武霊王!胡服騎射、餓死、趙雍最後、騎馬、秦昭襄王、読み方も解説

武霊王こと趙雍は、胡服騎射を導入し、他の戦国七雄を圧倒する騎馬軍団を趙に誕生させました。

強力な騎馬隊に変貌させる胡服騎射を、武霊王は簡単には、趙に取り込めなかったのです。ですので武霊王は、伝説的な人物の舜と禹の話で巧みに、側近を説得しました。

そして武霊王は、秦攻略を計画した際に、直接昭襄王と非公式に会ったのです。しかも、昭襄王に武霊王と気付かれない手法を用いたため、上手く秦王を出し抜きました。

また、中山国を確保したかった武霊王は、胡服騎射で夢を実現したのです。趙が、李牧が将軍の時にも強かったのは、胡服騎射の基礎があったからではないでしょうか。

ちなみに、武霊王の読み方は、ぶれいおうです。

武霊王を詳しく解説していきます!

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聖帝の舜と黄河を治水した禹が異なる仕来りに上手く適応したように武霊王も胡服騎射を導入したのです

武霊王は、胡服騎射を活用した方が趙の軍事力が上がる、と計算していましたが、趙の人々からの批判も恐れていました。

実際、公子成は武霊王の親戚でしたが、趙より劣っているはずの異民族のやり方を取り入れることに、反対したのです。

ですが武霊王は、聖帝の舜や古代の大洪水を治めた禹も、異文化に合わせることで、天下を掌握したと語りました。

ちなみに、舜は父親から嫌われていたのですが、父への孝行を忘れなかったため、堯帝から認められ禅譲されたと伝わっています。

武霊王こと趙雍(ちょうよう)は胡服騎射導入を、公子成からも非難されましたが、夏王朝建国者の禹(う)や五帝の舜(しゅん)の事例を挙げることで、趙に浸透させたのです。

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昭襄王の即位に貢献した武霊王は胡服騎射で秦を倒すための下調べも直に行いました

武霊王は、秦の後継者として昭襄王を推薦し、見事に就任させることに成功し、身分を偽って偵察もしたのです。

そして秦の昭襄王は、面会した使者の中に凄まじいオーラの人物がいたため、不思議がっていたとも伝わっています。

また昭襄王は、武霊王が最後を迎えた後の趙を、大将軍白起に攻撃させ、長平の戦いで趙括に大敗北を与えたのです。

実際に武霊王が昭襄王との会見の際に、無理にでも胡服騎射で秦を攻めていれば、趙の大敗を防げただけでなく、中国統一を達成してもいたのではないでしょうか。

武霊王は、秦の王位継承にも介入し、昭襄王即位を達成し、昭襄王は白起(はくき)に命じ趙を長平の戦いで叩きのめしました。

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郭隗の先ず隗より始めよで楽毅と劇辛を招いた昭王は武霊王のおかげで燕王に即位したとされています

武霊王は、斉の湣王により壊滅状態に陥っていた燕を援護し、昭王が燕王に就任したため、奇跡的な復興を遂げたのです。

昭王は、大ダメージを被った燕を復活させるために、郭隗に大賢者を集めるように要請しました。

すると郭隗は、自分のような賢者とは言えない人物から厚遇することで、本当の大賢者が現れると述べたのです。

そして燕の昭王は、楽毅や劇辛を登用することに成功し、最終的に斉を滅ぼす寸前にまで追いやりました。

武霊王は、昭王が燕王に即位するきっかけを提供し、昭王は先ず隗より始めよを実行することで、劇辛(げきしん)や楽毅(がくき)大将軍を訪れさせ斉への報復も成し遂げたのです。

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武霊王は胡服騎射を採用していたため中山国を併合出来るほどの騎馬軍団を獲得していたのです

武霊王は、一族の批判にも上手く対処し、胡服騎射を手に入れ、中山国も勢力下に収めました。

中山国は、趙軍が何度も攻撃していた国なので、武霊王は趙に念願の勝利をもたらしたのです。

そして、燕の昭王の元にいた楽毅大将軍は、中山国に仕えていたとも言われています。

武霊王が中山国を滅亡させていなければ、昭王が楽毅と出会うこともなかったかもしれません。

また楽毅は、昭王の息子の恵王との折り合いが悪かったため、武霊王のいた趙に亡命し、上手く文書で志を示したので、燕と趙の両方で重用されたのです。

武霊王は、中山国を胡服騎射で趙に併合し、中山国の遺臣楽毅は昭王に味方し、燕を大勢力とすることに貢献しました。

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楚の懐王が秦の昭襄王の元から亡命して来た際に武霊王は留守にしていたため受け入れられませんでした

武霊王は、代を訪れている最中で、秦から逃亡していた楚の懐王と、会えなかったのです。

もしも、楚の懐王を味方としていた場合、趙と楚の強力な合従が成立し、秦の中華統一を阻めたのではないでしょうか。

そして恵文王には、廉頗と藺相如と趙奢が現れ、秦の昭襄王と対抗出来たため、楚の懐王を受け入れたとしても勝機があったと言えます。

また、二世皇帝胡亥の秦が乱れた際に、西楚の覇王項羽と范増は、楚の懐王の子孫を発見して秦攻撃軍の象徴にしたのです。

ちなみに、范増と覇王項羽に擁立された懐王は、後に義帝に就任しました。

武霊王は、懐王が昭襄王から逃れて来た際に、代に行っていたので、後に楚と合従し秦を撃破する機会も失ってしまったのです。

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夢の美女孟姚に武霊王は心を奪われ公子章から恵文王に後継者を変更し餓死な最後を招いたのです

武霊王は、公子章を後継者としていましたが、夢で美人な孟姚と出会い現実でも見つけたため、孟姚との息子である恵文王を後継者に変えました。

しかし武霊王は、公子章を可愛がる気持ちも有していたので、公子章にもある程度の地位を与えたのです。

そして公子章は、武霊王を味方とするチャンスと考え、恵文王に最期を送ろうとしましたが、逆に返り討ちに遭い、武霊王を餓死に巻き込んでしまいました。

公子章への情による甘さで武霊王は、恵文王から追い詰められたため、今更公子章を見捨てられなかったのでしょう。

武霊王は、美女の孟姚(もうよう)との子供の恵文王を重用し、後継者に決定しましたが、公子章も大事に考えていたため、趙を混乱させてしまい、餓死な最期が来たのです。

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恵文王を趙王として大成させるために武霊王は隠居して主父となりました

武霊王は、恵文王に上手く、趙を運営していく力を身に付けさせる目的で、主父に就任したのです。

この時点で、武霊王と恵文王の二人で、趙を統治しているような状態でした。

更に武霊王は、公子章にも力を与えるような人事を、行ってしまったのです。

胡服騎射の導入から中山国併合や、燕の昭王と秦の昭襄王即位と、武霊王はあまりにも順風満帆過ぎたため、最後に破綻が来たのでしょうか。

もしも武霊王が、本当に引退し恵文王に全てを渡していれば、恵文王から警戒されず、助けてもらえたかもしれません。

武霊王は主父に退き、恵文王を跡継ぎとし、公子章を復権させましたが、後継者問題が発生し晩節を汚したのです。

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まとめ:武霊王(ぶれいおう)の胡服騎射と趙雍の騎馬と餓死な最後

武霊王が、どのようにして胡服騎射を採用し、中華に名を響かせたかを解説してきました。異民族のやり方でも、良い方法は取り入れる柔軟さが、武霊王の強味でしょう。

そして、燕の全盛期を現出した昭王は、武霊王の助力で燕王になれた、と言われていることも説明してきました。

燕の昭王が斉を占領していた際に、武霊王と合従していれば、趙と燕と斉の大合従が成立したのではないでしょうか。

また、夢で会った孟姚に心酔し、武霊王が無理に恵文王を後継者にしたことも、述べてきました。

孟姚に出会っていなければ、趙が揉めず、武霊王も安泰な晩年を過ごせたのではないでしょうか。

武霊王こと趙雍は胡服騎射で、他の戦国七雄を凌駕する騎馬軍団を趙にもたらしたため、趙の英雄の中でも天下にかなり近かった武将、と言えるでしょう。

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