三国志で諸葛亮から評価されながらも、性格の問題で不幸を招いた人物が、楊儀でしょう。
楊儀は、事務で有能でしたが自尊心の高い性格だったのです。蜀漢の劉備は謙虚であることで、偉人を招きましたが、楊儀はどうなってしまうのでしょうか。
そして楊儀は、勇猛な魏延とも衝突しました。魏延も尊大なので、危うく斬られそうになったこともあるのです。
また楊儀は、自分こそが諸葛亮の立場を獲得出来ると思っていました。しかし諸葛亮は、楊儀の本質を見抜いており、対策を行っていたのです。
他にも、楊儀と似ている李厳も記載していきます。楊儀は残念な終わり方をしたので、李厳も同様なのでしょうか。
三國志の楊儀を詳しく解説していきます!
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目次
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楊儀は能力は高いが尊大さが目立つ性格
三国志の楊儀は、有能な事務員として諸葛亮からも高評価でしたが、自慢気な態度を行うので、人間関係に難ありでした。
たとえ能力が優れていても、人格的な修養が無ければ、台無しとなるのでしょう。
そして劉巴は、劉備から高評価だったのですが、その劉巴と楊儀はいさかいを起こしたのです。
この時から楊儀は、人と戦う癖を持っていたのでしょう。
ちなみに劉巴も、張飛がただの兵の統率者に過ぎないとして、無視してもいます。
類は友を呼ぶとありますので、楊儀には、性格に問題のある人物が集まりやすいのでしょう。
楊儀は、事務能力の高さにより、諸葛亮からも支持されていましたが、劉巴と争うなどの人間関係の問題も抱えていました。
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楊儀を擁護することで十人十色の故事成語を作り出した蒋琬(しょうえん)
三国志の楊儀は、蒋琬との議論で流暢に話せなかった際に、他の者に批判されましたが、蒋琬は人それぞれ良い部分があると語りました。
蒋琬が、楊儀を差し置いて諸葛亮の後継者になったのは、この辺の人柄の良さがあるのでしょう。
普段から自らの器の大きさをアピールしておけば、大出世もあり得るのでは?
そして、蒋琬のことを諸葛亮より劣っている、と非難する者がいました。
蒋琬は、その者を怒って処罰するのではなく、事実であるためそのまま放置したのです。
ちなみに、蒋琬を非難していた者は、後に別の事柄で処罰されてしまいました。
諸葛亮の後継者蒋琬公琰(しょうえんこうえん)は、楊儀の対応を十人十色として、むしろ評価したのです。
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楊儀はとうとう張飛クラスの武勇の魏延とも対立したのです
三国志の楊儀は、蜀漢の評議で魏延と戦うこともあり、犬猿の仲でした。
- 天才軍師諸葛亮も悩んでいた楊儀と魏延の関係
- 天水の麒麟児姜維は魏延に最後をあげる際に楊儀を助けたのです
魏延は、劉備の義兄弟張飛に、匹敵するほどの武勇を誇っていたため、楊儀は魏延を恐れている面もあったのです。
魏延は、その場その場で楊儀を脅かしていましたが、楊儀から深く憎まれてしまいました。
力が強いからという理由で威張っていると、他の策略で敗れることもあるのでしょう。
そして魏延は、諸葛亮から、反骨の相があるとして、批判されてもいたのです。
劉備は、関羽や張飛のような武勇に秀でた猛将を気に入っているので、魏延の事も高評価でした。
楊儀は、五虎大将軍の張飛並の武勇である魏延文長(ぎえんぶんちょう)とも、敵対していたのです。
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天才軍師諸葛亮も悩んでいた楊儀と魏延の関係
三国志の楊儀は、同じく誇り高い魏延と対立し、諸葛亮をわずらわせていました。
楊儀があまり出世出来なかったのは、魏延と感情で対立するような、器の小ささがあったからでしょう。
そして諸葛亮は、楊儀の我が強い性格を危惧し、自らの後継者を蒋琬としていたのです。
楊儀は、自分のその場の感情を優先したせいで、諸葛亮の後釜も失ってしまいました。
また魏延も、武勇を頼みとして諸葛亮を批判していたため、諸葛亮が亡くなった後に、馬岱に最後を与えられたのです。
諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)は、楊儀と魏延の能力を高評価していましたが、どちらも性格に問題があるため、警戒していました。
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天水の麒麟児姜維は魏延に最後をあげる際に楊儀を助けたのです
三国志の楊儀は、姜維の指示と助けで、政敵魏延への恨みを晴らせました。
魏延は、秀でた軍事的な才能で、諸葛亮の後継者を担おうとしていたのですが、他の蜀漢武将は反発していたのです。
そして、諸葛亮は自らが亡くなった際、魏延が抵抗しても、蜀漢軍を退却させることを楊儀たちに指示していました。
魏延も、楊儀たちを退却させないようにするために、道を塞いだのですが、天水の麒麟児姜維から別道を聞いていたので、楊儀は安全に蜀漢に戻れたのです。
また、天水の麒麟児姜維は、北伐を何度も行いながらもあまり成果を上げられなかったため、魏延を生かすべきだったかもしれません。
楊儀は、天水の麒麟児姜維伯約(きょういはくやく)のおかげで、長年の敵である魏延に勝利出来たのです。
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費禕(ひい)に本音を話したために劉禅から嫌われ最後を迎えた楊儀
三国志の楊儀は、諸葛亮亡き後、蜀漢を指導するつもりが、蒋琬に立場を奪われたので、費禕に不満を述べました。
費禕は、楊儀の大きな不満を危険視し、君主劉禅にありのままを伝えたのです。
楊儀の不満には、劉禅からも尊敬されていた諸葛亮への批判や、敵国魏への内通願望も含まれていました。
楊儀は結局は、自らの自尊心を満足させるために、諸葛亮や蜀漢に仕えていたに過ぎないのでしょう。
失敗した時に人のせいにする人は、危ないですが、自らのやり方を改められる人は、出世するのではないでしょうか。
楊儀は、費禕文偉(ひいぶんい)が自分のために話を聞いてくれていると思っていたら、劉禅公嗣(りゅうぜんこうし)に告発されたので、心理的に追い詰められ最期が来ました。
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楊儀と同じように諸葛亮のせいにした李厳(りげん)
三国志の楊儀は、自らが出世出来なかった理由を諸葛亮の責任と述べましたが、李厳は蜀漢軍撤退を諸葛亮に責任転嫁しました。
諸葛亮が北伐を行い、魏の名将張郃も倒すことに成功していたのですが、李厳は兵糧輸送に失敗したのです。
諸葛亮の北伐は、優勢に進むことがあっても、かつての馬謖の街亭の戦いのように、蜀漢軍内に問題が発生する事が多いと言えます。
そもそも諸葛亮は、李厳が問題のある人物であることを承知していましたが、能力の高さを利用したかったのです。
ちなみに、馬謖の事も諸葛亮は厳罰に処し、泣いて馬謖を斬り、法を明らかとしました。
楊儀と李厳正方(りげんせいほう)は、自分の問題を諸葛亮の責任にしようとしましたが、返り討ちに遭ったのです。
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まとめ:三国志の楊儀威公(ようぎいこう)の十人十色な能力
三國志の楊儀が、十人十色な性格と能力により、蜀漢で活躍したことを解説してきました。
蜀漢は人材難が発生していたので、いろいろな者に、活躍の場が提供されていたのでしょう。
そして楊儀は、魏延とバトルすることで、諸葛亮を憂鬱にさせていたことも説明してきました。
諸葛亮を安心させられる器量が楊儀にあれば、楊儀が魏延を従わせることもあり得たでしょう。
また楊儀が、思い通りに出世出来なかったので、今度は諸葛亮を批判し出したことも記載しました。
結局楊儀は、誰かを非難するのが好きな人物、に過ぎなかったのでしょうか・・・
楊儀は、能力は優れていながらも性格に問題を抱えていたため、チャンスを逃しました、教訓にすべきでしょう。