悼襄王は、龐煖と李牧を重用し、趙の再起を図ろうとしたのです。
李牧は悼襄王からも、礼遇されていましたが、有能でないと見なされていた時期もあります。後に名将と言われる武将も、若い頃は、誤解されることも多いのでしょう。
そして悼襄王は、一旦は廉頗を冷遇したのですが、やはり廉頗の力が必要になったのです。ですが、趙には悪臣の郭開がおり、簡単には廉頗を再登用出来ない状況でした。
また龐煖は、悼襄王だけでなく、胡服騎射の武霊王からも評判だったのです。劇辛は、龐煖を軽んじていながら死亡させられましたが、龐煖はそれまで、力を温存していただけだったのではないでしょうか。
悼襄王を詳しく解説していきます!
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目次
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燕攻略に成功し悼襄王に厚遇されていた李牧は匈奴への対応で弱気だと思われたこともあります
悼襄王は、李牧に燕攻めを指示し上手くいきましたが、かつて李牧は匈奴対策で解任されていました。
李牧は、匈奴が襲って来た際に、人々をすぐに避難させ被害を防いでいたのです。
ですが、毎度逃亡するため匈奴から見下され、趙内部からも李牧は弱腰だと非難され更迭されました。
そこで李牧は再任された際に、複雑な陣形を張り巡らし、匈奴の大軍を葬り、趙の強さを見せ付けたのです。
また匈奴は、秦の蒙恬将軍からも討伐され弱体化したのですが、冒頓単于が匈奴を強勢にし、前漢の初代皇帝高祖劉邦にも大勝利しました。
悼襄王は、匈奴の大征伐で戦果を獲得していた、李牧(りぼく)に燕攻撃を任せることで、燕の城をいくつも占領したのです。
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悼襄王の息子の幽繆王は李牧の大名声を畏怖していたため郭開の批判を利用して最後をあげたのです
悼襄王の子供の幽繆王は、百戦錬磨の李牧の有能さを警戒していたので、郭開の讒言を活用して死因を作り出しました。
幽繆王は、李牧を始末することで、一時の安心を得ましたが、李牧を無くした趙は王翦の敵ではなかったのです。
そして王翦は、幽繆王も捕虜とし、趙を滅ぼすことにも成功しました。
また幽繆王には、兄の公子嘉がおり、趙滅亡後に代で王となり、燕王喜と連携し秦に抵抗したのですが、王翦の息子の王賁に滅ぼされたのです。
悼襄王の息子の幽繆王は、李牧の能力の高さを恐れ、郭開(かくかい)の謀略を使い最期を送りましたが、趙を弱体化させてしまい王翦(おうせん)に敗北し捕虜となりました。
⇒郭開!趙滅亡史実、有能司馬尚、かくかい最期、李牧死因、廉頗も解説
名将廉頗を再任しようとした趙の悼襄王は郭開の謀略を見抜けなかったのです
悼襄王は、完璧の故事で知られる藺相如と刎頸の交わりだった、廉頗を取り戻そうとしましたが、郭開の妨害工作に遭いました。
郭開は、廉頗と仲が悪かったため、趙に帰れないようにわざと、廉頗の健康状態が悪いと悼襄王に思わせたのです。
実際廉頗はかなりの高齢だったので、郭開の邪魔を突破し趙に戻ったとしても、活躍出来なかった可能性があるでしょう。
また郭開は、李牧に比肩すると評価されていた、司馬尚をも陥れたと言われています。
ちなみに、司馬尚の子孫には、三国志の司馬懿もいる、と伝わっているのです。
悼襄王は、他国からも畏怖されていた、廉頗(れんぱ)を再雇用しようと計画しましたが、廉頗と不仲な郭開の策で立ち消えとなりました。
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春平君(しゅんぺいくん)は悼襄王から大事にされていたので呂不韋の元から趙に帰れたのです
悼襄王は、春平君を大切にしていたのですが、そのことで他の武将に嫉妬されてしまい、春平君は秦に送られていました。
そして呂不韋は、春平君を趙に戻せば、悼襄王の歓心を得られるだけでなく、趙の策謀からも逃れられると教えられたのです。
ですので、春平君は再び趙に帰ることが出来、悼襄王も妬みで動いても無駄だと、趙の側近たちに示せました。
ちなみに、呂不韋の食客の中には、性悪説荀子の弟子の李斯もおり、李斯は始皇帝嬴政の丞相に就任するほどの偉人、だったのです。
悼襄王が、呂不韋(りょふい)の元に来させられていた、春平君(しゅんぺいくん)を厚遇していたため、呂不韋も春平君を返し趙と親密になることを、選択しました。
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大言壮語した劇辛に最後をもたらした龐煖は悼襄王の先祖の胡服騎射で有名な武霊王からも評価されていました
悼襄王は、歴戦の勇将廉頗もいなくなったので、武霊王からも好印象だった龐煖を将軍としたのです。
そして燕には、郭隗の先ず隗より始めよで、昭王から登用されていた、劇辛がいました。
劇辛は龐煖と昔仲良くしていたため、龐煖になら容易に勝てる、と燕王喜に広言したのです。
しかし結果は、劇辛が龐煖に惨敗していまい、劇辛自身も最期を迎えました。
また、先ず隗より始めよで、燕の昭王に重用された大将軍には、三国志の諸葛亮も敬った楽毅もいます。
悼襄王は、胡服騎射導入の功労者武霊王(ぶれいおう)からも高評価されていた、龐煖(ほうけん)を用いることで、燕の昭王以来の重鎮劇辛(げきしん)に死因を与えたのです。
⇒武霊王!胡服騎射、餓死、趙雍最後、騎馬、秦昭襄王、読み方も解説
始皇帝嬴政の弟の成蟜が悼襄王を攻めましたが途中で反乱を行い秦に死亡させられました
悼襄王は、始皇帝の弟の成蟜から攻撃されたのですが、成蟜は趙に付き乱を起こしたのです。
しかしすぐに成蟜は、嬴政から攻められ、最後を与えられました。
秦は強国でしたが、始皇帝嬴政の一族からも裏切り者が出ているので、決して一枚岩とは言えなかったのです。
そして後に、始皇帝嬴政の腹心の昌平君も、楚王となり項燕と共に反旗を翻しました。
また更に後に、項燕の子孫の西楚の覇王項羽が、秦を壊滅させるため、秦は本当の意味では他の戦国の七雄に、勝利していなかったのかもしれません。
悼襄王は、成蟜(せいきょう)から攻められましたが、成蟜は嬴政に反乱を起こし、即座に始皇帝から死因をもたらされましたが、秦の内部の弱さを露呈させることには成功したのです。
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廉頗の後任に楽毅の親戚の楽乗を趙の悼襄王は推しましたが廉頗は不快感を表し楽乗を攻めました
悼襄王は、趙の重鎮廉頗の立場を楽乗に変えたところ、廉頗は納得せず反撃に出たのです。
そして、廉頗は魏に鞍替えし、楽乗も趙からどこかに逃げ出してしまいました。
しかし、長年趙にいた有能な将軍が二人もいなくなったことで、龐煖や李牧が台頭する下地にもなったのです。
また、楽乗の親戚の楽毅が仕えた燕は、斉から大打撃を与えられた後、昭王が現れ大復興しました。
何か問題が起きたということは、それ相応に良い面が発生していることも、多いのではないでしょうか。
悼襄王は、勇将廉頗を解任し、楽乗(がくじょう)を代わりの将軍としましたが、廉頗の理解を得られず、楽乗まで失いましたが、李牧や龐煖が出世しやすい環境も出現しました。
⇒李牧と三国志!最強史実、最後無能、王翦死亡、万里の長城強さも解説
まとめ:史実の悼襄王(とうじょうおう)の評価と春平君と有能李牧の死因と息子の趙最後の王
悼襄王が、史実で趙をどのように運営し、他国に対抗したかを解説してきました。趙は武霊王の胡服騎射に代表されるように、軍が強いので、有能な将軍がいれば上手く立ち行くのでしょう。
そして李牧は、悼襄王から厚遇されていた名将でしたが、息子の幽繆王からは、敬畏されていたことも説明してきました。
結局、趙王の権力の方が大きかったため、李牧は能力の高さが仇となってしまったのです。
また悼襄王には、大事にしていた春平君がいたので、呂不韋も趙に帰国させる気になったことも述べてきました。
やはり、国の権力者と親しくしていると、何かあった際も助かるのではないでしょうか。
悼襄王は、廉頗と楽乗がいなくなった後も、後任に李牧と龐煖を見出したため、趙の有能な人物と言えるでしょう。