宋義!卿子冠軍、中国懐王、楚項羽、漢劉邦、項梁章邯、義帝も解説

宋義は義帝懐王の腹心であり、西楚の覇王項羽との権力争いに敗れた人物、でもあるのです。

武信君項梁が得意気で、章邯に隙を突かれそうだったので、宋義は訓戒を提供していました。項梁が宋義の進言を聞いていれば、項羽の傲慢さを封じられ、項羽の天下も長続きしたのではないでしょうか。

そして宋義は、項梁の敗戦を見抜いていたため、義帝懐王からも礼遇されたのです。項梁の負けが見えた宋義も、項羽の不意打ちは想定外だったのでしょうか。

また、斉と深く提携することで秦に対抗する宋義の策を、項羽は背反だと感じたのです。項羽は結果的には章邯に勝利しましたが、猛将項羽だからこそ秦に圧勝出来たのでしょう。

宋義を詳しく解説していきます!

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三秦の雍王章邯に武信君項梁が最後を与えられる前に宋義は慢心を警告していました

宋義は、項梁が秦に勝ち続け、秦を弱いと見下していたため、危険性を述べていたのです。

ただ、項羽の叔父の項梁は、秦の丞相李斯の息子の李由にも勝っていたため、皆が勢いで秦を打倒出来ると考えていました。

そして章邯は、項梁の前でわざと退却し、秦軍を侮っていた項梁を突撃させた上で、一気に殲滅したのです。

陳勝呉広の乱以来、勢いのあった反秦勢力は、項梁の最期によって形勢が逆転し、章邯から追い詰められていきました。

卿子冠軍の宋義は、覇王項羽の叔父項梁(こうりょう)が、李斯(りし)の子供の李由にも勝利し、驕り高ぶっていたので戒めましたが、三秦の雍王章邯の軍略で最後をもたらされたのです。

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宋義が増長を注意した武信君項梁軍の劉邦の部下曹参が李由に死因をもたらしたので丞相李斯は窮地に追い込まれたのです

宋義の警告を聞かず、武信君項梁は、章邯に大敗しましたが、項梁軍が李由に勝っていたことで、秦の丞相李斯は趙高から苛烈に責められました。

そもそも始皇帝嬴政の次の皇帝は、扶蘇だったのですが、李斯と趙高が悪知恵で、胡亥を二世皇帝に即位させたのです。

胡亥は扶蘇よりも劣った人物で、私利私欲を優先し、陳勝呉広の乱を招き、日夜家臣たちを糾弾し責任転嫁していました。

そこに李由の失態が舞い込み、趙高と胡亥は、天下の乱れを丞相李斯の責任に仕立て上げたのです。

卿子冠軍の宋義の忠告を受け入れなかった武信君項梁は、章邯(しょうかん)に負けましたが、李由への勝利が、李斯への胡亥(こがい)と趙高(ちょうこう)の責任追及に繋がりました。

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亜父范増と項梁が楚王に就任させた義帝懐王は宋義が項梁の最期を見通していたので厚遇しました

宋義は、項梁軍が横柄さを章邯に敗北する前に諫めていたので、義帝懐王からも好印象だったのです。

そして義帝は、春秋戦国時代の懐王が、秦の縦横家張儀の偽謀に誘導され悔しい最後を迎えたので、同じ懐王を名乗り反秦のシンボルを担っていました。

そもそも反秦勢力の先駆けとなったのは、陳勝呉広の乱だったのですが、あまり長期化せず鎮圧されていき、亜父范増と項梁は、王族を味方に出来ていないことが大きい、と考えていたのです。

卿子冠軍の宋義は、かつて縦横家の張儀(ちょうぎ)から騙し討ちに遭った、懐王(かいおう)の再来を現出していた義帝から、章邯に負ける前に項梁に諫言していたので、高評価でした。

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義帝懐王は信任していた宋義を失い項羽からも役割を終えたと思われ英布に最後をもたらされたのです

宋義は、懐王から厚遇され卿子冠軍に就任しましたが、項羽の勇猛さを統御出来ず、義帝の没落も招きました。

そもそも宋義は、項梁が戦死したため、項羽軍を抑える目的で、義帝懐王から卿子冠軍に任命されたのです。

ですので、項羽と宋義が争いになる可能性が高く、卿子冠軍になったことが、宋義の死因とも言えるでしょう。

無理に項羽と戦わず、宋義が機会をうかがっていれば、楚漢戦争で勝利した前漢の初代皇帝高祖劉邦に、仕えられたのではないでしょうか。

卿子冠軍(けいしかんぐん)の宋義は、懐王のために項羽陣営を強引に統率したので、宋義だけでなく義帝(ぎてい)の将来の栄華も、失わせてしまいました。

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卿子冠軍の宋義は章邯と張耳が攻撃し合い弱ってから攻める作戦を展開したのです

宋義は、章邯の鉅鹿攻めで、まずは張耳の趙軍と戦わせ、ダメージを受けてから漁夫の利を得るつもりでした。

しかし西楚の覇王項羽は、章邯が趙軍に勝てば、疲弊せずに勢力を拡大し、項梁もいないので一気に宋義軍も敗者となる、と主張したのです。

また、項羽の宋義への批判を宋義は重く考え、虎や狼や羊の話で、暗に項羽を威嚇しました。

並の武将であれば、宋義の威圧に屈したかもしれませんが、相手は西楚の覇王だったので、宋義が返り討ちに遭ったのです。

卿子冠軍の宋義は、張耳(ちょうじ)と章邯が潰し合った後に、便乗する予定でしたが、西楚の覇王項羽(こうう)は章邯の強大化を忠告していました。

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斉に息子の宋襄を派遣したことで宋義は西楚の覇王項羽から内通を疑われ最後を送られました

宋義は、章邯軍と張耳軍が対峙している中、子供の宋襄を斉に行かせ、楚と斉の連携を強化しようとしたのです。

ですが、項羽は宋義の行動を楚軍への裏切りだと判断し、義帝懐王の指示だと主張し、宋義を一気に討ちました。

また亜父范増と項羽は、後の反撃を恐れ、宋襄にも最期を与えたのです。

そして項羽は、破釜沈船で退路を無くし士気を高揚させ、章邯を撃破しました。

ちなみに、章邯は後に秦側でも趙高から責められ、項羽に降参し、塞王司馬欣や翟王董翳と共に、三秦の雍王に即位したのです。

卿子冠軍の宋義は、宋襄(そうじょう)を斉に訪れさせたことで、西楚の覇王項羽に内通と思われ、息子共々最期をもたらされました。

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前漢の初代皇帝高祖劉邦は楚漢戦争の敵だった項羽の罪に宋義を斬ったことも含めていました

宋義は、西楚の覇王項羽との権力闘争に敗北しましたが、後に劉邦は項羽を断罪したのです。

西楚の覇王項羽は、秦王子嬰と同族にも最後を訪れさせ、楚の恨みを晴らし、義帝懐王に代わり論功行賞を行いました。

しかし項羽は、自分と親密な者ばかりを重要な領地に配置し、特に劉邦は漢王として辺境に遠ざけられたのです。

そして項羽は、あまり人心掌握に長けていなかったので、猛将の彭越だけでなく英布も、劉邦に奪われていきました。

人生は長いので、一度大勝しても、後にすべてが覆ってしまうこともあるのでしょう。

卿子冠軍の宋義は、斉との共謀を疑われ項羽に討たれましたが、楚漢戦争の勝者の劉邦(りゅうほう)が項羽の罪として非難したのです。

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まとめ:宋義(そうぎ)は卿子冠軍と中国の義帝懐王と漢劉邦楚項羽と武信君項梁

宋義が卿子冠軍として、どのように能力を発揮したかを解説してきました。西楚の覇王項羽以外の将軍なら、宋義も上手く統率出来たのではないでしょうか。

そして義帝懐王は、宋義がいなくなると孤立してしまい、項羽から追い込まれたことも説明してきました。

秦を滅亡させる戦が、もっと長期化していれば、宋義に代わる腹心が義帝懐王の元に現れていたかもしれません。

また、項羽が急に宋義に最後を加えた件も、劉邦が罪としていたことも述べてきました。楚漢戦争で項羽が勝っていれば、劉邦の行状の方が罪とされていたでしょう。

宋義は、懐王から厚遇された有能な卿子冠軍だったので、長生きしていれば、義帝を中華全土の皇帝として支えられたのではないでしょうか。

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