳格さで知られていましたが、自分の身可愛さに関羽に降伏し、見下されました。
⇒関羽最後!雲長首、言葉、像、強さ身長、娘妻、張飛死因、曹操も解説
李典曼成(りてんまんせい)三国志の他の話
三国志の李典の他の重要な話もしていきます。
- 人材収集家曹操孟徳の真骨頂
- 魏の有名な武将の楽進と李典と于禁
李典の主君である超世の傑曹操も、忘れてはならないでしょう。
曹操の人を見る目が確かだったからこそ、李典や楽進が能力を発揮し、歴史書に業績が残っていると言えるためです。
本当に曹操は才能にあふれており、歴史上でもなかなか匹敵する人材はいないでしょう。
また、楽進と李典と于禁を同時に論じます。3人の違いを知っておくと、区別もしやすいでしょう。
特に于禁は特殊な存在です。なぜこのような末路になってしまったのか・・・
世の中では途中まで良い感じの人がいますが、于禁もまたそれと同じような人物だったのでしょうか。
李典曼成で、他に把握しておくべき内容もお知らせします。
⇒曹操のすごさ!どんな人?性格、魅力、曹丕、劉備、名言、死因も解説
人材収集家曹操孟徳の真骨頂
学問好きの李典の今後を見越して統治の業務を与え、楽進の用兵を評価して記録業務から武将に取り立てたのが、曹操です。
曹操がいたからこそ、皆が適材適所で自らの才能を発揮出来たと言えるでしょう。
曹操は定軍山の戦いで、配下の猛将夏侯淵を失いますが、敵の軍師法正の見事な作戦に感嘆したのです。
確かに曹操は、夏侯淵の死を嘆きかなり怒ったのですが、同時に人材収集家の血が騒いだのでしょう。
また、曹操は敵将からも、実力者がいれば取り立てて成果を出させたのです。
魏の将軍の張遼は、元々は曹操と対立する人物でした。
ただ、曹操の人材登用が失敗することもあります。武神な関羽に、称号や名馬を与えてかなり優遇したにも関わらず、関羽は曹操の元を去っていってしまったのです。
三国志の曹操は、李典と楽進の才能を見出し、活躍の場を与えました。
⇒法正三国志!ほうせいすごい能力、性格、定軍山の戦い、私刑も解説
魏の有名な武将の楽進と李典と于禁
三国志の楽進は、生粋の将軍で、李典は文官で、于禁は将軍と文官の間のような立ち位置です。
張遼というかっこいい将軍が魏にはいますが、楽進と李典と張遼はあまり仲が良くなかったとされています。
3人共同じくらいの立場であるため、主観が表に出易い間柄だったのでしょう。
そして、于禁は魏の有名な他の将軍たちと異なり、法律をかなり重視した業務を行っていました。
ですので、于禁には威厳が伴い畏怖されてもいたのです。
蜀漢軍の関羽も自尊心の高さで有名だったため、于禁の降伏を見ると、さすがの于禁の威厳も、関羽には通用しなかったのでしょうか。
楽進と李典と于禁は同じ魏軍ですが、異なる才覚で結果を残しました。
⇒三国志じゅんいく!荀彧の推挙能力、荀攸、郭嘉、司馬懿、劉備も解説
まとめ:学問に打ち込んで出世した李典、三国志
三国志の物知りと言える李典を解説してきました。あなたも春秋左氏伝を読んでみたくなりました?
李典のような有能な偉人が若くして亡くなると、もしもを考えてみたくなるでしょう。
長生きしていたら、あの事件や戦はどうなったのでしょうか。
そして、仲が悪いはずの李典と張遼が協力する事で、合肥の戦いで歴史的な逆転劇が起きたことも記載しました。
どのような要素も、結果的にどう結び付くか分からない面が、人間関係にはあるのでしょう。
また、楽進や于禁などの李典の同僚武将も説明してきました。
楽進はあまり業績が記録されておらず、于禁は最後が残念だったのです。
学問や勉強をしっかり行った上で上手くいきたい人は、三国志の李典の生き方を参考にしてみてください!